4-7

  ◇


 結論から言うと、盛大に車酔いをした。

 網代車が音を立てて、大小入り混じった砂利を踏んで際限なく揺れている。

 慣れない牛車の不規則な揺れと道長の期待、それから睡眠不足によって維央の腹の虫は中のものを吐き出そうともがいていた。だがそれを車中にぶちまけるなど、のちのことを考えると死んでも嫌だった。体裁を気にしないのであれば上がっている簾から身を乗り出して外に吐いてしまえばとも思ったが、少し身じろぎしただけでも終わりだろうという確信があって、どうしてもこの場から動くことができなかった。浅い呼吸を繰り返してなんとか耐えつつ、これが地獄かと維央は気が遠くなりながらも思った。

 そんな有様だったから、どこをどう移動したのかわからない。

 一瞬意識が飛んだらしい頃にようやく外から、着きましたよ、と声が上がった。牛車の歩みは己の足で歩いたほうが速かろうというのんびり具合だ。それなのによく耐えた、と維央は己を褒めたくなった。

 到着した辺りは確かに如意ヶ岳の麓らしく、うっそうとした森が広がっていた。すでに陽の光は西に見える遠くの山々に陰りはじめていて、より陰鬱な印象を際立たせていた。巣に戻ろうというのか、からすがいやに鳴いている。たいへん不気味だ。眼前には如意ヶ岳の山道に続く小道がひらかれていて、その暗がりの途中に庵がぽつんと置かれていた。はじめて何も知らずにここを通りがかった者は、木々にまぎれてしまって庵があることに気づかないかもしれない。

「主人から、用が済みましたらあなた様の屋敷まで送り届けるよう言付かっております。私はこいつと牛をみていますから、ここでお待ちしておりますね」

 くるまぞいの男がそう言って、横にいた十くらいの牛飼うしかいわらわの肩に手をやった。雰囲気からして息子だろうか。待っていると言うが、目的地に無事送り届けたのだからそのまま帰ってくれたら良かったのに、というのが正直な気持ちだった。道長に信用されていないのだろうと察しはつくが、やはり見張られているようで落ち着かない。どうして、貴人の勝手でこんな地にまで連れてこられて振り回されているのだろうと悲しくなった。しかし涙は出ない。まだ治まらない吐き気を我慢しているからだ。気が緩んだら確実に吐く。

「ああ、車に酔いましたか?大丈夫でございますか」

 車副の男はしじを置いて維央が牛車から降りるのを助けながら、体調までもを心配してくれた。そのやさしさが大変嬉しかった。この親子は主人に従っているだけだ。責めてはいけない。

「だ、大丈夫だ……。待たせるのは悪いから、さっさと済ませよう」

 意外にも喋ると吐き気が薄れた。これなら歩けそうだ。親子に礼を言って庵へ足早に進んだ。目で確認できるほどの距離だったから、散歩にもならないうちに着いてしまう。ふと振り返ると、お供の親子は律儀にも気づいてぺこりと頭を下げた。改めて目の前の庵を見上げる。

 そう、本当に小さな草庵だ。

 建ってからだいぶ経っているらしい。こぢんまりとしていて屋根は萱葺きだ。その屋根がところどころ苔むしているせいで、まわりの森ほとんど一体になった雰囲気の佇まいだった。

 ごくりと唾を飲みこむ。すると気が紛れて一度落ち着いたはずの吐き気が戻ってきてしまった。しまったと思ったがもう遅い。

 むかつきを覚えつつも足早に戸の前に立った。戸を叩いたが、あたりが暗くなってきたというのに明かりは見えないし、人のいる気配もない。本当にこんなところにひとりきりで住んでいるのだろうか。

「ごめ……うえっ」

 ご免ください、と声をかけようとした。したのだが、最後まで言えなかった。立っていられず屈みこんだところで、中の物が酸っぱい液体とともに地面に注がれた。仮眠をとる前に朝餉を摂ってはいたが緊張で喉を通らず、出たものもほとんどが水だった。土の上にその染みが広がってゆく。ああ、吐いてしまった。まだ出し切れていないらしくえずいているうちに、戸が緩慢に引かれたのを頭上の気配で感じた。

「うわ……大丈夫か、お前」

 困惑と少しの心配のこもった、童女らしいほんの少し幼い声が上から降ってきた。吐き気が収まってきたので声のほうを見上げる。これをどう扱ってよいものかとでもいうような、不安げな顔がそこにあった。

 美しい。

 困惑に眉が下がっていてもなお美しかった。

 たしかに日本の生まれの者よりかは、はっきりと目の覚めるような目鼻立ちをしている。歳のころは、十を少し過ぎたくらいか。外つ国から来た女童だというから見慣れぬ装いをしているのかと思っていたが、ふたを開けてみれば維央も見慣れたうちきを乱れなく纏っていた。薄闇の翳りのせいか、瞳は射干玉ぬばたまのように引きこまれるような漆黒に映る。それがこぼれんばかりに見開かれていた。肌はそれと対比するかのごとく、抜けるように白い。その中でぽってりと紅い小さな唇が可憐だ。やはり何より目を引くのは、幼い顔立ちにそぐわぬ銀糸の髪だった。尼削ぎのように前髪を残しているが、下ろした髪の長さは裾にまで届く、いわゆるすいはつにしていて風変わりだ。それが童女の持つ手燭によってゆらゆらと妖しく輝いている。道長は白髪と言っていたが、年を経て栄養の行き届かなくなった髪ではなく、艶とこしのある真っ直ぐな美しい髪だ。銀髪と形容するのが正しいように思えた。

「あなた様が、千歳姫様でございますか」

「さよう、このワタシが千歳だ。その名で呼ぶのなら、お前も『蛇』の使いの者か。いや、おかしいな。いつもの使いは昼間に入り用な物を届けに来たし……」

 こんな山奥に匿っておいて住はともかく衣食はどうしているのかと不思議に思っていたが、定期的に使いの者が品物を届けに来ているらしいと合点がいく。

「それとは別件で参りました。しかし、その……蛇……とは」

 話の流れで蛇とは恐らく道長のことだろう。ずいぶんな渾名だ。恐る恐るその名を口にすると、姫は悪びれもせず鼻で笑った。

「だってあのおっさん、何か企むときの顔が獲物を狙う蛇そっくりなんだもの。そんなことよりまず、口をゆすいだほうが良い。それと、落ち着いたら湯冷ましを出してやろう。すぐではまた腹の虫がびっくりするだろうからな」

 見蕩れながらも頷くと「たいしたもてなしはできないが」と庵の中へ招きいれられた。

 顔立ちは幼いのに、所作は老成していてちぐはぐに感じる。とっくの昔に髪上げと裳着を済ませたような貫禄だ。どこからどう見ても童女だが見た目より歳を重ねているというし、ひょっとすると己よりずっと歳上なのかもしれない。そう考えてしまうと、姫がこうもたやすく男である己の前に顔を晒していることに、こっちのほうが気恥ずかしくなってしまった。

「さあ、こちらに」

 中は外観ほどには朽ちていなかった。むしろ大切に扱って使い込まれたような年季を感じる。入ってすぐはこじんまりとした土間で、その先の小上がりに座るよう促された。維央がぼんやりと辺りを眺めている間に千歳姫は「しばしここで待っておれ」と手燭を携えすぐに奥に引っこんでしまった。

 小上がりはすべて板張りになっており、飴色に鈍く光を返している。板の間の隅にはぽつんと文机が置かれていた。その横には高坏たかつき灯台と高灯台が置かれておりそこそこ明るい。ここで姫は庵に収められた草子を読み解いているのだろうか。調度はほかに暖を取るための火桶があるだけで、ずいぶんがらんとしている。その奥に千歳姫が歩いていった細い通路が続いていた。外からではわからなかったが、ずいぶんと奥行きがあるらしい。さほど待たずに盆に湯呑みを三つ載せ、千歳姫が戻ってきた。ひとつは水、もうひとつは湯冷まし、最後のひとつは空だった。

「ゆすいだら、この空の湯呑みに吐き出すといい」

 こちらが申し訳なくなるくらいに甲斐甲斐しい。礼を言って水を口に含む。隣に腰かけてじっと見つめてくるものだから、水を吐きだす動作もどぎまぎとぎこちなくなっている気がする。しかし口の中がすっきりすると、幾分か気持ちにも余裕ができた。

「庵にしてはずいぶんと奥行きがあるようですね」

 維央は疑問に思っていたことを口にした。

「これは庵などではない。記憶の本の館。想い出図書館だ」

 何やら耳慣れない言葉が続き、二の句が継げない。千歳姫は「この国の者は皆、図書館だと答えると目を白黒させるな」と笑った。

「これは同じように説明した時、おっさんに教わった受け売りだが……『芸亭うんてい』という書庫を知っているか?今より昔、石上宅嗣いそのかみのやかつぐという文人がおってだな。奈良の都の旧宅の一部に書庫を置いて、学びたい者が自由に調べ、読めるよう開放したのだそうだ。今もあったならば、ワタシも是非見てみたかったが……まあ、そのようなものだと思っていい。芸亭は仏典と儒書を学べ、こちらは人の過去……来し方の記憶を観ることができる。その違いだ」

「それが、想い出図書館」

 千歳姫は頷いて優美に笑うと「湯冷ましも要るか?」と湯呑みをこちらに差し出した。

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