4-13

 姫はさほどかからずに目的の本を見つけ出し、道長の元へ戻った。

 本の装丁は様々にあるがその装丁の形ごとに棚に分けられているというわけでもなく、どういった順に収まっているものか、ざっと目を通してもわからず仕舞いだった。姫はどうやって迷いなく目当ての本を探し当てているのか、それについてもついていったところで維央には何ひとつわからなかった。抜き取った本は結び綴じの見慣れたものだった。深緑の表紙で厚みがある。綴じるのに難儀しそうな厚みだ。表紙には花山法皇殿下の諱がはっきりと記されていた。

「これが花山法皇殿下の記憶の本だ。一昨日の夜更けのこと、で良かったかな」

「ああ、頼む」

 道長に乞われ、姫は文机の前に腰を下ろした。道長と維央も促され板の間に座す。姫は大きく深呼吸をして、細く白い指で丁寧に本を開いた。ぱらぱらと大まかにめくって、目的に近いところを見つけたのか、今度は一頁ずつめくっていく。手が止まった。再び呼吸を整える。何だか儀式でも始まるような厳かな雰囲気だ、と維央は思った。

「もうすっかり夜も更けた」

 良く通る声が辺りに響く。

 その声が次第に遠くなってゆくと、徐々に辺りが暗くなってきた。気づけば空気もきんと張りつめたように冷えている。寒い。手をこすり合わせ温めようと吐く息も白かった。思わずまわりを見回す。そこはもう想い出図書館の中ではなかった。

 冴え冴えと白い月明かりの下、両脇を屋敷の塀で囲まれた通りに維央たちは立っていた。その少し先を網代車ががたごとと音を立て進んでいる。

「追うぞ」

 隣にいた道長がその牛車を当然のようについてゆくので、維央も慌てて続いた。牛車はやがてある屋敷の門をくぐった先で止まった。

「この屋敷……もしや」

 道長が何やら勘づいたようにつぶやいた。門から恐る恐る中を覗く。車副に促され牛車から降りてきた、頭を丸めた男がおそらく花山法皇殿下であらせられるのだろう。そうわかると、自然とその考えは確かなものに変わった。何とも不思議な心地だ。

「ささ、わたしたちも中へ」

「宜しいのですか……?隠れなくては見つかってしまうのでは」

「何を言っておるのだ、ここは来し方の中だ」

 力強く手招きする道長が口にしたことがはっきりと理解できていないまま後に続く。そんな普通に往来を歩くように堂々と、訪問の意を告げず招かれてさえもいない屋敷の中に入ってよいものなのか。こわごわと足音を殺したまま屋敷の敷地に入った。入ってしまった。ああ、ばれてしまえばただごとではないだろう。生きた心地がしない。

「ようこそお越しくださいました」

 屋敷の入り口である縁側に妙齢の女人がしとやかに座して待っており、花山法皇殿下が来たことに気づくと深々と頭を垂れた。

「あれは四の君ではないか」

 道長が驚いたように大きな声を出すので慌てたが、まわりが気にする様子もない。

 もしや、記憶の中で我々はとされているのか。

 考えてみれば当然のことであった。ようやく合点がいった。今観ている景色はすでに過ぎ去ったことをもう一度そのまま繰り返しているだけに過ぎない。牛車のあとを堂々と追ったり声をあげたりしたところで、己らに気づくことはないのだ。その時その場に維央たちはいなかったのだから。

 己の身が置かれている有り様に納得し余裕が持てたので、維央は道長が発した言葉にも考えをめぐらせることができた。彼の人はと口にしていた。前の年に身罷られた太政大臣殿(藤原ふじわらの為光ためみつ)の娘御であらせられるたけ様のことではあるまいか。

「今日一日ずっと、お前に会えることを思って何も手につかなかった」

「あらあら。昨日会ったばかりじゃございませんか」

「昨日だろうと三日前であろうと関係ない。少しでも離れると、またお前に会いたい気持ちがつのって仕方がないのだ」

「まあ。嬉しいこと」

「早う寝所へ。さあさあ」

「そう急がずとも、冬の夜は長いでしょう。ほら、新しい香を手に入れたのです。いかがですか」

「確かに昨日と違うなあ。良い香りだ。ああ、お前のものと混ざり合っていっそう……」

「あらあら」

 ぱたん。

 本の閉じる音がしたと同時に、幻のように今までいた景色はすっかりかき消えていた。冬の弱い陽射しが差しこみ少し寒さのゆるんだ、想い出図書館の一間に彼らは戻っていた。千歳姫がこめかみに手をあて、少し難儀そうにしている。

「大丈夫ですか」

 肩を支えるため手を差し伸べようとしたが「大丈夫だ」と手で制される。

「いつものことだ。しばらくすれば治まる。他人の記憶を観るとしばし頭がゆれる」

「千歳姫よ。ふたりが寝所へ行く前に閉じてしまうとは。この先が肝心ではないか」

 道長は姫の様子に慣れているのか、心配するでもなく不満を口にする。

「あれだけ親密な様子ならば、先を観ずともわかりきっておる。その先も観たいとは……品がないのでは?」

 皮肉は常と変わらず絶好調なようだが、目が泳いでいて頬はほんのりと赤い。よく見れば耳まで赤い。

「相変わらず口だけは達者だな。しかし艶ごとが苦手とは。わたしのような頼みごとがほかにあったらどうする」

「……どちらにせよ、おぬししか頼んでこないだろう」

「それもそうか」

 むすっと答えた姫に気分を害すでもなく、道長はほほ、と笑った。忙しいお人なのだろう道長は、それで用は済んだとばかりに軽く礼を千歳姫に伝えて帰っていった。


  ◇


 ふたりきりになり、ようやく姫に思っていたことを口にできた。

「記憶の本がかようなものだとは……驚きました。これほどことわりを外れた不可思議なものごとは初めてです。どういうものか、おおかたのことは聞いていましたが、身をもって見聞きするとなると、まったく違いますね。今まさに目の前でことが繰り広げられているようでした」

「ずいぶんと饒舌だな。興味が湧いたか」

「ええ、少し……けれど、やはり私や他人の記憶を観てみたいとまでは思わないですね」

「そう言うだろうと思った」

 姫が笑った。また、笑ってくれた。

 初めて笑ってくれたときは、もっと喜ばせたい、だった。今はもっと姫の色んな顔が見られたら、と維央は思いはじめていた。欲なんてたいして持ち合わせていないと思っていたのに、姫に会ってからはどんどんと欲張りになってしまう。やはり、来し方に興味は湧かない。千歳姫と会ってからのほうが、日々が彩りあるものに感じられるからだろう。

 次は姫にいつ会おう。

 姫と他愛ない話をしながら思うことはそれだった。


 長徳二年(九九六年)正月、藤原道長は花山法皇殿下の女通いの噂を利用した結果、政敵であった藤原道隆の一族中関白家なかのかんぱくけが排斥されることとなった。のちの長徳の変だという。

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