②
藍子は男が去った後もその場を動けないでいた。
しばらく経って、藍子はふと肩を叩かれた。
飛び上がる程驚いて反射的に後ろを振り返ると、傘をさした龍司が立っている。
「藍子ちゃん、どうしたの? こんなところで。雨に濡れるよ」
藍子は龍司が傘を差し出してくれるのを見て、やっと雨が降って来ていることに気付いた。
「ありがとうございます。あの、実はさっきこの路地裏にあの男の人がいたんです」
藍子は慌てて路地裏の中を指さした。
「あの男の人って、もしかして、あのカバンをひったくった男?」
龍司は厳しい表情になると、路地裏の中を覗き込んだ。「あいつ、来ていたのか。藍子ちゃん、大丈夫だった? 何もなかった?」
「大丈夫です。ここに来たら何だかいやな予感がして、路地裏を覗いて見たらあの男の人がいたんです。私には気づかないでどこかへ行ってしまいました。よくわからないんですけど、たくさんの野良猫に囲まれて」
「野良猫?」
「はい、猫を見ている目は優しそうだったんですけど」
藍子は男が猫に囲まれている場面を思い出して、身体に鳥肌が立つのを覚えた。
確かに猫を見ている男の目は優しかった。でも、優しそうだからこそ、ますます不気味なものを感じる。
あの男は一体何者なのだろうか。
「藍子ちゃん、これからバイト? 何時まで?」
龍司が藍子に向き直った。普段穏やかな龍司だが、あの男がいたと知ったからなのか、少し焦っているような表情をしている。
「はい、今日は20時までです」
「その後、何か用事ある?」
「いえ、何もありません」
「じゃあ、バイトが終わったら、久住さんのお店で待っていて。もう少し話したいことがあるんだ。大丈夫?」
「はい」
「俺も仕事が終わったらすぐに行くから、俺が行くまで久住さんの店を出ないでね。取りあえず、これからサロンまで送るよ」
「えっ? でも、すぐ近くですし、大丈夫です」
藍子は慌てて首を横に振りながら、やっぱり龍司は焦っているんだと思った。
いつもはゆっくり話す龍司の口調が少し早口になっている。
それに、「もう少し話したいことがある」とか「俺が行くまで久住さんの店を出ないでね」とか、龍司はそんなにあの男を警戒しているのだろうか。
(もしかして、やっぱりあの男が須佐さんのICチップを狙っているの?)
龍司がこんなにも警戒する理由なんて、あの男がICチップを狙っている人物だからと言う理由しか考えられない。
第一、あの男は最初から怪しかった。自分のカバンをひったくったのだって、どう考えてもお金がほしいからという感じには見えなかった。
そう考えると、自分のカバンの中にあるICチップ目当てでカバンをひったくったと考えるのが妥当だ。
男はリズのサインCDにICチップが入っているとわかってカバンをひったくったのではないかもしれない。でも、藍子が何かしらICチップについて知っていると思い、手がかりをつかむためにカバンをひったくったのだろう。
藍子は自分の考えを口に出そうとしたが、どこであの男が聞いているかわからないので黙ったままでいた。
「良いよ、送るから。じゃあ、行こうか」
藍子と龍司は同じ傘に入って、藍子のバイト先の占いサロンへの道を急いだ。
藍子は龍司と歩きながら、周りを歩いている人が誰も傘をさしていないことに気付いた。
いつもと同じだ。龍司が来たから突然雨が降って来たのだろう。
(でも、さっき雨が降らなかったら、あの男は立ち去らなかったかもしれない)
藍子はふと雨が降らなかったらあのまま男に見つかっていたかもしれないと思うと、再び身体に鳥肌が立つのを感じた。
「今日のお客さんって知っている人ばかり?」
占いサロンに着くと、龍司が訊いた。
「はい、予約してくれているのは常連のお客さんだけです。でも、時間が空いたらその合間に飛び込みのお客さんも見るかもしれません」
「そうしたら、新しいお客さんには気を付けて。大丈夫だとは思うけど、俺から久住さんの奥さんにも連絡しておくよ。じゃあ、また後で。バイト、頑張ってね」
「ありがとうございます」
龍司は軽く手を振ると、スーツの胸ポケットからスマホを取り出し、誰かと何かを話しながら足早にどこかへと行ってしまった。
多分、龍司は自分をそれとなく見張ってくれているのだろう。
こんなに頻繁に会うなんて、普通ではあまり考えられない。
龍司に訊いても「そんなことないよ」と笑顔ではぐらかされそうだが、きっと自分が危ない目に遭わないか見ていてくれているのだろう。
そんなに自分のことを気にかけてくれるなんて、龍司がこの間話していた一言もしゃべらなかった子に自分が似ているからなのだろうか。
もしくは他の理由があるのだろうか。
どちらなのかはわからないが、会って間もない自分にこんなに気にかけてくれるなんて、藍子は龍司の背中を見送りながら再び心の中で礼を言った。
そして、何だか淋しい気持ちになった。
ICチップを狙っている人間から自分を守ってくれる人がいなくなって心細い気持ちもある。それよりも、淋しい気持ちが強いかもしれないと藍子は思った。
考えてみると、自分は須佐がいなくなってからずっと淋しい気持ちを抱えていたような気がする。
自分の心の声が聞こえる体質をわかってくれる人間が一人もいなかったからだ。
でも、龍司と出会えて、偶然とは言え龍司が自分の体質を理解してくれる人間だとわかった。さらに自分以外にも同じ体質の人間がいるとわかった。
もちろん、奇妙なこともたくさん起こった。怖い思いや嫌な思いもしたが、それでも龍司のおかげで須佐がいなくなってから感じていた淋しさが和らいだような気がする。
でも、今のこの淋しさ。
この淋しさは自分の体質を理解してくれる人間が傍にいなくなったから感じるだけの淋しさなのだろうか。
少し違う気がする、と藍子は思った。
この龍司がいなくなった淋しさは、一体どこから来る淋しさなのだろうか。
取りあえずバイトが終わったら、また龍司に会える。
藍子は自分に言い聞かせながら、占いサロンの扉を開けた。
占いサロンの扉を開けると、正面の壁には所属している占い師の顔写真と簡単なプロフィールを書いたポスターが貼ってある。
サロンのホームページに載っているものと同じだ。
藍子は何気なく壁に貼ってある自分の顔写真に目をやり、思わず目を見開いた。
(そうだ、あの写真だ!)
さっき猫と戯れていた、この間、自分のカバンをひったくったあの男。
あの時、男の顔をどこかで見たことがあるような気がしたが、この占い師用のプロフィール写真の自分に似ているのだ。
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