1-9

「だから死にたいんじゃなくて、忘れたい記憶があるんです」

 おれは先のような内容をかいつまんで、つっかえつっかえ狩野さんに説明した。

「それなら忘れてしまいましょう」

「は?」

 おれは頼鷹さんの言葉を疑った。

「え、忘れるって、つまりこの本、破いちゃうってことですよね?それ図書館的にどうなんですか?」

「その記憶の本は貴方のためのものです。貴方がどう扱おうとも、それを私が取り締まる権利はございません」

 また口許に綺麗な弧が生まれる。表情筋、疲れないんだろうか。

「でも……破った所の記憶は根こそぎ、良い思い出もなくなっちゃうんでしょ?それは避けたいっていうか……」

「それなら、破り捨ててしまうのはよろしくありませんね」

「じゃあ、どうすれば」

「前を向きましょう」

 狩野さんはきっぱりと言い切った。そして「説教じみたことはあまり得意ではないのですが……」と前置きして続けた。

「後ろを振り返ることも大切ですが、そればかりはよくありません。貴方はまだまだ若いのです。これから良いことがきっと沢山ございます」

「はあ」

 出会って間もない人間に説教されて、その内容が心に響く人間などどれだけいると思ってるんだこの人は。

 ずいぶんとおめでたい、いや、心の清い稀有な人なんだろう。きっとつらい経験なんて小指の爪の先ほどもなかったんじゃないかと思う。

「と、まあ……これは全部、うちの館長の受け売りです。館長と会った当初、過去に捉われ、すがった私に彼は同じように諭してくれたものです。しかし当時の私は幼かったので……当然と言いますか、反発してしまいました。けれどそれも悪くはないと、彼はそれだけ言いました。

 人に助言を求めることそれ自体は悪くありませんし、先人の助言はきっと正しいことも多いでしょう。しかし、思考を放棄してそれに従うばかりなのは褒められたものではありません。どうしたいのか、自分をいま一度顧みてはどうか。それで助言と同じ答えに行き着いたのならば、それは貴方にとっても確かに正しいのです。館長は私が反発するのを見越して私にそう諭されたのだろうと。そこまでは言葉にはされませんでしたが、そういうことを伝えたかったのだと私は考えております。

 ですから、前を向いて進むか、想い出したくないものを綺麗さっぱり忘れるか――それは私が導くことではなく、貴方が選ぶべきことです」

「は」

 ぽかんと自然と口が開いてしまう。この人も、きっと色々あって今があるんだ。当たり前だけど自分のものさしで測っちゃいけないってことに思い至って、恥ずかしくなる。

「す、すみません」

「少し老婆心が過ぎたでしょうか」

 狩野さんが笑う。言葉としては正しいけど、まだ若そうな彼がそんな単語を口にしたので思わず笑ってしまった。おかげで、肩の力が少し抜けたみたいだ。

「ありがとうございます。そうですね、記憶を忘れるのはやっぱりやめようと思います。すぐには難しいかもしれないですけど、もう過去のことだって思って頑張ってみます。またここに来ても良いですか?」

「それは勿論。いつでもいらしてください。お帰りはこちらの扉からどうぞ」

 そう言って狩野さんは恭しく入り口の扉を示した。

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