*


 藍子は瞼を開けると、枕元のスマホのアラームを消した。

 毛布の中でまどろみながら、藍子はさっきまで見ていた須佐の夢を思い出していた。

 そして、昨日の出来事も思い出す。


 昨日はいろいろとあった。

 占いのバイトが終わった後に『Penny Lane(ペニーレイン)』で友達のめぐみとおしゃべりした。

 めぐみが帰った後に、バーのマスターの久住から龍司を紹介してもらった。

 龍司と一緒に駅までの道を歩いていると、めぐみの友達の心の声が聞こえてきて、めぐみの友達が監禁されているのに気付いた。

 龍司に「心の中で助けを求めていたんです」と言って、めぐみの友達を助けた。

 その後、警察からの尋問を受けた時、龍司が自分の体質をかばってくれた。


 藍子はベッドから起き上がると、部屋のカーテンを開けた。

 太陽の光が差し込んでくる。昨日の天気予報通りの晴れだ。

 今日は大学の授業がない日だったが、午後から占いのバイトを入れている。

 藍子はバイトへ行く支度を始めた。


 昨日、龍司に借りた折り畳み傘は夜のうちにベランダに広げて置いておいた。

 不思議なことに、藍子がタクシーに乗って家に着く頃には、雨はすっかり止んでしまっていたのだ。

 藍子はすっかり乾いた折り畳み傘をカバンに入れ部屋を出ようとしたが、ふと思い立って机の引き出しを開ける。

 机の引き出しの奥には、須佐からもらったアドラーのリズのサインCDが入っている。

 藍子はサインCDもカバンの中に入れると、今度こそ部屋を出た。


 今日、龍司に会えるかどうかはわからない。

 自分の心の声が聞こえる体質を知られてしまい、龍司に会うのが気まずいし怖いという気持ちもある。

 なのに、どうして自分は昨日龍司に見せると約束したサインCDを持って出かけるのだろうか。

 自分はもう一度龍司に会いたいのだ。

 もう一度龍司と会って、話がしたかった。

(それに、リズのサインCDを見せるって約束もしたし)

 藍子は自分に言い聞かせるように心の中で呟きながら、家を出た。



 藍子がバイトをしている占いサロン『Universe(ユニバース)』は、昨日藍子と龍司が一緒に過ごした久住のバーの二階にある。

 占いサロンUniverseは久住の妻が経営していた。

 店は全体的に明るい雰囲気で、占いサロンというよりはシンプルでオシャレなカフェみたいな内装だった。

 広さも階下の久住のバーよりも大きくてゆったりしている。占う場所も一つ一つ個室になっていた。

 働いている占い師も、いかにも占い師みたいな怪しそうな衣装は着ていない。藍子も今日は胸元にシンプルなレースの飾りがついた黒いワンピースを着ている。


 藍子が失恋した傷心を紛らわすためにバイト探し始めた時、たまたまネットでこのUniverseの占い師募集の広告と店の内装を見かけた。

 若い女の子でも気軽に入れそうなオシャレな内装が、ひと目で気に入ったのを覚えている。

 実際、このUniverseには藍子くらいの若い年齢の女の子の客も多い。

 藍子はUniverseで一番若い占い師だったが、占いの技術が優れているのはもちろん、親身に相談に乗ってくれると客に人気があった。

 同僚の年上の占い師にも可愛がられていたし、特に経営者の久住の妻には可愛がられている。


 客も他の占い師も、まだ若い藍子がどうしてこれだけの占いの技術や親身に相談に乗るスキルを身に付けたのか不思議に思っていた。

 藍子に元々素養があったのかもしれないが、一番の理由は自分の心の声が聞こえる体質のせいだ。

 自分の体質をカモフラージュしたいために占いの技術を身に付けたし、体質で散々悩んだから他人の悩む気持ちや辛い気持ちが痛い程良く分かる。

 嫌悪している体質のせいで藍子の技術が磨かれたという、少々皮肉めいた結果だった。



 藍子は客を見送ると、自分の持ち場の個室で待機しながら、タロットカードを切ったり並べたりしていた。

 何かを占おうとしてタロットカードに触っているわけではない。考え事をしている時にやってしまう、藍子のくせだ。

 藍子は次に龍司に会った時、自分の心の声が聞こえる体質をどう説明すれば良いか考えていた。


 今日持ってきた折り畳み傘を返す時に切り出せば良いのだろうか。

 それとも、自分の体質には一切触れずに、何もなかったように折り畳み傘を返してリズのサインCDを見せれば良いのだろうか。

 でも、自分から話さないとしても、龍司に体質のことを訊かれたらどうすれば良いのだろう。

 誤魔化そうかとも思ったが、藍子には龍司を上手く誤魔化せる自信がない。

 昨日話しただけでも、龍司が相当頭の良いと言うことはわかる。

 心の声が聞こえなくても占いをやっているだけあって、藍子のこういう勘みたいなものはかなり当たるのだ。


 龍司とPenny Laneで話した時間は本当に楽しかった、と藍子はタロットカードをめくりながらまた胸をときめかせた。


 藍子はかなり年上の須佐に音楽の影響を受けたため、周りに音楽の話が合う人間があまりいない。たまにいても、バーのマスターの久住みたいにかなり年上の人間だったりする。

 比較的年齢が近そうな龍司の音楽の趣味が自分と同じで、しかも他の会話もあんなに盛り上がったなんて、そんな人間は今までいなかったかもしれない。


 でも、と藍子はふと怖くなった。

 タロットカードをめくる手が自然と止まる。

 昨日が楽しかったからこそ、これからが怖いのだ。


 龍司は自分の心の声が聞こえる体質を知っても驚く素振りを見せなかった。最初に会った時の須佐と同じように、自分をかばって助けてもくれた。

 もしかすると、龍司は藍子が須佐を失ってから初めて会う、自分の体質を受け入れてくれる人間なのかもしれない。


 でも、龍司が自分や自分の体質を受け入れてくれなかったらどうしよう。

 昨日の龍司と過ごした時間があまりにも楽しかったからこそ、もし自分や体質を受け入れてくれなかった時のことを考えると怖くなる。


 不安になってきた藍子はイスから立ちあがると、個室を抜け出した。

 外の空気を吸えば、少しは心が落ち着くかもしれないと思ったからだ。


 個室を抜けてサロンの控え室に出てみると、さっきまで晴れていたのに窓の外の空はすっかり曇ってしまっている。

 サロンの大きな窓ガラスにも、雨のしずくがいくつもついていた。


(天気予報だと雨は降らないはずなのに)

 藍子が不思議そうに首を傾げたその時、サロンの入り口のドアが開いた。


 占いサロンに男性、しかもスーツを着た客なんて珍しい。

 藍子が思っていると、傘を畳んで入ってきたのはなんと龍司だ。

 藍子は声を上げてしまいそうなほど驚いた。


「こんにちは」

 龍司は驚いている藍子に気付くと、笑顔を向けてきた。

「こんにちは。あの、今日はどうされたんですか?」

「昨日ここでバイトしているって聞いたから、行ってみようと思って。サロンのホームページ見たら、今日来ているみたいだったし」

 龍司はわざわざサロンのホームページで自分の出ている時間を確認して、会いに来てくれたのだ。

 藍子は嬉しく思ったが、同時に戸惑いも感じた。

 まだ、めぐみの友達の心の声を聞いてしまったことを、どう説明しようか決めていない。


 とりあえず、藍子は龍司を自分の個室へ通すことにした。

 藍子は龍司がサロンの入り口の傘立てに傘を置くのを見ながら、昨日龍司が「俺、雨男だから」と言っていたことを思い出した。

 天気予報を軽く覆してしまうほどの昨日や今日の雨。

 雨男というのは本当の話だろうし、相当な雨男なのだろう。



 藍子と龍司は個室にあるテーブルに向かい合って座った。

 藍子は自分から話を切り出せば良いのか、切り出したところで何を話せば良いのか迷った。

 昨日話してみて、龍司が占いに対して怪しいイメージやマイナスなイメージを持っていないのはわかる。

 むしろ、普通の人以上に理解を示してくれていた。

 仲の良いPenny Laneの久住の妻がこの占いサロンを経営していることもあるだろうし、元々何事にも偏見を持たず柔軟な考え方ができる人間なのだろう。

 だからと言って、龍司が何かを占ってもらおうとか占いに頼ろうとか思う人間でないのも確かだ。

 龍司が今日、わざわざサロンのホームページで時間を確認してまでやってきた理由は、きっと自分だろう。

 自分の心の声が聞こえる体質のことを訊きに来たのかもしれない。


「そうだった、傘とタクシーチケット、ありがとうございました。助かりました。あと、昨日は本当にいろいろとありがとうございました」

 藍子は自分の心の声が聞こえる体質に気を取られて、昨日のお礼を言うのと借りた傘を返していないのを思い出した。

 自分のカバンから折り畳み傘を取り出すと、龍司に手渡す。

「ううん、全然。あの女の子、助かって良かったね」

 龍司は藍子から折り畳み傘を受け取ると、カバンの中にしまった。


 そして、龍司は再び藍子に向き合うと、口を開いた。

「昨日、『心の中で助けを求めていたから』って言っていたけど、あれは本当?」

 藍子は単刀直入に言われてしまって戸惑い、思わず龍司から目線を逸らしてうつむいてしまった。

「あの、それは」

「本当なのかな?」

「それは……」

 藍子はどう答えれば良いのかわからず、言葉を濁した。


 龍司は少し藍子に顔を近付けてきた。

「大丈夫、怖がらなくても良いよ。誰にも言わないし、ただ、本当のことを知りたいだけなんだ」

 藍子はすぐそばに見える龍司の瞳の色が、薄い茶色から濃い緑色に変わるのを見て須佐を思い出した。

 もしかすると、龍司は本当に自分の特殊な体質を受け入れてくれる人なのかもしれない。


「本当です」

 藍子は小さな声で答えた。

「やっぱり、そうなんだ。そうすると、昨日の女の子の心の声は聞こえるけど俺の心の声は聞こえないんじゃないかな?」

 龍司の意外な言葉に、藍子はさっきよりも戸惑った。

 思わずイスから立ち上がる。

「どうして、それを知っているんですか?」

 確かに、藍子はめぐみのように霊感が強いとか龍司のように雨男とか、自分と同じ特殊な体質を持っている人間の心の声は聞こえない。

 でも、それを知っているのは自分と須佐だけのはずだ。

 どうして、龍司は特殊な体質を持っている人間の心の声は聞こえないことを知っているのだろうか。

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