4-14

 それから半年と少しが経った。

「明朝、ここを発つ。これにてさようなら、だ」

 千歳姫の別れの言葉は突然だった。

 暦は白露、秋の気配を朝晩の涼しさで肌身に感じる頃。暑さが和らいだ晩方、虫の声を聞きつつ維央が図書館を訪れて一息つく間もなく、小上がりに座していた姫は開口一番にきっぱりと告げたのだった。

「発つ?どういうことです」

日本やまとを発つ。もう支度も済んだから」

「支度って……。何も荷造りなんて……」

 辺りを見回しても、いつも通りの調度が置かれている。元々本以外さほど置いているものは多くないが、それにしたって居を移すというのならば、葛籠つづらや布に荷物をまとめてもっとがらんとしていようものだ。

「当たり前だ。この図書館ごと離れるのだから」

 当然だと言うように千歳姫は鼻を鳴らす。

「図書館ごと?どうやって」

「維央もこの図書館のことを少しくらいわかっておろう。想い出図書館はだ。故に建物ごと別の所、別の世界に移すことなど造作もない。まあ、そんな図書館だからこそ、ひとところにいるわけにはいかないのだがな」

 姫に何か一言告げたいのに、思うように言葉が出てこない。たくさんの伝えたい言葉が一気に押し寄せたせいで喉元でせき止められてしまったようだと、維央はぐるぐると思いがめぐる頭の隅で思った。

 どうしてもっと早く告げてくれなかった。

 姫は私と離れることをまったく残念がってないように見える。ずっと、一定の距離を保って接しているように感じていた。

 いずれこうなることがわかっていたのだ。

「千歳、あなたという人は……」

 怒りを言葉に乗せることはたやすい。けれど維央はそれができなかった。きっとこういった出会いと別れをこの人は幾度となく経てきたのだ。それに思い至って、怒るに怒れなかった。

「右大臣殿、あ、いや今は左大臣殿だったか……このことは左大臣殿にはお伝えしたのですか」

「したら大ごとになりそうだから言っておらぬ」

 おそらくそうだろうと思った。うすうすわかっていたのに思わず溜め息が出てしまう。だが維央にしか言っていない、ということに少なからず嬉しくなってしまう。我ながら単純だ。

「これでさようなら、だなんてあんまりです」

 維央が口にした言葉に、姫が息をのむのがわかった。唇を引き結び、何かを堪えるような面差し。己の顔がこわばっているのに気づいてか、ふっと顔を背けてしまう。

「ああ、やっぱり言わずに発ってしまえば良かった。わかっていたのに」

 姫は己の顔を両手で覆い、きゅっと殻に閉じこもるように小さくなってしまう。維央は腰を落とし姫の顔を覗きこんだ。

「そんな悲しいことをおっしゃらないでください。何も明朝発たずともよいのではないですか」

 維央の問いにも顔を上げず、ただ首を横に振る。

「駄目だ。すでに決まったことだ。これ以上ここに留まってはいけない。留まり続ければ綻びが戻らなくなってしまう」

「綻び?」

 維央が訝しげな声を発すると姫はようやくゆるゆると顔を上げた。

「この図書館を今いる世界から別の世界へ移せるというのを、今しがた言ったであろう?」

 話を促すため頷く。

「今いる世界から別の世界へ移すというのはな、生身の人間でも物でも普通ならばできない。大きな隔たりがあるのだ。誰もがたやすく移ってしまえるとなれば世界の理が歪んでしまうというから、自然の摂理というものだろう。

 しかし世界は常に整っているわけではない。

 時々ほんの少し綻びが生じるのだ。その小さな綻びを通り抜けられるのが、この想い出図書館なのだ。図書館が一度移るとそれはしばらく使えなくなる。やはり世界間を移るのは負担が大きいのだろうな。だからワタシはひとところに数十年単位で留まることを余儀なくされる。そして図書館が通り抜けたぶん綻びはまた少し拡がり、異なる世界から記憶を求める者が訪れやすくなる。図書館という大義としては都合が良いのだろう。

 綻びは普通、徐々に繕われていくものだが、図書館という今いる世界にあるはずのないものが在る限り、綻びは開かれたままだ。そして長くいればいるほど繕う力も衰える。綻びがいつまでも繕えなければ、その世界は終わる」

 近隣の国でさえ維央にとっては未知の世界だというのに、今いる世界と異なる世界など想像を絶するものだが、そういうものもあるのだろうと無理矢理納得するしかない。

「だから発つ、ということですか」

「然様。何も今生の別れというわけでもないよ。一度図書館へ訪れた者は、手順を踏めば何度でも訪れることが叶う。待っておれ、今その手順を書いて渡そう」

 姫は文机へ移動すると、紙を広げ硯に墨を磨りはじめた。外つ国の人であり過ごしてきた文化も異なるだろうに、一連の所作にぎこちなさはどこにもない。千歳姫はそれだけの長い時をこの日本で、この想い出図書館の中でひとり過ごしてきたのだろう。筆を手に取った姫をぼんやりと眺めていると、維央にある考えが浮かんだ。

「私が千歳の跡を継ぐということはできませんか」

 姫が顔を上げた。ぽたり、と筆の墨が紙の上に落ちる。

「どうしてそんなことを」

「千歳が、自由を求めているように思ったもので」

 ぽかんとした顔で姫が維央のほうを見つめた。すぐにかあっと頬が紅潮するのがわかった。自分でもそれがわかったのか、咄嗟に頬に片手をあてむくれている。

「そんなにわかりやすかったか……?そんなことを申し出たのは、お前が初めてだ」

「あの……やはり……できない、ですよね」

 維央の問いに姫は顔を曇らせ、唇を引き結んだ。

 困らせてしまった。喜んでもらいたかっただけなのに。

 そう後悔している間に姫はいつのまにか筆を置いて、少しの間考えこんでいた。しばらくして顔を上げ「ついてこい」とだけ言って手燭を持ちすたすたと通路に消えてしまった。慌ててついてゆく。

 相変わらずどこをどう歩いたかわからないが、何遍も曲がりきざはしを上がり下がり進んだ先の引き戸の前で姫は立ち止まった。

「ここは『記録室』だ」

 それだけ説明して引き戸を開け、姫が先に足を踏み入れた。さして大きくもない一間の真ん中にぽつんと厨子ずし棚が置いてある。調度はそれと隅にある文机ぐらいでがらんとしている。何とも異様な景色だった。

 艶やかな黒漆に草子や巻物の意匠が施された厨子棚には、三段の棚が設えており、二段目と三段目は互い違いに観音開きの扉がついていた。姫が手燭を文机へ置いてきて二段目の扉を開けると、真っ白な表紙で結び綴じの記憶の本と同じぐらいの厚みの本が一冊入っていた。記憶の本であれば持ち主の名が表題に記されているが、その本には何も記されていなかった。三段目も開けると筆と硯が一揃い。それぞれを手にし、文机の前に座って置いた。

「この本はいったい?」

「特に名づけられてはおらぬが、これは想い出図書館のおおもとのようなもの」

 姫は答えて硯を磨り、本を開いて筆で何やら書き始めた。横書きで記された文字は異国のものなのか、維央には読めない。

 一通り書き終えると、姫が書いた文のあとの行に徐々に文字が浮き上がってきた。

「なんと面妖な。どうなっているのですか」

 維央の新鮮な驚きを余所に姫は「ワタシにもわからぬ」とそっけなく答える。

「お前が図書館を継ぐことはできる、と出た」

 どうやら姫はこの本に先ほどの維央の提案を問い、答えが返ってきたらしい。

「それなら」

「いやでもっ」

 姫は嫌々とぐずる子どものように首を横に振った。

「お前にこんな、なすり付けるようなことなど……」

「私があなたの跡を継ぐのはむしろ本望ですよ」

 姫に笑いかけると、姫のほうは怒ったようにきっと維央を睨みつけてきた。

「ワタシを見ていてわかるだろう。ワタシの跡を継ぐということはだな、人よりずっと長い時を生きることになるのだぞ」

「それでもよいのです。特に志もなくただ過ぎる日々に面白味を感じなくなっていたところで千歳と出会い、日々のあれこれが楽しいと感じるようになりました。何気なく通り過ぎていた出来事が新鮮に映るのです。あなたがそれを気づかせてくれたのですよ、千歳。いずれ恩返しをしなくてはと思っていましたし、無為に過ごしてつまらなく生を終えるよりずっとよいでしょう」

「恩返し……」

 ぽつりと維央の言葉を拾ったものの、簡単に「じゃあそれなら」と言えないのだろう、ゆるゆると俯いてしまう。さらさらと銀糸の髪が流れて顔を隠してしまった。沈黙が降り、それが永遠に続くような錯覚を覚えた時、姫が顔を上げた。

「ワタシの昔の話をしよう。この図書館の館長になったいきさつを。それを聴いてなお、ワタシの跡を継ぎたいというのであれば無理には止めない」

「いきさつ」

 ずっとずっと、維央が知りたいと思っていたことだ。

「では、謹んで拝聴いたします」

 深々と頭を下げると、千歳姫は「そんなにかしこまるような類の話ではないよ」と笑った。そして仕切り直すように深く息を吐いて昔語りを始めた。

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