ビルの入り口の自動ドアが開くと、湿った空気が流れ込んでくる。

 雨はまだ降り続いているようだ。

「さっきの話の続きだけど」

 龍司は言いながらカサを開くと藍子に差し出した。

 二人は一つのカサに入って歩き始めた。

「はい」

 藍子はドキドキしながら返事をした。

 さっきエレベーターの中で龍司が「気になってね、藍子ちゃんが」と言っていたが、その話の続きだ。

 藍子は龍司が自分の何が気になっているのだろうか、とずっと考えていた。


「藍子ちゃんって、時々思いつめた感じでうつむくよね? それが気になって。さっきもうつむいていたけど、あの時、何を考えているの?」

 藍子は変な期待をしていた自分が恥ずかしくなった。

 龍司が気になっていたのは、自分の表情のようだ。

「何を考えているか、ですか?」

 藍子はさっき自分がどうしてうつむいたのか思い出してみた。

 確か龍司に仕事の返事をしなければいけないが、自分の心の声が聞こえる体質を使うには抵抗があると考えていたような気がする。


 そう言えば、と藍子は思った。

 こういうことを言われたのは、龍司が初めてではない。

 龍司は「思い詰めた感じでうつむく」と表現したが、例えば、友達のめぐみは「またどこかへ行ってしまったような顔をしていた」と言っていた。

 バーのマスターの久住にも、ついさっき「藍子ちゃんって時々そうやって急に考え事するよね」と言われたばかりだ。

 三人とも表現は違う。

 でも、この三人の発言には藍子にだけわかる共通点がある。


 藍子は三人に言葉を掛けられる直前、自分の心の声が聞こえる体質について考えていた。


 さっき龍司に「思い詰めた感じでうつむく」と表現された時も、めぐみに「またどこかへ行ってしまったような顔をしていた」と言われた時も、久住に「藍子ちゃんって時々そうやって急に考え事するよね」と言われた時も、自分は直前まで心の声が聞こえる体質について考えている。


「藍子ちゃん?」

 藍子は龍司に声を掛けられて、我に返った。

「すみません、実は友達のめぐみや久住さんにも似たようなことを言われたことがあって。そういう時、いつも心の声が聞こえる体質について考えていた気がします。あの、そんなに思い詰めているように見えますか?」

 藍子が言うと、龍司は頷いた。

「そうだね。俺にはそう見える。実は、前に同じような表情をする子がいてね。その子は子どもだったんだけど」

「子ども、ですか?」

「うん。その子、いつもずっと思い詰めたようにうつむいて、一言もしゃべらなかったんだ。周りの人はもうしゃべらないだろうって諦めていたんだけど、俺はどうしてもその子が気になって、話しかけたり遊び相手になったりしていたんだよ。そうしたら、少しずつしゃべるようになっていったんだ」


 藍子は傘をさしている龍司を見上げた。

 龍司の声に何となくかげりみたいなものを感じたからだ。

 でも、見上げた龍司の横顔はちょうど夜闇にかげってしまっていて、その表情は読み取れない。

「その子って、天尾さんの親せきか何かですか?」

「ううん、違うよ。その子、家庭に事情があって、いろいろとつらい目に遭ってきた子だったんだ。だから、ずっとうつむいて周りのいろいろなことを拒否していたんだと思う。

 でも、俺はその子と話したり遊んだりするのが楽しかった。そう思いながら接している内に、その子は少しずつ俺としゃべるようになって、俺以外の人やいろいろなことを受け入れられるようになっていったんだ」


 藍子は龍司の横顔を見上げながら、ただ黙って龍司が話すのを聞いていた。

 龍司はただ前を向いて話し続けている。表情も夜闇にかげってしまって、良く分からない。

 でも、藍子は何となく、この話に出てくる一言もしゃべらなかった子と龍司の間には何かしらの悲しいできごとがあったのではないかと思った。

 そうでなければ、龍司の声にかげを感じないはずだ。


「そんなにその子と私の表情って、似ているんですか?」

 藍子が言うと、龍司は藍子を見下ろして少しだけ笑って見せた。

 やっと見られた龍司の表情は、いつもと変わらない穏やかな表情だった。

「まあね。だから、藍子ちゃんがその子と同じ表情でうつむくのがすごく気になるんだ。確かに、誰かの心の声が聞こえてしまうのはつらいと思う。俺の事務所の所長だって、完全に全てを受け入れていたわけじゃない。

 でも、本当に絶対いやだと思っていたら、仕事を手伝ってほしいと言われた瞬間に断るはずだよ。相手が誰であろうとも、ね」

「そう、なんでしょうか?」

 藍子は口から出た言葉とは裏腹にそうかもしれないと思っていた。

 龍司の言う通り、自分はどうしてこんなに悩んでいるのだろうか。

 いくら龍司の傍にいたいからとはいえ、心の声を聞くのが本当にいやならその場で断っていてもおかしくないはずだ。


「だから、あの子と同じでいろいろなことを受け入れられないのがつらいのかな、と思って。ごめん、こんな話して。いやだった?」

「いいえ」

 藍子は慌てて首を横に振った。

 自分でも不思議だが、いやな感じはしない。

 今の自分の気持ちをどう表現すれば良いのだろうか。

 上手く表現できないが、自分の心の一部分にスポットライトのような強い光が当たったような、そんな感じがする。



 藍子と龍司はそのままゆっくりと駅への道を歩いた。

「駅、着いたよ。時間、大丈夫?」

 龍司に声を掛けられると、いつの間にか辺り一面が明るくなっている。

 藍子が顔を上げると、新潟駅南口の入り口近くまで来ていた。腕時計を見ると、まだ終電前の時間だ

「はい、まだ間に合います。あの、今日は本当にありがとうございました」

 藍子は龍司に向かって深々と頭を下げた。

「いいよ、気にしないで。前に名刺渡したけど、何かあったらいつでも連絡しても良いから。俺ももう少し調べてみるけど、何かわかるまでは気を付けて」

 龍司はさしていた傘を藍子の手に握らせた。

「傘、大丈夫です。もうちょっとで駅の中ですし、最寄り駅までは家族に迎えに来てもらいますし」

 藍子は慌てて龍司に傘を返そうとした。

「俺の家もすぐそこだから、次に会った時に返してくれればいいよ。じゃあ、気を付けて」

 龍司は言うと、小雨の降っている道を特に急ぐ様子も見せずに歩き始めた。

 藍子はやっぱり龍司に傘を返そうとも思ったが、終電の時間も迫っていたので、龍司の傘を握ったまま駅への道を急いだ。

 小走りに駅へと急ぎながら後ろを振り返ると、まだ遠くに龍司の後ろ姿が見える。


(だから、あの子と同じでいろいろなことを受け入れられないのがつらいのかな、と思って)


 藍子は龍司の後ろ姿を見ながら、さっきの龍司の言葉を思い出した。

 そして、言われた時に心に感じた、スポットライトのような強い光も思い出した。


 自分は龍司の言う通り、一言もしゃべらなかった子と同じなのかもしれない。

 一言もしゃべらなかった子は、周りのいろいろなことを拒否していた。

 自分も他人の心の声が聞こえる体質がいやで、その子と同じように拒否したいと思っている。

 でも、一言もしゃべらなかった子は、龍司が話したり遊んだりしている内に、龍司や周りの人を受け入れられるようになり、段々と話すようになっていった。


 自分もその子のように、他人の心の声が聞こえる体質を受け入れられるようになる日が来るのだろうか。

 もちろん、龍司の事務所の元所長のように全てを受け入れられないかもしれない。でも、少なくともいやだと嫌悪しないくらいまでには受け入れられるようになる可能性があるのかもしれない。 

 

 藍子は考えながら駅への道を小走りに駆けて行った。

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