4-8

 湯冷ましを三分の一ほど飲んで、維央は本来の訪問の理由を口にすることにした。

「私は右大臣殿からあることを言付かって参りまして」

「何だ。嫌な予感がするな」

 そうじっとりとした目を向けて身構えられると言い出しづらい。しかし、言わないわけにもいかないのだ。板挟みは辛い。

「そうおっしゃらずに。お言伝というのは、またそのたぐいまれなる能でもって来し方のことを観てほしい、と」

「嫌だ」

 返ってきたのはその鋭く短い一言だけだった。

「あの、私の名は杉名維央と申します。あなた様に名が良いと言っていただけたようで……」

「そんな奴、知らぬ」

 ふん、と千歳姫は鼻の頭にしわを寄せ、そっぽを向いてしまった。しかし何か思い当たるふしがあったのか、口許に手を充て思案する。

「むう?そういえば……少し前におっさんに会ってみたい者はいないかと聞かれたことがあったな……。それでワタシはこいつならば名前が気に入ったから会ってみてもよいと……しかし、ワタシが良いと言ったのはイオーという名だ。しげなかではない。この館の本でたまたま名を見かけただけで、顔は知らぬ」

 イオー?

 言われてぴんときた。維央は「しげなか」と読むが、読みを変えれば「いおう」とも読める。千歳姫はべつの読みで覚えていたらしい。

「千歳姫様、何か書きものをご用意することはできませんか。そうしましたならば、私がその『イオー』であるとすぐにわかっていただけるでしょう」

 千歳姫は「どういうことだ?」と訝しんでいたがすぐ意図に気づいたらしく、かあっと頬が紅く染まっていくのがはっきりとわかった。

「お、お前、ワタシを馬鹿だと思ったろう。そうだろう!」

「勘違いは誰にでもあるものです」

「そっ!そもそもだな……同じ文字で読みがいくつもあるのが悪いのだ……」

 姫はもごもごと独り言のように言うと、ふくれっ面で膝を抱えそれきり黙ってしまった。大人びているかと思えば、今度は子どもそのものだ。彼女のことが少しわかってきたように思ったが、それは間違いだったようだ。

「私はいおうと呼んでくださって構いませんよ。素敵な響きじゃあないですか」

「……いおう」

 ばつが悪そうにおずおずと名を口にする。あたらしい響きの名を呼ばれ、維央は例えようのない感情がわき上がるのを感じた。

「はい。千歳姫様」

「……それにイオーだから、イーオーを連想して女の名だと思ったのだ。ギリシア神話のな」

「女の名なのですか?神話……ということは神様なのですか」

「いや、神ではない。惑う人だ。

 最高神ゼウスの妻である女神ヘラの神職にあったイーオーだったが、美しさゆえにゼウスに一方的に見初められてしまう。ヘラは夫の浮気に勘づいて現場を押さえようとしたが、ゼウスはイーオーを白い牝牛に変えてしらを切ろうとする。その程度ではゼウスの浮気の遍歴を知っているヘラの疑いは晴れず、ヘラは牝牛を乞い受け、アルゴスという百目の巨人を見張りに付けて閉じ込めてしまうのだ。アルゴスはゼウスが遣わしたヘルメスによって倒されてしまいイーオーは解放されるのだが、牝牛の姿のまま、今度はヘラに蛇を差し向けられて惑うことになる」

「その……あまりよい逸話だとは思えませんね」

「確かに。しかしイーオーは惑ったすえ、ギリシアからエジプトへと至った。そしてその地で元の人間の姿に戻り、めでたくも自由を得たのだ。ワタシが本当の自由を得るには、この図書館を放り出さないといけない。それはきっと死なないかぎり叶わないだろう。だからこそ……その名に惹かれたのだ」

 姫の顔が曇る。膝をよりいっそうぎゅっと抱えこむのが維央にも見て取れた。彼の人には何やら色々と背負っているものがあるように感じる。こんなにか弱く小さな背中に。

「今から外に出ませんか」

「何を言って……駄目だ。ここを留守にしているうちに誰かが迷いこんで、他人の本をうっかり読んでしまったらいけない」

「大丈夫です」

 維央は伝わるようにと念をこめて、千歳姫の手を取った。

「外に少しの間出るだけですから。すぐ戻れます」

 ようやく、目が合った。暗がりでは射干玉に見えていた瞳が、灯りに照らされはしばみ色に揺れた。

「それじゃあ……ちょっとだけ」

 少し迷うようにして紡がれた返事を受け取ると、維央は立ち上がって千歳姫の手を引き、そのまま外に出た。もうだいぶ暗いと思っていたがやはり、木々の間にぽっかりと覗く空には小さな星々が瞬き始めている。風はないが、しんと空気が冷えている。

「寒くはありませんか」

「いいや、大丈夫だ」

 姫は維央の手を確かめるように握り直した。

「私はみやこ以外の空を知りませんが、ここの夜空も捨てたものじゃないでしょう。新月ですから星がいつもよりよく見えますね」

「……きれい」

 ぽつり、と吐息のように言葉がこぼれた。

「空を見上げるなんていつぶりだろう。こんなに、広かったのか」

「冬の空は空気が澄んで星がよく見えるのです」

「寒いばかりでただただ嫌だと思っていたが。冬は星が綺麗なのか。良いことを聞いた」

 千歳姫は維央に視線を戻し「教えてくれて、ありがとう」と微笑んだ。

 姫が笑ってくれた。たったそれだけのことなのに、こんなにも嬉しいとは。

 もっと話したい。もっと喜ばせたい。

「冬の星空ばかりではありません。日本やまとの四季はそのときどきでさまざまな顔を見せてくれます。春は桜を愛で、夏は蛍を目で追い、秋は紅葉にあはれを感じ、冬の雪景色を火桶を囲んで眺めるのです」

 維央の言葉を聞き、千歳姫は盛大な溜め息をひとつついた。

「お前のせいで……外に興味を持ってしまったじゃないか」

「良いことではありませんか。ここを長く空けることは、やはり難しいですか」

「駄目だ。ワタシはこの図書館を見張っていなければいけない」

 そう言って首を振る。

「見張る?守るではなく」

「この図書館は、一歩間違えれば人間にとって厄災になりうる。

 己の記憶を覗くのみならば害はないが、ここを知って次に興味を持つのは、やはりであろう。ワタシは館長……ここの主だから他人の記憶を観てもさして障りはないが、あれは人を狂わせる。記憶に呑まれるのだ。

 だからこんな存在はなるべく人の耳に入らぬほうがよい。触らぬ神に祟りなし、とも言うであろう。それなのに……この図書館は記憶を想い出したい人間を勝手にいざなう。だからワタシが見張っていないといけない」

 ぎゅっと千歳姫は自身の拳を握りしめる。

「あなた様はそれをいつからになって……?」

「いつからだろうな。途方もないよ。数えるのも馬鹿馬鹿しくてずいぶん前にやめてしまった」

 言葉を切ってまた夜空を見上げる。それでこの話は終わりらしかった。さすがにそれ以上問いを重ねる勇気は維央にはなかった。

「おっさんはまた記憶を観てほしいのだったな」

「はい」

「好きな時に来いと伝えてくれ。その代わりの条件として、維央が手の空いているときでよいからここを訪れるように、と」

「良いのですか」

 呆気に取られ思わず問うと、姫は目を細めて優美に笑った。それがまた見た目の幼さにそぐわぬ何とも言えない艶があった。願ったり叶ったりの条件と姫の美しさに、何だかのぼせあがったように頭がぼうっとなった。そのまま呆けてしまっていると、姫が苦笑しつつ、しっしと手を払う仕草をした。

「ほれ。きっとお前の知らせを首を長ぁくして待っているだろうからな。さっさと行って報告でも何でもしてこい」

「は、あ、ありがとうございます。では、本日のところは失礼いたします」

「ああ。それとその畏まった言葉づかい、息が詰まるだろう。従者じゃないんだし、もっと自然にしてくれて構わぬぞ。あとワタシのことは千歳と呼べ」

 そう言われてもすぐには態度を直しづらい。「次の機会には」と断っておいた。再び礼を言って図書館を辞し、待っていた牛車の元まで戻った。つい先ほどのことなのにすべてが夢だったように思え、足元がふわふわとして覚束ない。そんな状態だったが車副の男になんとか言伝はできた。

「庵の姫様は気難しいと聞いていましたが、滞りなくお返事がいただけたようで良かったです。主人の返答があるまで、ここへ来るのは控えるようお願いします。それとわかっていると思いますが、今日のことはどうかご内密に」

 ただただ車副の言葉に頷き牛車に乗り、夢うつつでしばらく乗っていたらまた吐き気をもよおしたので、この気持ち悪さは夢ではないから一連の出来事もうつつであったと逆に安心することができた。

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