4-5

 少しくらいは休まねばと床に入ったものの、やはりというべきかそのまま安眠できるほど図太くはなかったらしい。

 夢見が悪く何度も寝返りを打ち、却って疲弊してしまった気さえする。結局起床するべき刻より早く起きてしまい二度寝もできず、観念したように起き上がり身支度をすることにした。宮中に出向くわけではないから持っている中で一番上等な直衣のうしに袖を通し、烏帽子えぼしの位置も入念に調整する。

 維央の住む屋敷から御仁の屋敷へは一里ほどかかる。貴族なら牛車を使うだろうが、維央のような身分なら基本徒歩だ。碁盤の目のような大路小路を縫うように辿る。途中には市が立っていてそれに後ろ髪をひかれた。高貴なお方に召された上に要件もわからないときたら、当たり前だが維央だって進んで参りたくはない。しかし道草をしたらあとが怖いので見物は諦めることにした。そうしてまっすぐ京の北東に鎮座する土御門殿に辿り着いた。門前を掃いていた下人におとなった旨を告げると、委細承知らしくすぐに中へ通される。

 広い広い屋敷だった。

 端が見えないと呆れつつえんの先を見れば、広々とした庭が広がっていた。

 池があり、五歩ほどで渡れそうな小さな太鼓橋が架かっている。そのまわりには雪がところどころ残っていた。樹木も冬のため一部を除きすっかり葉が落ちてしまってうら寂しくあったが、落ち葉は綺麗に掃き清められて、清浄な空気が満ちているように感じた。ざっと見て松や椿、橘に、葉は落ちているがおそらく紅葉、梅、桜も植わっているようだ。四季折々の草花をこの庭ひとつで愛でられるようにしているらしい。他の季節の景観もきっと素晴らしいに違いない、と維央は思った。山野からわざわざ様々な種類の草木を持ってこさせ植えさせたことを思うと、贅の限りを尽くしているなと再び呆れた。

 通された間は屋敷の中央部、いわゆる寝殿だった。正面には御簾みすがかかっている。そこに例のお方がお見えになるようだ。今になって緊張する。寒さも相まってかちこちになりながらも下人に促されるまま座して、当人が現れるのを頭を垂れて待った。しばらくして衣擦れの音とともに御仁が座した気配がした。

「史生よ、よくぞ参った。おもてをあげよ」

 人当たりの良さそうな、しかし威厳も持ち合わせた張りのある声が維央の元まで届いた。本当ならば恐れ多くて面を上げるのもはばかられるが、従わなければそれはそれで恐ろしい。間をおかぬようつとめて正面を見据えた。

 御簾の向こうに御仁がいる。陽光は維央の座す先まで入ってこないので御簾の奥はなお薄暗く、彼の人の姿は判然としなかった。しかし確かにその人だ、という確信が維央にはあった。少々離れていても肌身にはっきりと感じる。雰囲気が常人のものではない。

「書状にも記したとおり、お前に頼みたいことがある。しかし、他言は無用だ」

「ええ、わかっております。何なりと」

 どんな要件かをまだ聞いていないが、断ることなどできようはずもない。維央は再び頭を垂れた。

「会って、説き伏せてほしいめのわらわがおるのだ。わたしが擁しておる娘御むすめごでな」

 思いもよらぬ言葉が返ってきた。

 女童だと?一体ぜんたいどういう要件なのだ。この御仁にはそういった趣味がおありなのかと、一瞬良からぬ考えが浮かんだが、不敬すぎたのですぐに頭から振り払った。

「女童の名は何とでも呼べというので、千歳ちとせひめと付けてやった。少々訳ありでなあ、それでわたしのところで庇護しておるのだ」

「庇護ぉ?」

 思わず訝しげな声音を発してしまい慌てて口を塞ぐも、もう手遅れだった。維央がもう終わりだと絶望し目を白黒させているのを見て、道長はほほ、と上品に笑ったようだった。

「よい、よい。三十路男が幼い娘御を庇護しておると聞いて、訝しむのも当然だ。言っておくがわたしに女童を愛でるような趣味はないぞ。見た目よりずっと歳を重ねているらしいしなあ。訳ありと言ったであろう」

 彼の人は一度ことばを切り、勿体つけて言った。

「姫は、日本やまとの生まれではないのだ。ことばは滞りなく通じるのだが、なにぶん目立つものでな。それに幼い見た目に反して、髪がすべておうなのように真っ白なのだ」

 くにの生まれということか。外との交わりが絶たれて久しい時世、それならば要らぬ諍いを起こさぬよう匿っておくというのは筋だ。見た目が幼いのに白髪というのも確かに目を引くだろう。それだけでもきっと噂になる。俄然どういった経緯で姫を見つけたものか興味が湧いたが、自ずから口に上る機会がないならばこちらから聞くのは不敬というものだ。

「訳ありというのは、もうひとつあってだな。

 姫には、たぐいまれなる能があるのだ。姫の持つ庵には、人の昔の行いすべてが納められた草子が世の人の数だけ置いてある。その草子をひもとくことによって、さも今見てきたように来し方のことを観ることが叶うのだ。己のことを観るのは造作もないことだが、難儀なのは他人ひとのものを観ることでな。それができるのは姫だけで、己で軽はずみに観ようものなら痛い目に合うときている。

 そのような珍らかなる能を持った女童を野放しにしていては、良からぬ者どもにいいように使われてしまうのがおちだ。そうならぬために、このわたしが庇護してその見返りにほんのちょっと、誰かしらのことを観てもらっている、というわけだ。そう、ほんのちょっとだけ、な」

 道長は御簾の奥で、親指と人差し指を使って「ほんのちょっと」を示したようだった。

 そういうわけか。「もうひとつの訳あり」がほんとうの「匿った訳」か。

 維央は合点がいった。

 世の中からその存在をひた隠しにしてその「たぐいまれなる能」とかいうものを独り占めしているわけだ。そんな「能」があるというのがそもそも、俄かには信じがたいが。

「その任を、どうして私めが?」

「姫が、お前がよいと言ったのだ。確か、名前が好ましいと言っておったな」

「はあ」

 どうも気に入られたようだがいつの機会でそうなったものか、そんな姫にまみえた覚えなどまったくと言っていいほど思い当たるふしがない。

「ともかく会ってはくれまいか。このところどうも渋って、頼んでも観てくれんのだ。気難しくてかなわん。だがわたしが駄目でも姫が気に入ったお前ならば、頼みを聞いてくれるやもしれぬ。説き伏せてまたいつものように観てほしいと言ってはくれまいか」

 重々しい声色で「頼む」と、御簾の向こうで頭を下げる気配がした。

「ま、待ってください。面をお上げください。そんな、恐れ多い。やりますから」

 維央は腰を浮かせ、道長にうながした。それを聞いた彼の人はぱっと起き上がったかと思うと、表情は見えずとも喜色満面といった声色で「やってくれるのか」と期待の色を濃くした。

「はい……」

 維央はがっくりと肩を落とすように頷いた。こんな高貴な方に頼まれては、どうあっても断れるはずもない。

「そうか、良かった良かった。ならば気の変わらぬうちに、今からでも行ってもらおう」

「今から、ですか……?」

 道長は頷くと、柏手を打って下人を呼んだ。

「庵はここから一里半ほど行った所の如意ヶ嶽の麓にある。姫は雑仕女ぞうしめも付けず、ひとりでそこに引き籠っておるのだ。歩きじゃ辛かろうからわたしの車を出そう。目立たぬように網代車あじろぐるまがよいな」

 道長は参上した下人にすかさず言伝をした。車の手配だろう。それにしても、何から何まで用意が良い。

「有難く、出向かせていただきます」

 頭を垂れて、そう言うしかなかった。道長は嬉々とした様子で「よい報せを楽しみにしておるぞ」とのたまった。十中八九、御簾の内でかんとしていることだろう。

 気が重い。

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