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 藍子は中学二年生の時、学校へ行く途中に交通事故に遭った。

 幸い頭を打ったくらいで外傷はなく、入院も短期間で済んだ。

 でも、藍子は交通事故に遭って以来、なぜか他人の心の声が聞こえる体質になってしまった。


 藍子は最初、自分の体質に気付いた時、パニックのあまり気を失ってしまった。

 交通事故で頭を打ったせいだろうと片づけられたが、気を失ってしまうくらいショックだったのだ。


 医者や看護師や入院患者の口元が動いていないのに、なぜか頭に声が飛び込んでくる。

 藍子は気のせいか頭を打ったせいだろうと思っていたが、やがて、その声が心の中の声だと気付いた。

 ただ、なぜか見舞いに来る家族の心の声は聞こえない。

 心の声が聞こえない代わりに家族からは、母親が昔愛用していた『アンジェリーク』の香水の匂いが微かに漂って来るのだ。


 意識を取り戻した藍子は、まだパニックを起こしている頭の中で必死に考えた。

 身に付いてしまった体質を、母親や家族に相談した方が良いのだろうか。

 でも、言っても信じてもらえないかもしれないし、頭を打ったせいでどうかなったのではないかと思われてしまうかもしれない。

 このまま誰にも言わずに、自分だけの秘密にした方が良いのだろうか。



 その日、悩んでいる藍子の病室は騒がしかった。

 同室の一人がお金を盗まれたと言い始め、看護師や事務スタッフが病室を出入りしていた。

 藍子はふとお金を盗んだ犯人の心の声を聞いてしまい、思わず犯人が誰であるか言ってしまった。

 藍子の発言に、病室は一段と騒がしくなった。

 犯人は戸惑い「証拠もないのに、どうしてそんなことがわかるのか?」と藍子に行って来た。

 藍子はさすがに心の声が聞こえたからとは言えず、黙るしかなかった。

 犯人は一見すると、盗難事件など起こしもしないような善良そうな人間だった。


 犯人のひと言をきっかけに、藍子は犯人だけでなく同じ病室の患者や看護師にまで色々と言われ始めてしまった。

 周りの心の中からも、どす黒いような声が飛び込んでくる。

(どうして、こんなことになっちゃうの?)

 藍子は自分の心の声が聞こえる体質と、うっかり口を滑らせてしまったことを恨んだ。

 タイミングの悪いことに、藍子をかばってくれそうな家族はみんな家へ帰ってしまっている。

(私、何も悪いことしていないのに)

 本当のことを言っただけなのに、どうしてこんなに責められなくてはいけないのだろうか。

 周りのみんなにいろいろと言われてしまった藍子は、またパニックを起こしそうになってしまった。


 その時、藍子を救ってくれたのが須佐すさだった。


 須佐はたまたま親戚の見舞いで、藍子の病室の前を通りかかったらしい。

 須佐は黙っている藍子に近付くと、「このは占いを勉強しているから、占いで犯人の見当をつけたのではないだろうか。騒がせて申し訳なかった」と言って、藍子をかばってくれた。

 須佐の言葉に場は何とか収まった。

 お金を盗んだ犯人も、心の中で(下手な占いなんてして)と呟いていた。


 須佐はその後、藍子を病院の片隅に連れだして詳しい事情を訊いた。

 藍子は必死になりながら須佐に自分のことを話した。

 交通事故で頭を打ってから他人の心の声が聞こえるようになったこと、でも家族の心の声は聞こえないことなど今までの出来事を全て話した。

 用心深い藍子は、普段なら初対面の他人に自分の胸の内を話さないだろう。

 でも、その時はなぜか須佐に自分のことを全て打ち明けた。

 須佐が自分をかばってくれたから「この人なら大丈夫」と思ったのかもしれない。

 何よりも、須佐は用心深い藍子が思わず話をしてしまうほど、優しくて温かい雰囲気を持っている男性だった。

 須佐は時々頷いたり相槌を打ったりしながら、藍子の話にじっと耳を傾けていた。

 不思議なことに、須佐は藍子が心の声が聞こえると言っても全く驚く様子を見せなかった。


「そうだったんだ、辛かったね」

「はい」

 藍子は話し終えると、緊張がほぐれたのか涙を流した。

「これ、使って」

 須佐は藍子にハンカチを手渡した。

「ありがとうございます」

 藍子はハンカチを受け取ると、目頭にそっと当てた。

「確かに君のやったことは悪くない。でも、お金を盗んだ人間の心の声が聞こえたと言っても、他の人にわかってもらえないのも事実だよ。それに、そんなことを言うと好奇な目で見て来る人もいるからね。もう、誰かにそのことは言わない方が良いと思うな。さっきみたいな大騒ぎになると、また嫌な目に遭うかもしれないし」


 藍子は急に胸の鼓動が早くなるのを感じた。

 病室にいる皆に色々と言われたことを思い出して、藍子は再びパニックを起こしそうになってしまった。

 あんな目には、二度と遭いたくない。


 藍子の表情の変化を感じたのか、須佐は「ごめんね」と言うと身体を屈め、藍子の顔を覗き込んだ。

「君が他人の心の声が聞こえるのは、僕と君だけの秘密にしようか」

「秘密、ですか?」

「そう、秘密にしよう」

「はい」

 藍子は須佐の瞳に吸い込まれるように頷いた。

 須佐の瞳の色がさっきは薄い茶色に見えたのに、一瞬濃い緑色に見えたのは気のせいなのだろうか?


「よし、そうしたら、一緒に来てごらん。さっき、占いを勉強中だからなんて言ったけど、あれは良いアイデアだったかもしれないよ」

 須佐は藍子の手を取って歩き始めた。

 藍子はここで初めて、自分の家族と同じように須佐の心の声が聞こえず、アンジェリークの匂いが仄かに漂っていることに気付いた。

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