「あれ? 龍司、どこ行った?」

 店の外に出た龍司と入れ替わりで、バーのマスターの久住がふらりと藍子に近付いてきた。

「仕事の電話が掛かってきたみたいで、外で話しています」

「そうなの? こんな時間まで仕事って、あいつ相変わらず忙しいな」

「天尾さん、仕事そんなに忙しいんですか?」

 忙しいのに私的な相談をしてしまった、と藍子は申し訳ない気持ちになった。

 しかも、自分は龍司の仕事を手伝うかどうかの返事もまだしていない。仕事を手伝う件を、龍司にどう断れば良いのだろうか。

 何度か仕事について考えたが、今まで散々辛い思いしてきたから心の声が聞こえる体質を意識的に使うのはやっぱりいやだった。

(天尾さんの言う通り仕事を手伝えば、助かる人もいるかもしれないし、何よりも天尾さんの役に立つし傍にいられるけど)

 でも、誰かの心の声を聞くのは怖い。

 藍子は考えているうちに、うつむいて目を伏せてしまった。


「藍子ちゃん?」

 久住に声を掛けられて藍子は顔を上げた。

 久住はいつの間にか、さっきまで龍司がいた向かいの席に座っている。

「あっ、はい」

「どうしたの? 藍子ちゃんって時々そうやって急に考え事するよね」

「すみません、でも、大丈夫です」

 答えになってないと藍子は思ったが、久住は藍子に気を使ってくれたのか、それ以上は突っ込んで来なかった。

「でも、藍子ちゃん、龍司とすっかり仲良くなったね、良かった」

 藍子は久住が言葉を聞きながら、龍司に特定の相手がいないのかが気になっていたことを思い出した。

 久住なら龍司と仲が良いから何か知っているはずだ。

 龍司はまだ戻ってくる気配がない。今がチャンスかもしれない。


「でも、天尾さんに付き合っている人がいたら、迷惑じゃないでしょうか?」

「ああ、あいつ? 今、付き合っている相手とかいないよ。藍子ちゃん、気になるの?」

「いえ、その」

 藍子は言葉を濁した。久住にそれこそ自分の心の声を聞かれたかのようで恥ずかしい。

 久住は店の入り口を振り返って龍司がまだ戻ってこないのを確認し、急に声を潜めて話を続けた。


「内緒だけど、あいつ、東京の大学にいた時から付き合っていた彼女がいたんだ。龍司が新潟に戻ってからもずっと遠距離で付き合っていて。でも、二年前に突然別れてね。その彼女は確か3ヶ月くらい前に別の男と結婚したんだよ」

「そうなんですか?」

 藍子は思わず身を乗り出す。

 龍司に特に付き合っている相手がいないと聞いて、藍子はほっとした。

 3ヶ月前と言えば、ちょうど藍子が当時付き合っていた同級生の彼氏に振られた頃だ。

 龍司にも同じ頃に自分と似た出来事があったんだ、と藍子は驚いた。


「そう。まあ、別れた後も結婚がわかった時も、全然落ち込んでいる様子はなかったけどね。忙しいって言うのもあるかもだけど、あいつもてるのに、前の彼女と別れてから誰かと付き合う気配がまったくないんだよ。だから、藍子ちゃんはどうかなって思って」

「えっ? どうして私が出てくるんですか?」

 藍子は突然自分の名前が出てきて驚いた。

「だって、二人ともこの店に初めて来た時にリクエストしたのがアドラーの『Rain(レイン)』だろう? しかも、『自分の葬式で流したい』って言ったセリフまで同じだし。この二人なら合いそうだなって思って」

「確かにそうですけど」

 藍子は自分の顔が赤くなるのを感じた。

 龍司と自分が釣り合うかは疑問だが、久住の「この二人なら合いそうだ」という言葉は正直嬉しい。


「でも、藍子ちゃんくらいの女の子だと、好きな曲は結婚式に流したいなんて言いそうだけど、どうして葬式だったの?」

「それは、リズがインタビューで『あの曲を結婚式で流したという人に何百人も会って来たけど、あの曲は別れの曲だから結婚式よりも葬式で流すのが相応しい』って言っていたのを覚えていたからです」

 久住は藍子の言葉を聞くと、急に笑い出した。

 藍子は自分が何か面白いことでも言ったのだろうか? と不思議に思った。

「久住さん、どうしたんですか?」

「いや、ごめん。だって、龍司も俺が『どうして結婚式じゃなくて葬式なんだ?』って訊いたら、今の藍子ちゃんと同じこと言っていたから、本当に同じだなって思って」


 その時、店のドアが開いて龍司が入ってきた。

 藍子の心の声が聞こえない人間の印であるアンジェリークの匂いが一段と濃くなる。

 一緒にアスファルトの湿った匂いも流れ込んで来た。

 龍司が店の外で話している間に、雨が降って来たらしい。

「あれ? 久住さん、どうして笑っているの?」

 龍司は藍子の向かいに座っている久住の頬が緩んでいるのを見て、不思議そうな表情をした。

「いや、何でもないよ。ただ、ちょっと良いことがあったんだ」

 久住は藍子に目配せすると、店のカウンターへと戻って行った。


 藍子は恥ずかしくて、戻って来た龍司の顔をまともに見られなかった。

 久住の言う通り、この店に来て最初にリクエストした曲が同じで、しかも曲についての言葉まで同じだなんて、こんなに感じ方が似ている人間は滅多にいないだろう。

 久住が「この二人なら合いそうだ」と思ったのも、わかる気がする。

 今、龍司には付き合っている相手がいないらしい。もし、龍司に好きな女性もいないのであれば、自分にも龍司と特別な関係になれる望みがあるのだろうか。

 藍子は考えながら、また胸をドキドキさせた。

 でも、自分ばかりこんなに胸をドキドキさせているが、龍司はどうなのだろうか。

 少なくとも、龍司は自分と一緒にいるのがいやではないのだけはわかる。

 一緒にいるのがいやだったら相談に乗らないだろうし、「俺の仕事を手伝ってくれないかな?」なんて誘って来ないだろう。

 ただ、いやではないにしても、龍司が自分に気を使っている可能性はある。

 龍司は仕事を手伝う話に対して、自分が良い返事をしてくれるのを期待しているはずだ。返事をしてくれるまでは、自分に親身になってくれているのかもしれない。

 もしくは、「仕事を手伝ってほしい」と言った時の自分の戸惑った反応に対して、悪気を感じているのかもしれない。


「藍子ちゃん、お待たせ。行こうか」

「はい」

 藍子は龍司に声を掛けられて、慌てて席を立った。

 藍子は久住に二人分のレモネードの会計を渡すと、龍司に続いて店を出た。

 店を出る時に久住を振り返ると、久住はニコニコしながら嬉しそうに手を振っていた。

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