第7話 ずっと〇〇でいてね

 本屋敷くんと恋人になって、1年以上。俺史上一番続いた関係の中で分かったことは、彼は案外表情豊かだって事だ。拗ねたときは少し眉間に皺が寄るし、興奮している時は少しほっぺが赤くなる。

「……絢瀬くん」

 けれど目の前の彼からは、何の感情も読み取れない。それがとてつもなく怖くて、怖くて。

 竦んだ足のまま、一歩後退る。

「今までありがとうございました」

 やめてよ。そんな、これきりみたいな言い方しないで。上手く声が出ない。辛うじて泣き出さずにはいられてるけど、俺、今上手く笑えてるかな。

「友人に戻りましょう」

 頭を下げて、踵を返してしまう本屋敷くん。

 当然だ。元々、彼の創作活動のためのお付き合いだったんだから。俺だって、最初は打算と惰性でしかなかった。それと暇潰し。だから俺たちの関係は、彼が目的を達せばそれで終わりだ。何もおかしな事はない。

「待って」

 なのに、気付けば本屋敷くんの手を掴んでいて。頭と身体が別々になってしまったみたいだ。ああほら、目元が動いた。本屋敷くん困ってる。

 今すぐに手を離して、「こちらこそありがとう」って言う。そうするべきだって分かってる。けどやっぱり、口は別の人が動かしているみたいに、勝手に言葉を紡ぐ。

「えっと、その、俺、君のこと━━━━」


 バン!と。

 何かを叩きつけたような破裂音に、目を見開く。

 バン、バン、バン、バン。

 狂ったように響き続ける音は、俺がベッドから飛び起き .........たら、やっと止んだ。

 上手く回らない首で、音源───自室のドアへと視線を向ける。するとドアの隙間から覗いた右目と、視線がかちあう。二重幅が広くて、睫毛も長い。そして瞳孔が開ききっている。素材は素晴らしいのに、澱み具合は、まず正気の人間のそれではなかった。

「起きろ、愚弟」

 地獄の底から響くような声を残し、扉が閉まる。階段を降りていく足音を聞き届けながら、溜息を吐く。有難いけど、もうちょっと心臓に優しい起こし方をしてほしい。

「…………寝覚め最悪じゃん」

 前髪を掻き上げて、視線を横に。そこには先日入手したまま、手付かずの新書が横たわっている。

『柳由宿 弘』

 新書の背表紙に刻まれた、著者の名前である。「やなゆすく こう」と読むらしい。変な名前だと思ったが、読み方を聞いて、確かに本屋敷くんのペンネームだと思った。

 連絡が入ったのは、数週間前だった。製本が完了し、もうすぐ新作が全国書店に出回るのだと。俺に連絡してきた時点で察しは付くが、それは彼の初めて書いたラブロマンスだった。

 その報告を聞いた時、まず胸に湧きあがったのは歓喜。そして、ついにきたかと言う諦観だ。本の完成は嬉しい。俺は本屋敷くんが好きだから、彼が嬉しいなら俺も嬉しい。けれど同時に、彼との関係が終わると言うことも、嫌でも理解させられる。そうなると、なんだかあの本が酷く忌まわしいものに思えてしまって。下手に手を出せば、俺は一夜のうちにあれをビリビリに破いていたかもしれない。

「いい加減にしろよ、愚弟」

「うわっ、兄貴!?」

 再びドアの隙間から聞こえてきた声に、肩を揺らす。全く音も気配も無かったので、俺の兄貴は本当怖い。ご飯を食べたのか、先刻に比べると幾分か話が通じそうなツラをしている。

「モタモタするな。早く降りて飯を食え」

「ごめん」

「牛乳は俺が飲み干したから、お前は水道水で──、」

「兄貴」

 声をかければ、神経質そうな目元に皺が刻まれる。ドアを開けてノソノソと入ってきた兄は、俺の脇を一瞥して、「なんだ」と短く答えた。

「この本、要る?」

「本?……お前が買ったのか?」

「貰ったんだよ」

 信じられない物を見るような目で見てくる。本を掴んで押し付けるように渡せば、まじまじと本を観察した。

「柳由宿の新作か」

「知ってるの!?」

「多少は。俺はお前と違って本を読むからな」

「じゃあ、あげるよ」

「要らん。もう読んだ」

 事もなげに言ってのける兄に、「は?」と目を剥く。今サラッと衝撃の事実が明かされなかったか。

「ファンなの?」

「ファンという程ではない。たまたま新作を見掛けたら、購入する程度の俄かだ」

 それは充分ファンなのでは。

 そんな言葉を呑み込んで、パラパラとページを捲る兄を見つめる。兄と口論をするだけ、時間と労力の無駄だからだ。

「どうだった?」

「本当に読む予定は無いのか」

「うん」

「そうか」

 捲るのをやめ、兄貴は少しだけ目を見張る。やや於いてパタンと本を閉じ、此方へと手渡してきて。

「……良くも悪くも、柳由宿らしくは無い作品だった」

 腕を組み、視線を巡らせる。鋭めの眼光が、俺の手元を睨んだ。

「ジャンルは元より、描写に主観らしい物が混じっていたのは、あれが初めてだった」

「主観」

「淡々とした、公文書じみた語り口。それが柳由宿のある意味での色でもあった」

 回想する。俺は本を自主的には読まないので、比較対象が無い。けれど彼の小説とは、確かにそう言った無機質さがあった。事実以上の意味を持たない文章に、感情らしい感情が、執拗なまでに排された語り口。簡潔に要点が纏められており、一文一文に洗練された印象を受けたのは事実だった。

 けれど兄の口調から察するに、今回は何かしら変化が見られたのだろうか。

「特に、相手の男に寄った描写が目立った」

「え?」

「偏執的でアンバランスな男への憐れみを匂わせたかと思えば、男の見せた、少女への気遣いを称賛する。全体的に男が────」

「わかった、もう良いよ」

 淡々と書評を行う兄の言葉を、堪らず遮る。腹底に、重い物が沈殿していくようだった。だってその作品の取材元は、俺自身だ。読んでみたいに決まってる。彼から見た俺が、言語化されているのだ。

 けれど若しその中に、俺への拒絶を見出してしまったとしたら。それはきっと、とても悲しい。耐えられないかもしれない。

「ありがとう、兄貴」

「おいお前、」

「ごめんね、毎朝。明日はちゃんと起きるよ」

 指定鞄を引っ掴んで、兄を押し退けるようにして部屋を出る。机の上に置いた本を一瞥。鞄に入れていくか少しだけ迷ったが、そんな気分では無かった。少しだけ階段を踏みしめれば、想像よりもずっと重い音を立てて、床材が軋んだ。

「悠太」

 背後から兄貴の声がしたので、振り返る。

「読め。俺は悪くないと思った」

「でも」

「読んでやれ」

「……?それって………っ!?」

 本を投げるのは、危ない。幼稚園生でも知ってる。しかし兄はそれを知らない。若しくは知った上で実行する。どっちに転んでもヤバい人だ。

 兎にも角にも投擲されたそれを受け止めて、拍子に、ハードカバーの隅が掌を抉る。

「痛ーっ!」

 叫び、蹲る俺の頭に手を添え、そのまま前髪を掴み上げる。お弁当箱でも持ち上げるような無造作さだった。ブチブチと毛髪の千切れる音を響かせながら、俺の双眸をガン見して。

「読め」

 低く強要する声に、涙目で頷いた。




 常緑樹の木陰に、百恵の隙間から溢れる木漏れ日。ベンチに腰掛けたまま、所々黒ずんだ校舎を眺める。今朝、夢に出てきた場所だ。

 気付けば引き寄せられるみたいにここに来ていた。

 傍に置いた真っ新な新書を見つめて、顔を覆って。

「ンァー……無理」

「俺の作品は読んで頂けました?」

「今日も進出鬼没だねぇ」

 ベンチの後ろから、ひょっこりと形の良い頭部が覗いた。正夢かと冷や汗をかくが、これは因果か逆だ。どちらかといえば、俺が夢に引き摺られた結果である。かぶりを振れば、視界の端で、本屋敷くんが此方を向く。背もたれ越しに、肩が触れ合う程の距離までスライドしながら寄ってくる。人らしい挙動ではなかったけど、本屋敷くんらしい挙動ではあった。

「本屋敷くんってさぁ」

「はい」

「なんでずっと敬語なの?」

「突然ですね」

 間延びした声に、幾らか気分が落ち着くのがわかる。いつも通りだ。日常の延長線でしかない。

「俺、シングルタスクで」

 ポツリと呟いて、視線を上に。校舎の方をぼうっと眺める横顔は、映画の1シーンみたいに綺麗だった。

「口調を使い分けるの、すごいリソース割かれませんか」

「そうかなぁ」

「ある日気付いたんですよ。いっそ全員に敬語で接したら、めちゃくちゃ楽なんじゃないかって」

「ふふ」

「作業の進み具合も上がりました」

 やっぱ本屋敷くんは変な子だ。変な子だけど、面白い。作品の事しか頭に無い。前にそれを言ったら、「承認欲求に取り憑かれた怪物です」と割りかし深刻な解釈をされたので、口には出さないけど。

「俺のこと名前で呼んでよ」

「今の話の後にそれですか?」

「冗談だよ」

 思いの外自嘲気味な笑いが漏れる。俺だけ特別扱いなんて。やっぱり、そんなのは無理な話だったみたい。

「…………悠太くん」

「えっ、」

「今日はお話があってきました」

 心臓が跳ねる。口から出てくるかと思った。でも俺の実際の反応と言えば、指先を軽く曲げただけだった。努めて平静な声で、「なに」と言う。

『恋人』としての最後の思い出が、「暴れる男」として刻まれるのだけは避けたかった。

「作品が完成しました」

「うん」

「……俺は良い人間とは言えなかったでしょう。君に指摘されなければ、きっと今も、本来の目的すら明かさずに君を利用していた」

「でも、実際は違う」

「ええ、それは君が聡かったからです。俺は君の優しさに付け込んだし、君は俺のエゴを知って尚、仮初の恋人として付き合ってくれた」

 サラと、細い黒髪が揺れる。金木犀の匂いだ。出会った時と、変わらない匂い。此方へと向けられた、琥珀色の目が撓む。初めて見た、年相応の笑みだったかもしれない。

 もうずっと胸が痛い。本屋敷くんの笑顔のせいか、

 夢の再現への恐怖のせいか。もうわからない。多分どっちものせいだ。

「改めてお礼がしたかったんです。君の協力無しでは、これは書き上げられなかった」

「…………」

「今までありがとうございました。そして───、」

「まって、」

 本屋敷くんの口を塞ぐ。目を見開いて、間抜けに眉毛を吊り上げて。文机を跨いだ時、手を掴んだ時。此方が境界線を越えた時、彼は決まってこう言う顔をした。 

 そしてこれは、夢の焼き増しだ。否、焼き増しになるのが嫌だから、今こうして足掻いてる。その先は言わせない。

 だって俺は、「友達に戻ろう」なんて、君の口から二度と聞きたくない。

「えっと、その、俺、君のこと━━━━」

 この先は分からない。夢で俺は、何て言おうとしてたんだろう。手を掴んで、引き止めて、君の目を見て。

 そして、……そして?


「─────ころしちゃいそう」


 震える声は、確かに俺の声だった。目を見開いたまま、「え?」と掠れた声を漏らす。不思議な気持ちだ。

 圧倒的に間違ってるのに、何処かで納得している自分が居る。

「だって俺は一回だって、仮初の恋人なんて思ったことなかった。そう思ってたのは君だけだ。俺はいつだって真剣で……、」

 俺の上擦った告白を、本屋敷くんは静かに聞いていた。煙る睫毛が、音を立ててゆっくりと瞬いた。

「……そうだ、本屋敷くん。俺、分かった気がするんだ、あの映画の意味」

 好きな女の腹を裂いて、ぐちゃぐちゃに殺した殺人鬼。彼奴の気持ち、今なら分かる気がする。

「分からないんだ」

 どうしても好きで好きで、大好きで堪らなくて。初めて、心の底から欲しいって思った物。それが手に入らないって分かったとき。その激情をどうしたら良いのかわからない。

 誰かの物になるくらいなら。手に入らないくらいなら。この世にない方が良い。

 そんな悍ましい身勝手が、今なら痛いほど理解できる。俺はきっと、彼を本当の意味で愛せているわけではない。だって、彼が俺以外の人間と幸せを享受する姿を想像するだけで、気が狂いそうになるんだから。

「────許さない」

「俺から離れるなんて、絶対に許さない」

「どこに逃げても追い回す」

「ずっと一緒にいるって言って」

「俺だけを特別にして」

 気付けば、ワイシャツに縋り付いていた。みっともない。見苦しい。けれど、でも。彼は『キョウリョウ』じゃないから、俺の我儘だって受け入れてくれる筈だ。本人がそう言ってたんだもん。

「……だから、目が怖いんですって」

「っ、」

「冗談に聞こえませんよ」

「……冗談?」

 冗談を言ったつもりは無いけれど。

 首を傾げれば、本屋敷くんは平らな目をする。胡乱に双眸を細め、ため息を吐いて。

「話を聞かないのは、本当に悪い癖です。直しましょう」

「…………」

「俺はね、別れ話をしに来たわけじゃ無いんですよ。お願いです」

「お願い?」

 俺の問いに、慇懃に頷く。手付かずの新書を掴んで、ページを捲る。とあるページから引き摺り出されたのは、ノートの切れ端だった。

「なにそれ」

「その様子だと、まだこれは読まれていないようで」

「……気付かなかったの。俺、活字苦手だし」

「そうですか。では、直接言いましょう」

 小さく咳払いする。芝居じみた所作だと思った。もしかしてあれは、緊張の発露だったりするのだろうか。今までのやり取りを回想しながら、そんな感想を抱く。

「『もう少し、この関係を続けませんか』」

「え?」

「具体的には、俺がこのシリーズを完結させるまでずっと」

「それって」

 震える声で、本屋敷くんの手を掴む。彼は今、『シリーズ』と。『ずっと』と言っただろうか。

 顔を覗き込めば、その頬は少しだけ上気していて。相変わらずの鉄仮面だが、彼が平生の精神状態でない事は伺えた。

「………そのですね。割りかし好評と言いますか。それなりに賛否が分かれたんですが、それ以上に新しい読者層が増えたと言いますか。端的に言えば、その、続編の執筆が決定し」

「喜んで……!」

 湧き上がる激情のまま、本屋敷くんを抱き締めていた。前のめりになり、バランスを崩す本屋敷くん。ベンチの背もたれに手を突き、身体を支える。身じろぎつつも、どこか安堵したように緩められた表情が、どうしようもなく嬉しかった。

「まだ本屋敷くんと恋人でいて良いって事?」

「慧」

「へ?」

 俺にニーブラされたまま、本屋敷くんは相貌を擡げた。伏せられた視線が、ふ、と此方を向いて。

「慧って、呼んでくれないんですか?」

 潤んだ上目遣いに、顔が一気に赤くなるみたいだった。

 俺と本屋敷……慧くんの気持ちは、きっとまだ1ミリだって吊り合ってない。けれど、今はそれで良いと思った。

 彼とずっと一緒に居られる方法を、やっと見つけられたんだから。

「死ぬまで小説家で居てね。センセ」

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勝ち組イケメンが、文学少年にドップリ嵌って病むまでの話 ペボ山 @dosukoikokoi

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