須佐が金沢市に引っ越してから二年経った。藍子は高校二年生になっていた。


 藍子は須佐が二年ぶりに自分の住んでいる新潟市に戻ってくると聞いて、須佐と会えるのを心待ちにしていた。

 須佐が藍子の住んでいる新潟市に戻ってくる日。藍子は学校が終わると高校の制服のまま、新潟駅まで須佐を迎えに行った。


「須佐さん!」

 藍子は須佐が改札口から出てくると、駆け寄って声を掛けた。

 須佐は藍子に気付いて顔を上げたが、一瞬驚いた表情をする。

 でも、須佐はすぐ藍子に笑顔を見せた。

「藍子ちゃん、久し振りだね。ずい分大人っぽくなったから、一瞬誰かと思ったよ」

「須佐さんは、全然変わってないですね」

 藍子は須佐を見上げながら、嬉しそうに笑顔を返した。


 須佐の黒フチの眼鏡も、少し長めに伸ばしている髪型も、痩せている身体にジーンズを履いているのも、中学の時に自分をかばってくれた時とまったく変わっていない。

 藍子は安心した気持ちになった。

「うん、相変わらず写真ばっかり撮っているよ」

 須佐が肩に担いでいるカメラバッグに目を落としながら言う。

 須佐は藍子と出会う以前からカメラマンをしていた。

「いつまで新潟にいるんですか?」

「こっちで撮影が三つ四つあるから、それが終わるまではいるよ」

「じゃあ、しばらく新潟にいるんですね?」

「うん」


 須佐が頷くと、光の加減で眼鏡の奥の薄い茶色の瞳が、一瞬濃い緑色に見える。

 藍子は思わず須佐の瞳に見とれてしまった。


「どうかした?」

 藍子は須佐に声を掛けられてはっとした。

 須佐の瞳を見つめたまま我を忘れてしまったらしい。

「いえ、その、きれいな瞳だな、と思って」

 藍子が答えると、須佐は嬉しそうに目を細めて「ありがとう」と言った。


 藍子は須佐の表情に胸がドキドキするのを感じた。

 やっぱり、自分は須佐が好きなのだろうか。

 藍子は須佐に自分の体質を相談するうちに、二十歳以上も年齢が離れている須佐に特別な感情を抱くようになっていた。


 でも、須佐は結婚していた。

 いや、かつて結婚していたと言った方が正しいかもしれない。

 須佐の妻は、須佐と藍子が出会うよりも前に病気で夭折していた。

 そして、須佐は今、金沢市にある妻の実家が経営している写真館を手伝っているのだ。


 藍子は何度か須佐に自分の気持ちを告白しようと思った。

 でも、須佐との関係が壊れてしまうのが怖いのと、須佐が亡くなった妻にまだ気持ちがあるような素振りを見せるため、何も言えないでいる。

 須佐は自分の妻を語る時、いつも悲しそうな表情をしていた。

 まるで妻が亡くなってしまったのが自分のせいであるかのような口調で話すのだ。

 藍子はそんな須佐の悲しそうな表情を見る度に、やっぱり自分の気持ちを告白することはできないな、と思っていた。


 藍子は須佐と並んで新潟駅を後にした。

 人がいない道に入ると、藍子はすぐ須佐に近況を語り始めた。

「私、自分の体質をかなりコントロールできるようになったんです。もう、人ごみに行っても何ともないくらい。占いも先生にもう占い師としてやっていけるくらいだって言われるようになったんです」


 須佐と会えない間も藍子は自分の体質をコントロールするすべを必死で模索したり、占いの勉強をしたりして頑張っていた。

「すごいね、藍子ちゃん、頑張ったね」

「ありがとうございます」

 藍子は須佐に褒められて、今まで頑張って良かったと心の底から思った。

「じゃあ、自分の体質には慣れたかな?」

「いえ、それはちょっと」

 須佐の言葉に藍子は口ごもった。


 須佐は藍子によく「自分の体質には慣れたかな?」と訊いてくる。

 藍子は須佐に訊かれる度に、どう答えれば良いか戸惑った。

 慣れたと言えば慣れたのかもしれない。

 でも、こんな体質に慣れる日が来るのだろうか。

 藍子は心の声が聞こえる体質をコントロールできるようになった今でも、いつか自分の体質が消えてなくならないものかと思っていた。

 須佐の未来が見える体質が消えてしまったように、自分の心の声が聞こえる体質も消えてしまえば良いのに。

 中学二年の頃から、その気持ちは変わっていない。


「そうか、まあ、そうだよね」

 藍子が顔を上げて須佐を見ると、須佐はなぜか悲しそうな表情で自分を見ている。

 藍子は以前にも須佐がこんな悲しそうな表情をしていたのを思い出した。

 確か自分が「いやなんです、心の中の声が聞こえるのが」と言った時だったような気がする。

「はい」

 藍子は須佐に「須佐さんのように、自分の心の声が聞こえる体質も消えてしまえば良いのに」と言いそうになったが、言えなかった。

 なぜか言ってはいけないような気がしたからだ。



 しばらくいる、という言葉の通り、須佐はかなり長い間、藍子の住んでいる新潟市に滞在した。

 須佐は滞在している間、藍子の占いの先生の家に居候していた。

 藍子は占いを習いに行く度に須佐に会い、須佐もカメラマンの仕事の合間に藍子と会って、いろいろな話をしてくれた。

 藍子が須佐に初めて出会った頃、藍子はまだ中学生でそこまで難しい話もできなかった。でも、高校生になった藍子は須佐と対等に話せるくらい精神的に成長していた。

 藍子は須佐に自分の体質の悩み以外にも、学校やプライベートの悩みを相談した。

 須佐は藍子の悩みにアドバイスをし、悩んだ時に心を支えてくれそうな音楽や本も紹介してくれた。

 藍子は須佐が紹介してくれたものはどれも好きになったが、特に須佐と同い年のイギリスのバンドのアドラーの音楽が一番好きになった。



 藍子は須佐がずっと自分のそばにいてくれれば良いのに、と思っていた。

 でも、須佐は1月12日の藍子の誕生日の少し前、亡くなった妻の実家がある金沢市へと帰ることになった。

 須佐が金沢市へ帰る前日、須佐は藍子に誕生日プレゼントだと言って紙袋の包みを手渡した。

 藍子が包みを開けると、アドラーの名曲『Rain(レイン)』のCDが入っている。

 CDを開いてみると、アドラーのボーカルであるリズの直筆サインが書いてあった。

 藍子は須佐が前に「リズのサインが書いてあるCDを持っている」と言っていたのを思い出した。


「こんな大切なもの、良いんですか?」

 藍子は驚いて須佐を見上げた。

 須佐とアドラーのメンバーは同い年で、須佐はアドラーがデビューした時からずっとファンだったと言っていた。

 そんなに想い入れのあるアドラーのリズのサインCDを、自分がもらっても良いのだろうか。

「もちろんだよ、お守りだと思って、大切にしてくれると嬉しいよ」

 須佐は藍子に笑顔を見せた。

 藍子は本当にもらっても良いのだろうかと戸惑ったが、須佐が余りにも優しそうな笑顔を見せているので受け取ることにした。


「ありがとうございます、大切にします」

「いつか、そのCDを見せたいって思う人が、藍子ちゃんの前に現れると良いね」

「えっ?」

 藍子は須佐の言葉に首を傾げた。

 須佐が今の言葉は、どういう意味なのだろうか。

 須佐は藍子の疑問には答えず、手を伸ばすと藍子の頭を軽く撫でた。

「じゃあ、藍子ちゃん、元気でね」

 須佐は藍子の頭から手を離すと、背中を向けて立ち去ろうとした。

「あの!」

 藍子は思わず須佐を引き留めた。

「どうかした?」

 藍子は振り返った須佐に、自分の好きだと言う気持ちを伝えようか迷った。


 でも、須佐はこれから亡くなった妻の実家に帰るのだ。

 須佐はきっとまだ亡くなった妻が好きなのだろう。須佐に自分の気持ちを伝えたところで、今の関係を崩してしまうだけではないだろうか。


「あの、ありがとうございます。CDだけじゃなくて、今まで本当にありがとうございます。私、須佐さんに出逢えて本当に良かったです」

「僕も藍子ちゃんに出逢えて良かったよ。こっちこそ、いろいろとありがとう」

 須佐は藍子に笑顔を見せると、そのまま行ってしまった。



 須佐は藍子と最後に会ってから数か月後、妻の実家がある金沢市で事故に遭って亡くなってしまった。


 藍子は占いの先生から須佐が亡くなったことを聞いて、最後に会った時にどうして自分の気持ちを伝えなかったのだろうかと後悔した。


 でも、須佐と最後に会った時に自分が言えたのは、須佐に対するお礼だけ。

 あの時の自分にはお礼を言うだけで精いっぱいだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る