「何か、思い出した?」

 龍司に声を掛けられて、藍子は我に返った。

 藍子の周りに再びアールグレイとアンジェリークの香水の匂いが漂い始める。

「はい、あの」

 藍子は言いかけて、言葉を詰まらせた。

 今、考えていたことは、自分にとってはかなり残酷だ。

 言葉にして、自分の耳で聞くのさえ辛いような気がする。

「言いにくければ、無理に言わなくても大丈夫だよ」

 龍司が言うと、優しそうな瞳の色が薄い茶色から濃い緑色に変わる。

 藍子は龍司の瞳の色が変わるのを見ながら、やっぱり言おうと思った。

 こんなに自分に優しくしてくれる龍司には、例え辛くても自分の考えていることを言わないといけないような気がする。

 藍子は静かに口を開いた。


「須佐さんの奥さん、私が須佐さんと出会う前に病気で亡くなっていたんです。須佐さん、奥さんのことを話す時、いつも悲しそうでした。しかも、まるで奥さんが亡くなったのが自分のせいだったみたいに話していたんです。私、それを見るたびに、やっぱり須佐さんに」

 藍子は再び言葉を詰まらせた。

 龍司が「どうかした?」という表情で藍子を見たので、藍子は慌てて龍司から視線を逸らした。

 思わず、「私、それを見るたびに、やっぱり須佐さんに好きなんて言えないと思っていたんです」と続けそうになってしまったのだ。

 さすがにこの部分は言えないな、と藍子は思った。


「私、どうして須佐さんは奥さんが死んだのを自分のせいみたいに話すんだろうってずっと思っていたんです。だって、奥さんが病気で亡くなったのなら、須佐さんが悪いわけじゃないですし。

 でも、もしもですよ、須佐さんが自分に未来が見える体質があるのを私みたいにずっといやがっていたら。天尾さんの事務所の元所長の体質を消した人に未来が見える体質を消してもらっていたら。そして、消した後に奥さんの病気が発覚していたなら。

 須佐さん、自分が体質を消していなかったら奥さんの病気のことが見えて、奥さんの命を救うことができたのにと後悔すると思うんです。奥さんが亡くなったのは自分が未来が見える体質を消したせいだと考えるんじゃないかと思うんです」


 龍司は藍子が話すのを、黙って聞いていた。

 二人がいる事務所の中は、ただ静かだ。

 藍子の話す声と、時々二人のどちらかが紅茶の入ったカップを持ち上げたり置いたりする音だけが微かに響いた。


「奥さんの死で後悔した須佐さんは、消してしまった体質をもう一度取り戻そうとしたんだと思います。それで、前に天尾さんが話していた石月という人の家に行って、このICチップを持ち出したんじゃないんでしょうか。須佐さんが、どこで石月という人がそんなICチップを持っていると知ったかはわかりませんが。

 未来が見える体質を取り戻した須佐さんは、奥さんを助けられなかったせめてもの罪滅ぼしをしようとしたんじゃないかと思います。周りの人に『親戚が占いで言っていた』と自分の体質で見えた未来を伝えていたんじゃないんでしょうか。

 だから、私にこのICチップを託したんだと思います。リズのサインCDに細工して、私の誕生日プレゼントにして、『後悔したら、使って』ってメモを付けてまで」

 藍子はそこまで言うと、うつむいて口を閉じた。


 もう、須佐は亡くなっているから、『後悔したら、使って』のメモはどういう意味なのかは永遠に訊けない。

 自分がさっきまで言っていたことも、今まであったことや見てきたことを踏まえての仮説にしか過ぎない。

 でも、多分、自分がさっき言ったことが答えなのだろう、と藍子は思った。


 須佐がなぜ自分に未来が見える体質は自然に消えたと言っていたのかも、今ならわかる。

 藍子は須佐に直接、他人の心の声が聞こえる体質がいやだと言ってはいないが、須佐は自分が体質をいやがっていたのはわかっていたはずだ。

 もし、須佐が正直に体質を誰かに消してもらったと言ったら、藍子は自分の体質もその人に消してもらいたいと須佐に頼むだろう。

 須佐が断っても、その体質を消すことができる人間を探し出そうとするだろう。

 須佐は藍子に、他人の心の声が聞こえる体質を消してほしくはなかった。

 自分が未来の見える体質を消して後悔していたから、同じ後悔を藍子にしてほしくなかったのだ。


(だから、須佐さんは良く「心の声が聞こえる体質には慣れたか?」って訊いてきたんだ)

 須佐は自分に心の声が聞こえる体質に慣れてほしかったんだ。慣れて、心の声が聞こえる体質を受け入れてほしかったのだ。

 受け入れて、須佐のように未来が見える体質を消して後悔してほしくなかったのだ。


 龍司は藍子の話をただ黙って聞いていたが、ふとソファから立ちあがると藍子の隣に座った。

 そして、ポケットからハンカチを取り出して、藍子に差し出した。

「使って」

 藍子はやっと自分が目にいっぱい涙を溜めているのに気付いた。

 藍子は頷いてハンカチを受け取ると、目元にハンカチを当てた。

 ハンカチからは微かにアンジェリークの香水の匂いがする。藍子は大好きな香りに触れて心に落ち着きを取り戻した気がした。


「ありがとうございます」

「ううん、こっちこそ、言いにくいことを言ってくれて、ありがとう」

 藍子は思わず、隣に座った龍司を見上げた。

 龍司は前に仕事を手伝ってほしいと占いサロンで誘ってきた時、「藍子ちゃんは誰かの心の声が聞こえるのが好きではないんだね?」と言っていた。

 藍子が自分の心の声が聞こえる体質をいやがっているのもすぐに察していただろうし、もしかすると、須佐がどうして藍子に体質が自然消滅したと嘘を言ったのかも察しているかもしれない。


 前に龍司が話していた一言もしゃべらなかった子に自分が似ているからなのか、仕事を手伝ってほしいからなのか、もしくは他に理由があるのからなのかはわからない。

 でも、龍司がこんなに親身になってくれているのに、自分は龍司の優しさに答えてあげることができないと、藍子は情けなくなってきた。

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