4-10
「柑子!」
籠のついた背負子に柑子をたっぷりと積みこみ、陽の高いうちに図書館を訪れると、千歳姫はぱっと花が咲いたように明るい顔を見せた。
「お好きですか」
早速維央の背からつま先立ちでひとつ手に取ってまずは香りを楽しむことにしたらしい姫は、鼻をひくつかせながらこくこくと頷いている。
畏まった言葉づかいをせず自然に接してくれと言われていたが、姫と呼ばれるお方だ、丁寧な言葉づかいをまったくしないのはなんとなく気が引けた。ほんの気持ちではあるが、砕けた言葉づかいなので許してほしい、と懇願したら「勝手にしろ」と呆れまじりに笑われ、以来こんな調子で通している。
「この果物は日本に来て初めて口にしたが、甘酸っぱくて良いものだな。色も明るくて香りもさわやかで実に好ましい」
千歳姫が「量が多いから一旦台所に運んでほしい」と言うので手燭とともに案内してもらう。今までは入ってすぐの小上がりまでで用が済んでしまっていたので、細い通路には初めて入った。
奥行きがあるとは思っていたが、本当に先が見えないのには驚いた。その両の壁がすべて棚になっており草子(姫は本と呼んでいたからそう呼んだほうが適切か)が隙間なく並んでいる。結び綴じの装丁だけでなく、見慣れぬ装丁のものもさまざまに混じって壮観だ。本に陽の光は天敵だというから、昼間でも手燭が手放せないくらい通路は薄暗い。通路はただ真っ直ぐ続いているのではなく、ところどころに分かれ道がある。姫の案内がなければたちどころに迷ってしまうだろう。
「お前は土産を持ってくるか世間話をしに来るばかりで、自身の記憶の本にはどうも興味がないようだが」
千歳姫は前を手燭で照らしたまま歩を緩めず、振り返ることもなくこちらへ言葉を投げかけた。
「そうですね。まったく」
「お前はつまらぬ人間だな」
「ええ、つまらないですよ。だから来し方のことを振り返ったとしても、面白いことは何ひとつないでしょう」
「それなら、誰かの記憶に興味はないか?」
「他人の記憶の本は千歳が観てくれるのでしょう?そうやってお手を煩わせるのなら必要ありません。そもそも観てみたい他人の記憶などぱっと思いつくものもありませんし、覗き見みたいで悪趣味ですよ」
強いて言えば千歳姫の来し方のことには興味があったが、今までまともに姫が己の来し方を話すことはなかったので、おそらく話したくないのだろう。それなら観なくていいと維央は思った。
「維央は、過去にも今にも満足しているのだな」
「満足?」
そんなこと考えたこともなかった。ただ他人にも己にも興味が薄いだけのような気がするが。
「不満や後悔があるから、人は記憶の本に頼るのだ」
どこをどう歩いたかわからぬまま千歳姫が足を止めた。そこが台所らしい。引き戸を開けるとそこそこ広い一間が現れた。
竈があって井戸もある。煮炊きしながら外へ出ずとも直に水を汲めるようだ。木製の縦面格子がはまる窓が明り取りになっていて、今まで薄暗い中を歩いてきたので眩しいくらいに陽の光が差し込んでいる。そこへ面した洗い場には水が張っており、朝使ったらしい食器がまだ乱雑なまま浸かっていた。
「散らかっていて悪いな」
「いいえ」
「お前が来る少し前に朝餉を終えたばかりで……」
「朝は苦手ですか」
「……少し」
弱点を指摘されて気まずそうにする姫が微笑ましい。
この程度なら大した弱みでもないのに。
維央は改めてぐるりと辺りを見回した。
「まわりが本ばかりなのに、その奥に台所があるというのは、火事になったらと思うと少し心配ですね」
「どういう理屈なのかはわからぬが、台所から外に火が出ないようにできているらしい」
「千歳にもわからないんですか」
「わからぬ」
指示され維央が背負子を下ろし籠を調理台に置くと、姫はさっそく柑子をひとつ取って剥きだした。
「維央もひとつ剥いてみてはどうだ」
言われたので籠から頂戴する。手には取ってみたものの、姫の剥く指先から目が離せなかった。白く、ほっそりとした指だ。柑子のへたを下にして親指を押しこむとぷつりと皮が破ける。そのまま親指を皮と実の間に潜りこませめりめりと剥いて、あっという間に黄色い粒のそろった実が現れた。
「綺麗に剥かれるのですね」
「この程度、手の自由が利けば造作もないだろう」
「いえ、その……こういったことは高貴な方であれば下女がやることなので、何というか……千歳が剥いているのが物珍しいといいますか……すみません」
「姫なんて仰々しい名をつけられたせいで、皆ワタシが箱入り娘だと思っておるのが業腹だな。ずっとここで、ひとりでやってきたというのに」
しかめ面で喋りながらも、薄皮の表面に貼りついている白い筋を丁寧に剥がしてゆく。
「その名は右大臣殿がお付けしたと伺っておりますが……どういった由来なのです?」
「初めて会った時ひどく子ども扱いされたから、ワタシはお前より千年は生きているわ、見くびるなと言ったら、そうつけられた。それと態度が尊大だから姫も付けてやろう、だと。短絡にもほどがあるな」
姫はいつものように鼻で笑う。維央は改めて千歳姫を眺める。銀糸の髪をしていて貫禄もあるから、千年生きているなどと言われるとなるほど信じてしまうなと心の中で頷く。
「では、本当の名はなんと言うのですか」
維央の問いに、千歳姫の手が止まった。
「前の名は……捨てた」
「捨てた……?」
「図書館に全部やってしまった」
思い出したように再び白い筋を外す作業が始まる。問いを重ねたかったが聞いていいような雰囲気ではなかった。なんとなく会話が途切れ、維央も柑子を剥くことにした。無言で実を剥く音だけが台所に小さく響く。維央のほうが剥き始めたのがあとなのに、姫はまだ丁寧に白い筋を取っていた。
「はあ、やっと綺麗になった。ん?ワタシが剥き終わるのを待っていたのか?」
聞かれたので素直に頷く。白い筋をすっかり取り去って達成感に微笑んだ姫に、さっきまでの気まずさはないように見える。
「ワタシを待たずともよいのに。さあ、食べよう食べよう」
それならと姫に従い「いただきます」と実を割ってひと房を口へ運んだ。歯に抵抗を感じつつぷつりと割れる薄皮の中から、みずみずしく甘酸っぱい果汁が口いっぱいに拡がる。さすが帝に献上された代物だけある。
「美味しい」
「美味しいな」
それだけ言ってお互い黙々と食べ、あっというまにそれぞれの腹の中に納まった。むう、とほんの少し唇を尖らせ、姫がぼそりとつぶやく。
「……ひとっつだけじゃ食べた気がしない」
「今度は私が剥いてあげましょうか。白い筋を残したままでも美味しいですよ」
そう申し出たところで遠くで「おうい」と呼ぶ声がした。
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