藍子は龍司から借りたハンカチを握りしめながら、顔を下に向けた。

「すみません、私、須佐さんがどうして『後悔したら、使って』っていうメモを書いてくれたのかわかった今でも怖いんです。いやなんです、誰かの心の声が聞こえるのが。誰かの本性を知ってしまうのがいやだし、その人の聞いてほしくない本心を盗み聞きしているようでいやなんです。

 天尾さん、こんなに私に親身になってくれるのに、仕事の手伝いのお返事もしていないのに、本当にすみません」

「気にしなくてもいいよ。別に仕事を手伝ってほしいから、親身になっているわけではないし」

 藍子は再び顔を上げて龍司を見た。

 龍司は首を縦にも横にも振らない。表情を見ても、戸惑っているのか何かを言おうとしているのかわからない。

 ただ、須佐と同じ色の優しそうな瞳で藍子を見下ろしているだけだ。

 藍子は龍司に対して、ますます申し訳ない気持ちになった。


「でも、仕事、手伝ってほしいんですよね? 本当のこと言ってください」

 藍子は気付くと龍司の腕を掴みながら言っていた。

 何でこんなことを言っているんだろう、と藍子は自分でも不思議だった。

 龍司が「別に仕事を手伝ってほしいから、親身になっているわけではない」と言っているなら、それで良いではないかと思う。

 自分のいやな心の声が聞こえる体質で龍司の仕事を手伝わなくても良い。龍司は自分に優しくしてくれるし、今まで起きた奇妙な出来事も龍司なら直に解決してくれるだろう。

 でも、このままでは悪いような気がした。龍司に悪いというのももちろんあるが、自分に悪いような気がした。

 このままでは、『後悔したら、使って』とメモを残した須佐が一番恐れていたことが、本当に起こってしまうのではないか。

 藍子はそんな気がしてならなかった。

 もしかすると、龍司に強く「仕事を手伝ってほしい」と言われたら、自分の中で何かが吹っ切れるのではないかと考えたのかもしれない。

 藍子は龍司の腕を掴みながら、自分はずるい人間だと思っていた。

 自分の体質を受け入れることを完全に拒絶することもできないから、龍司に頼ろうとしているのだ。


「正直に言うと、仕事はもちろん手伝ってほしいよ」

 龍司が静かに口を開いた。

 その口調には、普段の龍司の穏やかさとは違う力強い意志のようなものが感じられる。

 やっぱり、龍司は本当に仕事を手伝ってほしいのだ。

 でも、龍司の返事を聞いても、藍子は自分の気持ちがまだ揺れ動いているのを感じた。

 龍司が「仕事はもちろん手伝ってほしい」と言った後でも、自分は体質を受け入れることも完全に拒絶することもできないようだ。

 藍子は諦めるように龍司の腕から手を離して、顔をうつむかせた。


「そうですよね。すみません、こんなこと、訊いてしまって」

「ううん。でも、今までだったらそこまで手伝ってほしいとは思わなかったんだけど、今回は事情が違うんだ」

「えっ?」

 事情が違うとはどういうことだろうか。

 意外な言葉に藍子は再び顔を上げて龍司を見た。

「この事務所の元所長だって、全ての仕事の依頼に心の声が聞こえる体質を使っていたわけじゃないよ。元所長が心の声が聞こえるのは基本的に秘密だったし、知っているのは特別なクライアントだけだったんだ。第一、俺みたいな一部の人間の心の声は聞こえないから、全てのクライアントの依頼を受けられるわけじゃないしね。

 俺が事務所を引き継いだ後は元所長しかできない仕事は事情を話して断っていたし、それでも全然やって行けていたんだけど、今依頼が来ている仕事はどうしても断りたくなかったんだ」

「どうしてですか?」

「仕事を依頼してきているクライアントが、ある養護施設にたくさん寄付をしているんだけど、仕事が解決しないと経営が傾いて寄付ができなくなってしまう可能性があるんだ。そうなると、養護施設の運営ができなくなる。

 その養護施設がなくなるのはいやなんだ。俺もいやだし、元所長もいやだと思う。でも、元所長は相変わらず行方不明のままだし、やっぱり依頼を断ろうか別の方法を一から考えようかと思っていた。そこに藍子ちゃんが現れたから、仕事を手伝ってほしいって話をしたんだよ」

「そう、だったんですね。でも、どうしてそんなにその養護施設にこだわるんですか? それに私、例え天尾さんの仕事を手伝ったとしても、上手く行くかわからないですよ。私、強くないですし」

「強くない?」

「さっき私、自分の体質で誰かの本性を知ってしまうのがいやだし、その人の聞いてほしくない本心を盗み聞きしているようでいやだって言いましたよね? でも、それって結局は自分がいやで怖くて傷付きたくないからなんです。自分がいやな思いをしたくないから、心の声を聞きたくないんです。

 結局、私、自分を守ることしか考えていないんです。自分が傷つくのが怖いんです。自分のことばかり考えている弱い人間なんです。私、天尾さんや元所長みたいに強くないから、迷惑かけてしまうかもしれませんよ?」


 藍子は座っていたソファから立ちあがって、龍司に背を向けた。

 どうしてこんな話をしてしまうのだろうか、と藍子は自分を心の中で責めた。

 せっかく龍司がこんなに自分に優しくしてくれているのに、仕事を手伝ってほしいのだって「藍子ちゃんなら信頼できる」と言ってくれているのに。どうして自分はこんな嫌味に聞こえるような言葉を口にしてしまったのだろうか。


 でも、やっぱり誰かの心の声が聞こえるのが怖い。

 自分がさっき龍司に言ったことは全て本心だ。自分は弱い人間だと思うし、龍司の仕事を手伝ったとして上手くできる自信がない。


 多分、自分は悔しいんだろう、と藍子は思った。

 須佐が『後悔したら、使って』というメモまで残してくれたのに、やっぱり他人の心の声が聞こえる体質がいやだと思っている自分が悔しいし、怖いと言っている自分が悔しい。


 そして、龍司や龍司の事務所の元所長が強いのが悔しいのだろう。


 自分には、心の声が聞こえる体質を使って仕事をしようなんて強さはない。

 誰かを助けたり救ったりするために、心の声が聞こえる体質を積極的に使おうと思えるような強さを持ち合わせていない。


 いや、龍司や龍司の事務所の元所長が強いのが悔しいのではなく、自分が弱いのが悔しいのだ。

 さっきは龍司に強く「仕事を手伝ってほしい」と言われたら、自分の中で何かが吹っ切れるのではないかと考えたのに、実際に言われても自分の心はまだ揺らいでいる。

 そんな自分が本当にいやだ。

 心の声が聞こえる体質もいやだけど、もしかすると体質で悩んでいる弱い自分が一番いやなのかもしれない。


 自分には龍司のように「雨が降ったって、何かが変わったり悪くなったりするわけでもない」と言って、何でもないような表情で傘を広げられるような強さは持ってない。

 こんな弱い自分なのに、どうして龍司はここまで気にかけてくれるのだろうか。

 どうして須佐は『後悔したら、使って』なんてメモを残したのだろうか。


「別に、俺は強くないよ」

 龍司の言葉に、藍子は思わず振り返った。

 あまりにも意外な言葉を聞いたので、藍子はさっきまで張りつめていた気持ちが緩んだような気がした。

「えっ?」

「藍子ちゃんの気持ちはわかったよ。でも、そんなに自分を責めなくていいよ。俺だって、藍子ちゃんが思っているほど強くはないんだ。もしなら、その辺いろいろと話したいんだけど、今日はもう遅いから、また明日話そうか?」

「あっ」

 藍子は自分の腕時計を見た。もう、終電が出る時間だ。

 この間もあっという間に終電の時間になったが、龍司と話していると本当に時間が経つのが早いな、と藍子は思った。


「また、駅まで送るよ。明日、バイトとかでこっちに来る予定はある?」

「はい、授業が終わった後、夕方からバイトを入れてあります」

「バイト始まる前に、少し時間はある?」

「授業が14時前に終わるので、バイトが始まるまで2時間くらいなら時間あります」

「じゃあ、明日14時半にこの事務所のビルの前で待ち合わせしよう。ちょっと、ついて来てほしいところがあるんだ」

「ついて来てほしいところ、ですか?」

 藍子は龍司の話をすぐにでも聞きたい気持ちだったが、終電の時間が迫っている。

 龍司に急かされるまま、藍子は事務所を後にした。

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