第4話 特別がわからない文学少年と、特別になりたいイケメン
文字の羅列を目でなぞる。記録や技術知識の伝達としての文章は苦ではないが、どうにも小説と言う物を読むのは苦手だった。
結論や伝えたい内容は、ほとんどの場合明記されない。読み手の感性や読解力に全ての解釈を委ねる。ただ淡々と、哲学的問いかけと蓋然性の検討が、対話のように繰り返される。
そんな文章、上滑りして、頭に入ってこなくて。何よりも純粋に疲れる。もう一度言うが、俺は小説と言うものが苦手だった。
「面白かったよ」
だから、俺がこの本を読みきることができたのは、きっと小説自体が面白かったからではない。『彼が書いた』と言う前提と照らし合わせて読むこれが、面白かったのだ。
「げ」
「げって何さ」
「読まないでくれと言った筈ですが」
「恥ずかしいから?」
茶化すように言えば、大きな目が、じろりとこちらへと向けられる。それは拗ねている顔だ。約半年の中で、割と正確に彼の感情を読み取れるようになったと思う。彼の前の席に腰掛けて、小さな文庫本を掲げて見せる。
「ちょっとこれ、映画と違うんだね」
「……ああ、そうですね。確かに、映画の方は少しだけ変更が加えられましたね。恋愛要素の追加と言いますか……ん、」
「そう言うのって、原作者としては良いの?」
「ええ、まあ。違う人間の作った物ですから。全くの別作品──正直、完全新作のような物だと認識してます。それより、君」
終始暗澹としていた瞳に、一条の星が瞬く。これは彼が、心惹かれる何かを見つけた時の表情だった。相貌を上げ、身を乗り出すから瞳に光が反射するのだ。俺は、きっと俺だけが知っているであろうこの表情が割と好きだった。
「この映画、面白かったって言ってましたよね?中途半端な恋愛要素は地雷だった筈では」
「んー」
「こら。こっち向きなさい、こっち。怒らないから、正直にぶっちゃけてくださいよ」
「正直にぃ?」
間延びした声を上げれば、むずと頬を鷲掴みにされる。そんな人形みたいなナリをしておいて、割と所作は無造作なんだ。
「原作の方が100倍良かった。でもまぁ、映画が面白かったってのは嘘じゃないよ?」
「本当かなぁ」
「ほんとほんと」
血みどろヌトヌルの猟奇殺人は、元々好きなジャンルだ。ストーリーも好みだった。けれど映画では、これまた犯人に同情の余地を残すバックボーン───『愛』なんて余計な物を付与されていて。初めて見た時は、「よくわかんねぇ奴だな」「悪役としては0点」なんて感想しか抱かなかったけど、原作を読んだ今なら怒りすら湧いてくる。やっぱり改変って悪だ。あそこまで完成された、冷酷非道残忍無惨な化け物を、面白みも無いただの人間にしてしまうんだから。
「本屋敷くんて、実はすげーサイコだったりするの?」
「急に失礼だな。君はもう少し、思考の道筋を他人と共有した方が良い」
「だってマトモな人間が、あんなヤベーサイコ書けるわけねぇじゃん」
「じゃあ君も異常者なんですか」
朴訥とした声で言って、視線をまた落としてしまう。原稿用紙に書き連ねられた文字は、角張った、几帳面な物だった。
「人の趣向と人格を地続きで考えるなら、グチャグチャヌトヌルスプラッタ愛好家の君は、そう言った欲求をお持ちなのでは」
「はぐらかさないでよ、センセ。まず俺はスプラッタ『が』好きなんじゃなくて、スプラッタ『も』好きなの。それに今は好悪の話をしてるんじゃなくて、可能か不可能かの話をしてるんだぜ。どれだけ好きでも、俺には殺人鬼の内面を、出力も共感もできない」
「共感は出来ずとも、想像と理解さえできれば、大抵の人間は書けます」
作家とはそう言う物です、多分。
そう言ったきり、とんと黙り込んでしまった。何かに取り憑かれたみたいに、只管原稿用紙に向かい合う。今はパソコンとかで原稿する時代だけど、本屋敷くんは、手を動かした方が筆が進むらしい。二度手間を嫌うくせに、そこの手間は惜しまないんだと、人間らしい矛盾に釈然としない。
「センセイはさ」
「センセイはやめてください」
「本屋敷くんは、なんで小説書き始めたの?」
「へぇ、きみはあまり他人に興味が無いと思ってた」
「そう?でも本屋敷くんの事は、何だって知りたいよ」
ふると、長い睫毛が震える。手を止め、一度だけこちらを捉えた双眸に、気分が良くなった。けれど、直ぐにまた視線は原稿用紙に落とされてしまう。反射的にそれをビリビリに破りたくなるけど、理性で衝動をグッと抑える。
「俺、顔が良いでしょう」
次に本屋敷くんが口を開いたのは、秒針がぴったり3周した時だった。
「だから俺の積み上げてきた物は、全てこの容姿ありきの評価だと、一蹴されてきました。教師に気に入られたから、先輩をたらし込んだからって」
「そんなの妬みでしかないでしょ」
「俺もそう思ってたんですけどね。ずっと言われ続けると、こう、割とわかんなくなってくる物で」
「……………」
「実際変な大人に、頼んでも無い忖度をされる事はザラにありましたからね」
淡々と語っているけれど、それは彼が割り切っているからだ。何かを割り切ると言う事は、即ち、そこに至るまで、ずっと彼が悩み続けたと言う事に他ならない。悩みに悩み抜いて、何度も直面した事実だから、どれだけ残酷でも、顔色ひとつ変えずに語る事ができる。要するに、痛みに慣れて、諦めてしまったのだ。可哀想だと思った。哀れだ。
「その点小説は良い。書き手の容姿なんて、読者には見えませんからね。俺は俺の作った物を、やっと順当に評価してもらえる」
「承認欲求ってやつ?」
「端的に言えば、そうです。俺は偶然作文が好きだった。だから小説家になった。作曲ができれば曲を作っていたかもしれないし、巡り合わせ次第では、陶芸家にでもなっていたかもしれない。……我ながらつまらない男です」
作った壺を割る本屋敷くんを想像したら中々笑えたので、別につまらないとは思わなかったけど。自虐的に唇を歪める様は、中々胸にクる物があった。
「だから、そうですね」
ここに来て、本屋敷くんは相貌を擡げる。サラと揺れる黒髪。俺は、伸ばしていた手を引っ込める。怪訝な目が行き場を失った俺の手を見るが、俺も同じような顔をしている事だろう。手を伸ばして、それで俺は何をしようとしてたんだろう。
「…………読者は、俺にとって特別な存在です」
「…………」
「初めて、『俺』自身を見つけてくれた人達だから」
「それって、映画だけの人も?」
「先刻も言いましたが。俺は映画に関しては、他人の作った、全く別の物として認識してるので」
腹の中のしこりが、どんどん大きく、重くなっていく。表情が削げ落ちて、伸ばしたままの手へと視線が滑る。これで思い切り本屋敷くんをぶったら、幾分か気分は晴れるだろうか。
「それって恋人より特別?」
「…………きみはその小説を読んだんでしょう?」
「面白かったよ」
「なら、君は特別です。当たり前ですが」
ピクリとも動かない相貌を暫く眺める。特別なら、まあ、なら良いか。取り敢えず今は。
手を下ろして見せると、本屋敷くんは、手持ち無沙汰にシャーペンを回した。くるくる、くるくると回転するそれは、不思議と俺の視線を釘付けにする。
「そしてこれは、話すつもりの無かった話です」
「……?」
「俺が『愛』なんて物を書こうと思ったのは、あの映画が、俺の小説よりも面白いと感じたからです」
「原作の方が面白い」
「君はそう言ってくれたけれど」
肩をすくめ、横目で窓の外を眺める。風邪に吹かれて落ちる紅葉が、彼の琥珀色の双眸に揺れていた。彼は確か、『恋愛を書くのは、需要があるから』だと最初は説明していた記憶があるが。本屋敷くんは、割と簡単に嘘をつく。周り続けていたシャーペンが、硬質な音を立てて机に落下した。
「…………『愛』が主題だとしても、君は俺の作品を読んでくれますか?」
「センセイの作品なら、多分読みたい人はいっぱいいるよ」
「名前で呼んでくれないんですか」
「…………」
「……俺はこの作品を、他でもない『君』に読んでほしいんですよ」
────絢瀬くん。
原稿用紙を一瞥して、そして、ゆっくりと目を細める。きゅう、と弧を描いた瞳が、ががちを焼いたみたいに、きらきらと輝いて。
心臓が跳ねる。
俺は初めて彼の微笑みを見たけれど。そうか、彼は、そんなふうに笑うのか。サラと揺れた細い前髪が、二重幅の広い瞳にかかる。
「絢瀬くん?」
「前髪切りなよ」
前髪を払ってやれば、金木犀みたいな香りが鼻腔を掠める。広い額に、綺麗な柳眉。怪訝な表情で此方を睨めあげる本屋敷くんに、俺もまた口端を吊り上げて見せる。指先に、まだ毛先の感触が残っているみたいだった。
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