藍子と龍司は一緒にバーの外に出た。

 外は昨日のように雨は降っていないものの、辺り一面に湿気の帯びた空気が漂っている。

 今にも、ポツリポツリと雨が降ってきてもおかしくない曇り空だ。


 藍子は今朝チェックした天気予報を思い出した。

 昼間、龍司が占いサロンに来た時も思ったが、今日は雨が降るような降水確率ではなかったはずだ。「いつものことなんだ。俺、雨男だから」と言った龍司の言葉は本当らしいが、ここまで来ると雨の神様でも憑いているのではないかと思ってしまうほどだ。

「また降りそうだな」

 龍司が星も月も見えない真っ暗な空を見上げる。

 二人が歩いている『けやき通り』と呼ばれる新潟駅へと続く街路樹の道は、平日の夜だからか人影はまばらだった。


「そうだ、あの」

 藍子は龍司に言おうとしていたことを思い出した。「実は私の父親が晴れ男で、姉は晴れ女なんです」

「そうなんだ」

「はい、親戚とか周りの人とかには結構有名で、特に姉がすごい晴れ女なんです」

「だから、俺が自分を雨男と言っても、あんまり驚かなかったんだね」

 藍子は確かに龍司が雨男と言っても、ただ単に「リズみたい」と思っただけで特に驚きもしなかったことを思い出した。

 龍司が自分の心の声が聞こえることを知っても、すでに元所長という前例を知っているから驚かなかったのに似ている。


「確かにあんまり驚かなかったですね。でも、もし雨男の天尾さんと晴れ女の私の姉が一緒にいたら、どうなるんでしょうか?」

「そうだな。でも、俺、自分で言うのも何だけど相当だからな。台風の進路を直角に招いたことあるし」

「あっ、私の姉も台風の進路を直角に曲げたことあります」

 

 その時、男が乗った自転車が藍子の横を猛スピードで通り過ぎて行った。


 自転車が通り過ぎた瞬間、藍子は自転車に軽くぶつかった。

 よろけて道路に倒れそうになってしまう。

「大丈夫?」

 龍司がとっさに支えてくれたおかげで、藍子は道路に倒れずに済んだ。

「あっ、ありがとうございます」

 藍子はふいに龍司との距離が近くなってドキドキした。


「まずい、逃げた」

 藍子を支えていた龍司が突然厳しい表情をすると、さっき藍子にぶつかった自転車の男を追いかけようとする。

「あの、大丈夫です。ただ、ぶつかっただけですし」

「大丈夫じゃないよ、カバン!」

「えっ?」

 慌てて自分の右肩を見た藍子は、さっきまで肩に掛けていたカバンがなくなっているのにやっと気付いた。

 あの自転車に乗った男が、ぶつかった瞬間にカバンをひったくったらしい。


(あのカバン、中に須佐さんからもらったリズのサインCDが入っている!)

 藍子は慌ててぶつかった男がどこに行ったのか確認しようと辺りを見渡したが、すでに男の姿はどこにもなかった。

 そして、龍司の姿もどこにもない。

 ぶつかった男だけでなく、あんな短時間で龍司までどこへ行ってしまったのだろうか。

 藍子が立ちすくんで辺り見渡していると、少しして遠くから何かが倒れる音が聞こえてきた。

 もしかして、龍司とあの男に何かあったのだろうか。

 藍子は慌てて倒れる音が聞こえて来た路地裏へと向かった。

 路地裏の入り口に、さっきぶつかった男が乗っていた自転車が倒れている。

 何かが倒れる音は、この自転車が倒れる音だったようだ。

 藍子が恐る恐る路地裏に入ってみると、さっきぶつかった男が龍司に両手首を掴まれているのが見えた。


 藍子はさっき自分にぶつかってきた男の顔を見た。

 暗くてそこまでは良く見えないが、カバンをひったくられたにも関わらず、思わずはっとしてしまうほど整ったきれいな顔立ちをしている。

 年齢は龍司と同じくらいだろうか。柔らかそうな茶色の髪に、服装はリーバイスのジーンズにコンバースのスニーカー。背は龍司よりも高いが痩せていて目つきが鋭い。

 服装だけでなく雰囲気も、隣にいるスーツ姿の龍司とはまったく真逆な印象だった。

 男は龍司よりも力がなくて逃げられないのか、既に逃げるのを諦めているのか、龍司に両手首を掴まれて大人しくしている。


 藍子はぶつかった男を全然知らないが、男の顔をどこかで見たような気がした。

 男の顔に似ている人を、どこかで見たような気がしてならなかった。


「カバン、取り戻したよ」

 龍司は男の手首を掴んでいるのとは反対の手で、藍子にカバンを差し出した。

「あっ、ありがとうございます!」

 藍子はカバンを受け取ると、慌てて中を確認した。

 カバンの中には財布も化粧ポーチも愛用しているタロットカードも、そして一番心配していた須佐からもらったサインCDもちゃんと入っている。

 カバンも見たところは特に壊れていないし、汚れていない。

 藍子はひとまずほっとした。


 カバンを取り戻して緊張が幾分か和らいだ藍子は、心の声が聞こえない人間の印であるアンジェリークの匂いが辺り一面に漂っているのに気付いた。

 龍司だけでなく、このぶつかった男も心の声が聞こえない人間のようだ。


「とりあえず、交番に行こうか」

 龍司が男の手を引っ張って路地裏を出ようとした。

 龍司はさっき藍子がカバンを取られて戸惑っている間の一瞬で、自転車に乗っている男に追いついたのだろうか。

 頭が良いだけでなく、身体能力も相当良いらしい。


 男は龍司に引っ張られると、弱々しい声を上げて抵抗した。

「すみません、許してください。人に頼まれただけなんです。知らない男にあの女の子のカバンを盗めば金をやるって言われただけなんです」

「そういう話は、交番でゆっくり話せばいいよ」


 藍子は龍司に引きずられるような形になっている男と目が合った。

 この男の人、どうしてこんなに私の顔をまじまじと見てくるんだろう、と藍子は不思議に思った。

 もしかして、この男は自分を知っているのだろうか。

 藍子が思ったその時、男は弱々しい表情から一変して不敵な笑みを浮かべた。

 そして、龍司に捕まれていた手首を振り払うと駆け出し、倒れていた自転車に飛び乗ってそのまま逃げてしまった。


「あっ」

 藍子と龍司は慌てて男を追いかけて路地裏を出たが、男の姿はもうどこにもなかった。

「あいつ、力ないようにしてたけど、ずっと逃げる機会を狙っていたのかな?」

 龍司が辺りを見渡しながら悔しそうに呟く。

「でも、カバンが無事で良かったです。本当にありがとうございました」

 藍子は龍司に頭を下げた。

「うん、カバンが無事で良かった。でも、一応警察には言っておこう。あの男、金に困っているようには見えなかったし、誰かに頼まれたってうそじゃないかな」

「そうですよね」

 藍子も龍司と同じことを考えていた。

 男は服装こそカジュアルで、髪も男性にしては少し長めで無造作に伸ばしているように見える。

 でも、着ているものはどれも新品のようだったし、清潔感もあった。

 痩せてはいたが不健康そうには見えなかったし、金銭がほしくて犯罪に走るほどお金に困っている感じはなかった。

 男は「あの女の子のカバンを盗めば金をやるって言われた」とは言っていたが、藍子や龍司が感じた通り、やっぱりうそなのだろうか。


「そうだ、藍子ちゃん、念のためカバンの中をもっと良く見ておいた方がいいよ。あいつ、俺が追い付いた時、カバンの中を探っていたんだ」

「あっ、はい」

 藍子は慌ててカバンを開けて、今度は中身が全て揃っているのか、一つ一つ丁寧に点検してみた。

 さっきカバンの中を見た時も思ったが、カバンの中身は最後に開けた時から入れているものの位置が変わっている。

 几帳面な藍子はカバンのどこに何を入れるのか大体決めているので、位置が違っているのはすぐわかった。

 位置が変わっているのは、あの男がカバンの中を探ったのが原因だろう。


 財布、化粧ポーチ、スケジュール帖、占いで使うタロットカード、そして、須佐からもらったリズのサインCD。

 一つ一つ点検したが、無くなっているものは何もなかった。

「大丈夫です、何も無くなってないです」

「良かった」


 藍子は念のため、須佐からもらったリズのサインCDをビニールの外袋から取り出し、CDが割れていないか確認しようとした。

 紙のジャケットを開いてみると、紙ジャケの端の糊付けされている部分が剥がれかけているのに気付いた。

「壊れた?」

 龍司が心配そうにCDを覗き込む。

「いえ、元々ここだけ剥がれそうだったんです」

 紙ジャケの右の端は須佐からプレゼントでもらった時から、糊付けの部分が剥がれてしまいそうな感じがしていた。

 このCD自体、『Rain(レイン)』が発売されたばかりの頃にリズがサインしたものだから、何十年も前の古いものらしい。

 でも、龍司に見せた時はここまで剥がれそうではなかったから、あの男がカバンの中を探る時に雑な扱いをしたのが原因なのだろう。


 多少いやな気持ちもするが、これくらいなら、また貼ってしまえば良い。

 それよりも、CDが無事手元に戻ってきて良かった。

 藍子がそう思いながらCDをビニールの外袋にしまおうとすると、剥がれそうだった部分が完全に剥がれてしまい、紙ジャケの中から何かが落ちてきた。


 藍子は道路にしゃがみ込んで、落ちてきたものを拾い上げた。

 落ちてきたのは、ラップに包まれた金属の薄い小さな板と小さく折り畳んだメモ紙だった。


 この薄い小さな板、きっとICチップだろう。

 今まで気づかなかったが、どうしてCDジャケットの中にICチップが入っていたのだろうか。

 藍子は不思議に思い、ラップをはがして折り畳まれているメモ紙を開いてみた。


 ――後悔したら、使って。

 小さなメモ紙には、そうひと言だけ書かれてあった。


(この字、須佐さんの字だ)

 少し癖のあるこの字、よく覚えている。


「須佐さん」

 メモ紙の字を見た途端、藍子の頭に須佐と過ごした懐かしい日々の思い出が蘇って来た。

 懐かしさのあまり、藍子は思わず須佐の名前を呟いてしまう。


「どうかした?」

 藍子は龍司に声を掛けられて、我に返った。

 顔を上げると、須佐と同じ瞳の色をした龍司が自分をのぞき込んでいる。

「あっ、すみません、このCDをプレゼントしてくれた方が書いたメモが入っていて、字を見たら、懐かしくなってしまったんです」

「そうだったんだ」

 龍司はそれ以上深く訊いて来なかった。


 本当に龍司は頭が良いんだな、と藍子は思った。

 龍司は藍子の様子を察して、あまり深く訊いても藍子が答え辛いだろうと思い、それ以上の詮索を止めたのだ。

 でも、多分さっきの自分の表情や仕草で、自分が須佐に特別な想いを抱いていたのがばれてしまったかもしれない。


「あの、よくわからないんですけど、CDの中にメモが入っていたんです。これって、ICチップですよね? 一緒に『後悔したら、使って』ってメモも入っていて。このCDをプレゼントしてくれた方が、わざわざCDの紙ジャケを剥がしてこれを入れたみたいなんです」

 藍子は慌てて言葉を続けた。

 須佐はもう亡くなっているし、龍司に初恋の人とばれたって構わないはずだ。

 なのに藍子は何となく隠したいような気持ちになった。

「これ、確かにICチップだよ。でも、どうしてCDに入っているんだろう? 何か心当たりある?」

「いえ、何も」


 藍子は自分が後悔することはなんだろうと考えてみたが、心当たりはない。

 でも、あの須佐が大切なリズのサインCDの紙ジャケにわざわざ細工までして入れたICチップとメモだ。

 絶対に何か意味があるだろう、と藍子は思った。

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