3.彼はいずこへ
①
藍子は立ち上がったまま、黙って龍司を見下ろし続けた。
どうして龍司は、自分の体質が条件付きで心の声が聞こえないと知っているのだろうか。
それに、龍司は心の声が聞こえることを知った時も、特に驚く様子を見せなかった。
もしかすると、自分の特殊な体質について何か知っているのだろうか。
藍子は一瞬、龍司に自分の体質を話したのは間違いだったのではないかと考えた。
龍司が自分の体質の例外を知っていると言うことは、自分のような体質の人間を調べているのかもしれない。
とてもそんな人間には見えないが、自分の体質を悪用しようと考えている人間の可能性もある。
藍子は自分の体質を嫌がっているが、心の声が聞こえる体質にも利点はある。他人が心の中で何を考えているか知りたい人間はたくさんいるだろう。
特に良からぬことを考えている人間にとって、自分の体質はいかようにも金儲けや誰かを陥れる道具になってしまう。
(どうしよう)
藍子はこの場から逃げ出そうとも考えたが、身体がすくんで動けない。
「驚かせて、ごめん」
龍司はイスから立ち上がって藍子の傍に行くと、動けないでいる藍子の肩を軽く支えてイスに座らせた。
藍子は思わず声を上げそうになる。
龍司の手が肩に触れた瞬間、心の声が聞こえない人間から漂って来る『アンジェリーク』の香水の匂いを感じたからだ。
藍子は大好きなアンジェリークの匂いに触れてイスに座ると、さっきよりも落ち着きを取り戻した。
龍司は藍子が落ち着いたのを確認すると軽く頷き、藍子の向かいに座り直した。
「どうして知っているかと言うと、色々と事情があるんだ。話が長くなるけど説明するよ。今日はそれが目的で藍子ちゃんに会いに来たんだ」
藍子は龍司に初めて『藍子ちゃん』と名前で呼びかけられたことに気付いた。
男性で藍子ちゃんと言って来るのは、須佐と気を許しているPenny Laneのマスターの久住くらいだ。
藍子は知り合ったばかりの異性が気軽にちゃん付けで呼べるような雰囲気の女の子ではない。藍子自身も良い気分がしなかった。
でも、今、龍司から藍子ちゃんと呼ばれても、全然いやな感じがしない。
昨日会ったばかりの人なのに、さっきあんなに驚くようなことを言った人なのに。
むしろ、須佐のように昔から親しくしている人に藍子ちゃんと言われているような親近感さえ覚えた。
「事情ですか?」
「うん。でも、これから話すことは誰かに口外してほしくないんだ。俺も藍子ちゃんのことは誰にも言わない。だから、藍子ちゃんもこれから俺が話すことは秘密にしておいてほしい。約束してくれるかな?」
「はい」
藍子は自然と頷いた。
もしかすると、龍司が言うことは嘘かもしれない。
こちらも誰にも言わないからそちらも誰にも言わないで、なんて約束は破ろうと思えばすぐに破ることができる。所詮、口約束だ。
でも、龍司の雰囲気や口調からは「俺も藍子ちゃんのことは誰にも言わない」と本気で言っている印象しか受けない。
なぜそう思ったのかは具体的に説明できないが、藍子の勘だった。
こういう時の藍子の勘みたいなものは、かなり当たるのだ。
(君が他人の心の声が聞こえるのは、僕と君だけの秘密にしようか)
藍子は龍司の秘密という言葉を聞いて、ふと須佐と初めて会った時を思い出した。
須佐は自分のピンチを救ってくれた後に、「他人の心の声が聞こえるのは、僕と君だけの秘密にしようか」と言っていた。
結局、須佐との約束は破ってしまうことになる。
藍子は須佐との約束を破ったことと、須佐以外の人間とまた秘密を共有することに後ろめたさを感じた。
でも、めぐみの友達が監禁されているのを知りながら知らんぷりするなんて、あの時の自分にはできなかったから仕方ない。
龍司は藍子が頷くのを見ると、カバンから名刺入れを取り出して、藍子に名刺を差し出した。
藍子が名刺を見てみると、そこには「
「あの、探偵さんなんですか?」
藍子は昨日の龍司と警察のやり取りや、普通の人間では考えられないくらい記憶力が良かったのを思い出した。
あの時、「龍司は一体何者なのだろうか」と疑問に思ったが、やはり普通のサラリーマンみたいな人ではなかったようだ。
「うん、今は俺の名前になっているけど、元は違う人が所長だったんだ。俺が高校の時に前の所長と知り合って、それがきっかけで引き継いでいるんだけど。
ところで、藍子ちゃんは今まで、自分と同じように心の声が聞こえる人間に会ったことはある?」
「いえ、ないです」
藍子は今まで未来が見える体質を持っていた須佐以外に、他人の心の声が聞こえるとか手を使わないで物を動かせるとか、そういう特殊な体質を持っている人物に会ったことがない。
例えば、友達のめぐみのように霊感が強い人間には何人か会ったことがある。
今バイトしている占いサロンUniverseを経営している久住の妻や、須佐の親せきで自分に占いを教えてくれた先生も霊感が強い。
でも、出会った人は霊感が強いだけで、自分のように他人の心の声が聞こえる人間は一人もいなかった。
「実は、俺の事務所の元所長が他人の心の声が聞こえる人間だったんだ」
龍司の言葉に驚いて、藍子はまたイスから立ち上がりそうになった。
「それ、本当ですか?」
「証明するものは何もないけど、本当だよ。でも、元所長も俺みたいに雨男だったり、例えば霊感が強かったりする人の心の声は聞こえなかったから、それが証明になるかな」
めぐみの友達を助けた時、「心の中で助けを求めていたんです」と言っても龍司が驚かなかったのは、身近に自分と同じ人間がいたからなのか、と藍子は納得した。
でも、藍子は引っかかるものを感じた。
龍司は「元所長が他人の心の声が聞こえる人間だったんだ」と言っているが、どうして過去形なのだろうか。
今は龍司が事務所の所長をしているみたいだし、自分と同じ心の声が聞こえる元所長はどうしているのだろうか。
「あの、その元所長さんは、今は?」
思い切って藍子が訊いてみると、ずっと穏やかだった龍司が一瞬表情を曇らせた。
龍司の意外な表情に藍子は「えっ?」と思ったが、龍司はすぐに元の穏やかな表情に戻ってしまった。
あの表情。
龍司が一瞬、悲しそうな表情を見せた気がしたが、あれは目の錯覚だったのだろうか。
「元所長が今どこにいるかはわからないんだ」
「わからないと言うと?」
「俺が東京の大学に行っている間に、行方不明になってしまったんだ。どこにいるのか何をしているのかは誰にもわからない。多分、生きてはいると思うんだけど」
「そう、なんですね」
藍子は続けて「でも、どうして?」と言いそうになったが、最後まで言えなかった。
藍子には龍司の心の声は聞こえない。
でも、さっきのあの悲しそうな表情。
きっと、龍司は元所長が行方不明になって悲しい想いをしただろうし、今も悲しく思っているのだろう。
「元所長がどうして行方不明になってしまったのかは良く分からないんだけど、行方不明になる前に事務所に誰かが来て、元所長はその人間に何かをされたらしいんだ。で、どうしてかはわからないけど、元所長は心の声が聞こえなくなってしまったんだ」
「聞こえなくなったんですか?」
藍子は思わず訊き返した。
「うん。心の声が聞こえなくなっただけでなく、仕事をしていた時の記憶もところどころなくなってしまったんだ。それで、元所長は仕事ができなくなって、田舎に引っ越して療養していたんだけど、ある日、突然どこかへ行ってしまって、それっきり戻って来ないんだよ。
事務所も本当はたたんでしまおうかって話になったんだけど、大学を卒業したら俺がやるからって元所長の親戚に頼んで継がせてもらったんだ。元所長にはすごく世話になったし、このまま事務所がなくなってしまうのは惜しかったからね」
藍子は龍司が話しながら、また一瞬表情を曇らせたのを見逃さなかった。
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