⑤
店の外はポツリポツリと雨が降っていた。
アスファルトの上にいくつも滴の跡がついて行って、どんどん増えている。
龍司は持っていたビジネスバッグから折り畳み傘を取り出すと、何でもないような表情で広げて、藍子に差し出した。
「入っていく?」
「はい、ありがとうございます」
藍子と龍司は初めて会った時のように、一つの傘に入って
突然降り出した雨に、他の通行人は頭を隠すように小走りで通り過ぎて行く。
藍子は傘をさしている自分と龍司の周りだけ、時間がゆっくりと流れているような感じがした。
「あの」
藍子はふと龍司を見上げた。
「何?」
「あの、いつも雨なのを天尾さんはどう思っているんですか?」
藍子はずっと気になっていたことを訊いてみた。
もし、自分が龍司と同じくらいの雨女だったら、いつも雨だといやな気持ちになるのではないだろうか。
龍司は自分が雨男でも、まったく気にしていないように見える。雨が降っても何でもないような表情をして傘を広げるだけだ。
藍子は龍司が雨男のことをどう思っているのか気になっていた。
「特に何も思わないかな。小さい頃は自分が関わる行事の時にいつも雨が降るから、どうしていつも雨なんだろうって不思議には思ったけど」
「特に何も思わないんですか?」
藍子には龍司の答えが不思議だった。
急に雨が降って来たら髪や服が濡れてしまうし、何よりもあのどんよりとした曇り空を見ていると気持ちが暗くなってしまう。
龍司はそう思わないのだろうか。
「うん、雨が降ったって傘をさせばいいだけだし、傘がなくてもどこかに雨宿りすればいいし、服が濡れたら乾かせばいいだけだし、特に何も思わないよ。ちょっと雨が降ったって、何かが変わったり悪くなったりするわけではないし」
藍子は龍司の言葉を聞きながら、自分にはそういう考え方は出来ないな、と思っていた。
龍司は自分と違って精神的に強いから、特に何も思わないと言えるのだろう。
きっと龍司は自分や龍司の事務所の元所長みたいに、他人の心の声が聞こえる体質になったとしても、いやとは思わずに体質と正面から向き合えるのだ。
そして、自分みたいに仕事を手伝ってほしいと言われても、くよくよと悩んだりはしないのだろう。
藍子は龍司から視線を逸らすと、うつむいて目を伏せた。
藍子はうつむきながら、久住がアドラーのRainの曲について、自分と龍司の発言が全く同じだったと言ったことを思い出していた。
久住のバーで最初にリクエストした曲が、同じアドラーのRain。
アドラーのRainを自分の葬式で流したいくらい好きと言ったのも同じ。
久住の「どうして結婚式ではなくて葬式で流したいのか?」という質問に「リズがあの曲は別れの曲だから結婚式よりも葬式で流すのが相応しい」と言っていたのを覚えていたからと答えたのも同じ。
他にも龍司とは音楽の趣味が驚くほど似ているし、音楽に対しての感じ方も似ている。
(他の部分は違うのに)
自分には龍司みたいに突然降って来る雨を「特に何も思わない」と受け流すほどの精神的な強さはない。
藍子と龍司はしばらくの間、黙って並木道を歩いた。
「着いたよ。事務所、このビルの6階なんだ」
龍司は新潟駅にほど近い、大きな黒いビルの前で歩みを止めた。
この黒いビルなら、何度も前を通り過ぎたことがある。新潟の駅前にある建物の中でもかなり大きいビルだ。
久住のバーよりも駅に近いし、しかも6階に事務所があるなんて、本当に立地の良いところにあるんだなと藍子は思った。
龍司の住んでいる場所もこの黒いビルの近くなのだろうかと、藍子は思わず周りを見てしまった。
もう夜更け近い時間のせいか、ビルの窓の灯りはほとんど消えていた。
藍子が龍司に続いてビルの中に入ってみると、中はやけにしんとしていて、ひんやりとした空気まで感じられる。
二人がエレベーターに乗ると、龍司は6階のボタンを押した。
エレベーターに乗るまで誰にも会わなかったな、と藍子は思った。
多分、このビルも昼間はそれなりに人の出入りが激しいのだろう。でも、夜が更けた今は、昔からこのビルには誰もいなかったのではないかと錯覚してしまうほど静かだ。
エレベーターが6階に着いて、扉が開く。
藍子がエレベーターを降りて再び龍司の後ろを着いて行くと、龍司は6階の一番隅のドアの前で立ち止まった。
龍司はカバンからカードキーを取り出してドアを開けた。
ドアには看板みたいなものは何もついていなかった。
通された事務所は決して広くはなかったが、大きな窓があってきちんと整理されているせいか、部屋の面積の割には広く感じる。
室内のインテリアはほぼモノトーンで統一されていて、どれもセンスの良いものばかりだ。
藍子は部屋のインテリアにもその人の性格とか特徴が出てくるんだな、と思った。
藍子は龍司に言われるまま、来客用らしい革張りの黒いソファに腰を下ろした。
ソファは驚くほど座り心地が良く、手に触れた感じも滑らかだ。
藍子がソファの座り心地に感心していると、龍司がいつの間にか藍子の前のテーブルに紅茶の入ったティーカップを置いて行った。
礼を言って紅茶を一口飲んでみると、驚くほど美味しい。
それにしても、どうして紅茶なのだろうかと藍子は不思議に思った。
コーヒーでも緑茶でもなく、藍子が一番好んで口にしている紅茶がオーダーしたかのように出て来たのだ。
藍子は自覚はないが、もしかすると今までの龍司との会話の中で「紅茶が好き」と言ったことがあったのかもしれない。
龍司はそんな何気ない一言を覚えていたのかもしれない。
久住は「こんな時間まで仕事って、あいつ、相変わらず忙しいな」と言っていた。
龍司のこの客人に対する行動を見るだけでも、忙しい程仕事が舞い込んでくるのは頷けるような気がする。
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