1-8

 とりあえず戻ってゆっくりご覧になっては、と狩野さんに促され、元いた広間へ戻るとそこにあった椅子を勧められた。

「どうぞ、お掛けになってください。時間はいくらでもありますからごゆっくり記憶をお探しになってください」

「あ、あの。まだ聞きたいことが」

「何でしょう」

「紙の本という形を取っているのでちょっと思いついたんですが、あの、もちろんやっちゃ駄目なのは百も承知なんですけど、本の内容にペンか何かで書き加えたり、線で消し込みをしたら……自身の記憶に影響ってあるんでしょうか」

「影響はありません。というより、できないのです」

 答えにくい質問かと思っていたのに、打てば響くようにきっぱりと狩野さんは回答を口にした。

「できない?」

 狩野さんは再び笑みを浮かべる。

「以前、お試しになられた方がおられるのです。書くには書けるのですが、しばらくすると書いたインクがすうっと消えてしまうのですよ」

「消える?」

 やっぱり、ただの自伝本ではないらしい。書き加えたり消し込みをするのは元々の記載ではないから無効、だということか。

「ええ。何度試しても同じなので、その方は自棄やけになって該当のページをびりびりに破いてしまわれたのですが……そのページ分だけの記憶はすっかり忘れてしまったので、結果的には然程たがわずその方の目的は達成されたようで、喜んでおりました」

「ページを完全に損じれば記憶はなくなってしまう、ということですか」

「そうなりますね。一度失った記憶は、残念ながら二度と取り戻すことは叶いません。大事な記憶のページは特に丁重に扱われたほうがよろしいかと」

 発展して疑問が持ち上がったので、おれは質問を続ける。

「じゃあ、もうひとつだけ。この本、その持ち主そのものって説明ありましたよね?本を火にくべるとか、水没させたらどうなるんですか。記憶はなくなるとして、身体も発火するんですか?溺れたりして?」

「記憶の本を燃やしても、身体は燃えることはありません。身体ではなく、心が燃え朽ちるのです。水没させ、読めなくさせた場合も同様です。

 一部を損じた場合であればその箇所の記憶を失うに留まりますが、本が本としての体裁を取れなくなると駄目なようです。記憶の本はその人そのもの……つまりその人を形作っている自我がこうして手に取れる形で存在していると言えます。そして記憶の本はご自身の記憶を溜めておく器なのです。記憶の本が無くなれば、これまでと、このさきの記憶を溜めるどころか自我もすっかり消えてしまう……生ける屍が死を意味するのならば、記憶の本をどうにかすることで自殺できるとも言えますが、生命活動を停止するという意味では死ぬことは叶いません」

 その説明にさっと血の気が引いた心地がして、記憶の本がずしりと重くなった気がした。狩野さんは笑みを引っ込め、おれを真っ直ぐに見た。

「何か、悩んでおられるのですか」

「え?別に……」

 何を急に言ってるんだこの人は。おれはただ、チャンネルの視聴者が喜びそうなネタを質問しただけで……。

「私には……貴方が随分と思い詰めているように思えたのです。認識を誤っていたのでしたら申し訳ございません」

「おれ……そんな風に見えましたか?」

 ええ、とてもひどいお顔をしていらっしゃいます、と狩野さんは頷いた。

「記憶の本はその人そのもの。その噂にすがってここを訪れ、同じことをされようとした方が何人もいらっしゃいます。私が訂正しても諦めるどころか激高された方や、死にたかったのだが自分で自分を手に掛けるのは怖かったのだと泣き付いてこられる方もいらっしゃいました」

 この人はよく人を見ていると思った。

 心のどっかでことあるごとに考えてた。別に今すぐこの場で死にたいわけじゃない。もっとずっと漠然としたものだ。

 何かの拍子に死ねたら良いな、くらいの。

 たぶん実際問題、死が直前に迫ったら死にたくないと必死に足掻くだろう、中途半端な願望だと思う。

 中学までは大丈夫だった。高校一年も一応。

 問題は高校二年のはじめからだった。

 おれが今までどおり唯史とつるんでいると、嫌な顔をする奴が一定数いた。とは言え、そいつらは唯史がいる前では絶対におれに手出しはしない。唯史当人に嫌われてしまっては意味がないから、唯史の前ではおれとも仲良しに振る舞う。大抵嫌がらせは陰で生じた。唯史以外なら嫌がらせの現場を目撃したやつもいたようだけど、みんな見て見ぬふりだった。

 他人が信じられなくなった。

 学校で信じられるのは、唯史だけだった。

 でも……おれが嫌がらせを受けている原因は唯史なのだ。

 原因を排除したくてもできないジレンマがおれにはあった。唯史から離れれば、嫌がらせは終わるかもしれない。けど、唯史を避けて嫌われ、信頼できないやつばかりの中で残りの学校生活を過ごすなんて……耐えられない。

 結構いっぱいいっぱいだったんだろう。日に一度は死にたいと思った。

 人の多いホームで押されて足を踏み外したら。暴走車が突っ込んできたら。踏切で立ち往生したら。夜道で通り魔にあったら。強盗が家に入ったら。アナフィラキシーショックが起こったら。現代でも治せない病気にかかったら。

 死ねるだろうか。

 どれにせよ受動的な死を望んでいた。死にたいと思っても、それを実行に移す勇気なんかなかった。今までどおり耐えることを選び続けていた。

 現状を変えることのほうがしんどいという思いもあったのかもしれない。

 こんなものは一過性だ。地元を離れ、東京の大学に進めばきっと心機一転を図れる。高校を卒業するまでの辛抱だ。たいしたことない。気にしなければ良い。だっていじめというには怪しい程度の、ちょっとした嫌がらせじゃないか。ぽっきり心が折れたらその時はその時だ。一思いに死のう。

 たぶんできないのに。

 大学合格の結果を担任に報告に行った後、帰り道で階段から突き落とされた。

 犯人はわからない。探したくもなかった。

 きっとおれと唯史が同じ大学に進めて、同じ大学を受けた誰かさんは落ちてしまったからやっかんだんだろう。幸いにも捻挫だけで済んだ。それ以降何かされることはなく、無事卒業を迎えることができた。今でも突き落とされた階段を通ることがあるけど、一瞬足がすくむ。やっぱり死ぬのは怖いと、思った。そして何より大学に進んだ今、友達は少ないなりに何とかやっていけている。

 もう終わったことだ。それで良いはずだった。もう死にたいとは思わなくなった、はずだった。


 三カ月前の話だ。

 夏休み中帰省した際、叔父さんが営む本屋を手伝っていたら偶然客として高校時代のクラスメートが来店した。相手はおれに気付いて、過去のことなんかまるでなかったかのように楽しげに、他愛もない世間話をして別れた。それだけなのに、思ったより堪えた。結局そいつがいなくなった直後に吐いてしまった。叔父さんにも迷惑をかけてしまった。こんなのを今後また繰り返すのはもう嫌だと思った。一度消えかけた、死にたいという気持ちがまた甦った。

 そんな中、視聴者の動画コメントの中で想い出図書館の噂を見つけたのだ。

 記憶を想い出せる本がある。

 ならばその逆も可能なんじゃないか?クラスの連中の存在を忘れられれば、きっとまわりに迷惑もかけないで済む。気持ちも軽くなるはずだ。

 もちろん噂が本当だったら、だけど。

 直ぐに企画を唯史に提案して、二つ返事で賛成されたので企画を進めた。本来の使い方とは違うのでそこは伏せて、管理人へメールフォームから連絡を取った。

 とりあえずゆめおか教授の話のネタとして一度行ってみて、本当に行けたとしたら再度個人的に行ってみよう。そう思っていた。

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