藍子にICチップを手渡されそうになった龍司は首を横に振った。

「それは使わないよ。確かに元所長の体質が戻るかもしれないけど、このICチップは須佐さんが藍子ちゃんに渡したものだ。このICチップは藍子ちゃんが持っているべきだよ。元所長の体質が戻る術があるかもしれないってわかっただけでも、すごい発見だし」

「でも」

 確かにこのICチップは須佐が自分に託したものだ。

 でも、自分はこのICチップは使わないだろう。

 須佐はもしかするとこのICチップを使って、未来が見える体質を取り戻したかもしれないが、自分は体質が消えたとしても、ICチップを使って取り戻そうなんて思わない。

 それよりも、仕事で心の声が聞こえる体質を使っていた、龍司の事務所の元所長に渡した方が良い気がする。

 もちろん、元所長が見つかってからの話にはなるが。


(でも、どうして須佐さんは私にこのICチップを渡したんだろう?)

 しかも、大切なリズのサインCDに細工してまでだ。「後悔したら、使って」というメモまでつけている。

 須佐は自分が特殊な体質をいやがっていたのを知っていたはずだ。なぜ、体質が取り戻せるICチップを自分に渡したのだろうか。


 龍司はICチップを持ちながら戸惑っている藍子の手を取ると、手のひらにICチップを握らせた。

「本当にいいよ。そのICチップは藍子ちゃんが持っていて。自分には必要ないと思っても、須佐さんがメモまで付けて託したものだから、誰にも渡しちゃダメだ。もちろん、これを狙っている人間にもね」

 藍子は龍司の瞳の色が薄い茶色から濃い緑色に変わるのを見て、須佐を思い出さずにはいられなかった。

(何だか、須佐さんに言われているみたい)


「わかりました」

 藍子はICチップをタロットカードが入っているポーチの中に戻した。

 龍司は笑顔で頷いた。

「それでいいよ。でも、しばらくは身辺に気を付けていた方がいいな。俺ももう少し調べてみるから。今日は遅くまでありがとう」

 藍子は龍司の言葉を聞いて、部屋の掛け時計を見た。

「あっ、もう、こんな時間」

 もうすぐ終電が行ってしまう時間だ。ずい分遅くまで話し込んでしまったんだな、と藍子は思った。

「家まで送ろうか?」

「そんな、大丈夫です。ここから駅近いですし。念のため、家族に電話して家の最寄り駅までは迎えに来てもらいます」

 確かに夜道は怖いが、さすがにリュウジに家まで送ってもらうのは悪い、と藍子は思った。

 ここからなら駅は近いし、街灯も明るい。自分の家の最寄り駅に着いたら、家族に迎えに来てもらえば大丈夫だろう。

「わかった。でも、駅までは送るよ。俺も帰るし、通り道だから」

「ありがとうございます」

「じゃあ、行こうか」


 藍子と龍司は一緒に事務所を出た。

 ビルの中は相変わらずしんとしていて、ひんやりとした空気が立ち込めている。

「あの」

 藍子はエレベーターの中で龍司に話しかけた。「すみません、お仕事が忙しいのにこんなに長くまで話を聞いてもらって」

「忙しい?」

「さっきバーで天尾さんが仕事の電話に出たら、久住さんが『あいつ、相変わらず忙しいな』って言っていたんです」

「大げさだな、久住さん。そんなことないよ、気にしないで」

「天尾さん、お仕事、好きなんですね」

 藍子は仕事の話を振った瞬間に、龍司の瞳が輝いたのを見逃さなかった。


 占いのバイトを始めてわかったが、世の中の人間には仕事の話を振ると表情が曇る人と、瞳が輝き始める人がいる。

 瞳が輝き始める人は、明らかに仕事が好きな人だ。


 龍司は「お仕事、好きなんですね」と言った藍子を、少しの間、まじまじと見つめていた。

 どうして龍司はこんなに自分を見るのだろう。

 藍子はもしかして、自分がお仕事なんて言ったから、例の仕事を手伝ってもらいたい件を龍司が思い出したのだろうかと思った。


「今、俺の心の声、聞こえたわけじゃないよね?」

「えっ? 私、天尾さんの心の声、全然聞こえないです」

 藍子は慌てて首を振った。

「そうだよね。でも、どうして仕事が好きだってわかったの?」

「それは、占いしていてお客さんに仕事の話を振ると、仕事が好きな人って絶対に瞳がキラキラするんです」

 藍子はそこまで話して、思わず言葉を止めた。

 男の人に向かって瞳がキラキラするなんて、失礼ではなかっただろうか。


「藍子ちゃんって、すごいよね」

 藍子の考えとは裏腹に、龍司は意外な言葉を言って来た。

「えっ?」

「人の表情の変化で、そこまで読み取れる人ってなかなかいないよ。俺は仕事上、そういうのは出来るけど、普通の人だとなかなかできない。最初に会って話した時から、物事の見方とか考え方とか、すごく鋭いなとは思っていたけど」

「そんなことないです」

 藍子はうつむいた。

 予想外に褒められたのが恥ずかしくて、龍司の顔をまともに見られない。

「だから、俺の仕事を手伝ってほしいって思ったんだ」

 藍子は顔を上げた。

「でも、それは私が元所長と同じように心の声が聞こえるからじゃないんですか?」

「確かにそれが一番の理由だけど、人の心の声が聞こえるからって、仕事を手伝ってほしいなんて言わないよ。悪いけど、仕事の話をする前に久住さんやサロンの人に藍子ちゃんのことを訊いてみた。で、藍子ちゃんなら信頼できるし、仕事を任せても大丈夫だと思って声を掛けたんだ。ここ何日一緒にいるけど、やっぱり自分の見る目は正しかったと思っているよ」

 藍子は龍司からまた視線を逸らした。

 今度こそ、本当に龍司の顔をまともに見られない気持ちだった。

 龍司がこんなに自分を買ってくれていたのは意外だし、嬉しかった。


 でも、龍司はやっぱり仕事を手伝ってほしいのだ。


 藍子はうつむいた。

 龍司に仕事の件はどういう風に返事をすれば良いのだろうか。

 龍司の自分を褒める言葉は嬉しいが、だからと言って自分の体質を使うのは抵抗がある。


「すみません、お仕事の返事もしていないうちから相談に乗ってもらって」

「いいよ、この間も言ったけど、どうしようか迷っているなら、ゆっくり考えてからでいいから。それに、別に仕事を手伝ってほしいから相談に乗っているわけではないんだ。気になってね、藍子ちゃんが」

「えっ?」

 自分が気になるとはどういう意味だろうか。

 藍子は自分の胸の鼓動が早まるのを感じた。


 その時、エレベーターが目的の階に着いたことを知らせる音が鳴った。

 藍子と龍司の会話は一旦終わった。

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