4-7
◇
結論から言うと、盛大に車酔いをした。
網代車が音を立てて、大小入り混じった砂利を踏んで際限なく揺れている。
慣れない牛車の不規則な揺れと道長の期待、それから睡眠不足によって維央の腹の虫は中のものを吐き出そうともがいていた。だがそれを車中にぶちまけるなど、
そんな有様だったから、どこをどう移動したのかわからない。
一瞬意識が飛んだらしい頃にようやく外から、着きましたよ、と声が上がった。牛車の歩みは己の足で歩いたほうが速かろうというのんびり具合だ。それなのによく耐えた、と維央は己を褒めたくなった。
到着した辺りは確かに如意ヶ岳の麓らしく、うっそうとした森が広がっていた。すでに陽の光は西に見える遠くの山々に陰りはじめていて、より陰鬱な印象を際立たせていた。巣に戻ろうというのか、
「主人から、用が済みましたらあなた様の屋敷まで送り届けるよう言付かっております。私はこいつと牛をみていますから、ここでお待ちしておりますね」
「ああ、車に酔いましたか?大丈夫でございますか」
車副の男は
「だ、大丈夫だ……。待たせるのは悪いから、さっさと済ませよう」
意外にも喋ると吐き気が薄れた。これなら歩けそうだ。親子に礼を言って庵へ足早に進んだ。目で確認できるほどの距離だったから、散歩にもならないうちに着いてしまう。ふと振り返ると、お供の親子は律儀にも気づいてぺこりと頭を下げた。改めて目の前の庵を見上げる。
そう、本当に小さな草庵だ。
建ってからだいぶ経っているらしい。こぢんまりとしていて屋根は萱葺きだ。その屋根がところどころ苔むしているせいで、まわりの森ほとんど一体になった雰囲気の佇まいだった。
ごくりと唾を飲みこむ。すると気が紛れて一度落ち着いたはずの吐き気が戻ってきてしまった。しまったと思ったがもう遅い。
むかつきを覚えつつも足早に戸の前に立った。戸を叩いたが、あたりが暗くなってきたというのに明かりは見えないし、人のいる気配もない。本当にこんなところにひとりきりで住んでいるのだろうか。
「ごめ……うえっ」
ご免ください、と声をかけようとした。したのだが、最後まで言えなかった。立っていられず屈みこんだところで、中の物が酸っぱい液体とともに地面に注がれた。仮眠をとる前に朝餉を摂ってはいたが緊張で喉を通らず、出たものもほとんどが水だった。土の上にその染みが広がってゆく。ああ、吐いてしまった。まだ出し切れていないらしくえずいているうちに、戸が緩慢に引かれたのを頭上の気配で感じた。
「うわ……大丈夫か、お前」
困惑と少しの心配のこもった、童女らしいほんの少し幼い声が上から降ってきた。吐き気が収まってきたので声のほうを見上げる。これをどう扱ってよいものかとでもいうような、不安げな顔がそこにあった。
美しい。
困惑に眉が下がっていてもなお美しかった。
たしかに日本の生まれの者よりかは、はっきりと目の覚めるような目鼻立ちをしている。歳のころは、十を少し過ぎたくらいか。外つ国から来た女童だというから見慣れぬ装いをしているのかと思っていたが、ふたを開けてみれば維央も見慣れた
「あなた様が、千歳姫様でございますか」
「さよう、このワタシが千歳だ。その名で呼ぶのなら、お前も『蛇』の使いの者か。いや、おかしいな。いつもの使いは昼間に入り用な物を届けに来たし……」
こんな山奥に匿っておいて住はともかく衣食はどうしているのかと不思議に思っていたが、定期的に使いの者が品物を届けに来ているらしいと合点がいく。
「それとは別件で参りました。しかし、その……蛇……とは」
話の流れで蛇とは恐らく道長のことだろう。ずいぶんな渾名だ。恐る恐るその名を口にすると、姫は悪びれもせず鼻で笑った。
「だってあのおっさん、何か企むときの顔が獲物を狙う蛇そっくりなんだもの。そんなことよりまず、口をゆすいだほうが良い。それと、落ち着いたら湯冷ましを出してやろう。すぐではまた腹の虫がびっくりするだろうからな」
見蕩れながらも頷くと「たいしたもてなしはできないが」と庵の中へ招きいれられた。
顔立ちは幼いのに、所作は老成していてちぐはぐに感じる。とっくの昔に髪上げと裳着を済ませたような貫禄だ。どこからどう見ても童女だが見た目より歳を重ねているというし、ひょっとすると己よりずっと歳上なのかもしれない。そう考えてしまうと、姫がこうもたやすく男である己の前に顔を晒していることに、こっちのほうが気恥ずかしくなってしまった。
「さあ、こちらに」
中は外観ほどには朽ちていなかった。むしろ大切に扱って使い込まれたような年季を感じる。入ってすぐはこじんまりとした土間で、その先の小上がりに座るよう促された。維央がぼんやりと辺りを眺めている間に千歳姫は「しばしここで待っておれ」と手燭を携えすぐに奥に引っこんでしまった。
小上がりはすべて板張りになっており、飴色に鈍く光を返している。板の間の隅にはぽつんと文机が置かれていた。その横には
「ゆすいだら、この空の湯呑みに吐き出すといい」
こちらが申し訳なくなるくらいに甲斐甲斐しい。礼を言って水を口に含む。隣に腰かけてじっと見つめてくるものだから、水を吐きだす動作もどぎまぎとぎこちなくなっている気がする。しかし口の中がすっきりすると、幾分か気持ちにも余裕ができた。
「庵にしてはずいぶんと奥行きがあるようですね」
維央は疑問に思っていたことを口にした。
「これは庵などではない。記憶の本の館。想い出図書館だ」
何やら耳慣れない言葉が続き、二の句が継げない。千歳姫は「この国の者は皆、図書館だと答えると目を白黒させるな」と笑った。
「これは同じように説明した時、おっさんに教わった受け売りだが……『
「それが、想い出図書館」
千歳姫は頷いて優美に笑うと「湯冷ましも要るか?」と湯呑みをこちらに差し出した。
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