第9話 俺も今日から夏目教に入信します
朝は挨拶をしてすぐ人に囲まれて、昼休みは、生徒会でほとんどいなくて。放課後になってすぐに教室を出て行ってしまった。
それは困るとても困る。今見失って仕舞えば、きっと明日も明後日も、一生夏目に話しかける事はできないだろう。
故に、『廊下を走るな』と言う張り紙の横をずっと疾走していたわけだが。
「な、夏目!」
探していた背中を漸く見つけて、叫ぶ。袖口を掴もうとしてガッツリ手首を握ってしまったが、この際もうそれは良いだろう。
「……冬樹か!」
掴まれた手首を一瞥して、快活に笑う。純粋無垢な瞳が、単純に眩しかった。
「どうしたんだ、そんなに息を切らして」
「いや、その……」
この感覚知ってる。一番最初に話しかけた日に戻ったみたいだ。なまじ相手が友好的な分、気まずさは折り紙付きで。一見コミュニケーションエラーがないせいで、ここで「俺、お前に謝りたいことがあるんだ!」と叫ぶわけにもいかない。そんなのは完全に異常者だ。
「俺、お前に謝りたいことがあるんだ!」
「冬樹!」
まんまを叫びやがった口に、思い切り拳を詰め込む。
「冬樹!!」
顔を青くして、夏目が背を摩ってくれる。「正気か!」
と言う呼びかけに泣きながら首を振れば、「そうか……」と困ったように悲しげな声が上がる。
「とりあえず、どうしたんだ。話を聞かせてくれ。まずは拳を吐き出して──、」
促されるまま、ペッペと拳を吐き出す。「良い調子だ!」と夏目がエールを送ってくれる。
「いや、あのぉ。おれ、おれぇ……、」
「うん、ゆっくりで良い」
「おれ、不誠実でぇ、」
「不誠実……秋庭との件を黙っていた事か?それならもう、ちゃんと話してくれただろ?」
「それもだけど、」
……ずっと前から。
言葉が喉につかえて出てこない。夏目が怒らないのは分かっているけど、それでも怖いものは怖いんだ。
「お、お前に声かけたの、ぶっちゃけ同好会の人数集めが目的だった……」
「…………」
「夏目、カリスマ性あるから。……夏目がいれば、人も集まると思って」
血の気が引いていくのが分かる。いずれ付けなければいけなかったケジメではあるが、声に出すと、改めて自分の醜悪さと対面させられるようだった。
「…………そうだったのか」
「薄々気付いてた?」
「…………」
静かな声音が途切れた事に、無性に不安が煽られる。そろそろと視線を上げれば、やけに凪いだ微笑と対面させられた。
「……いつから?」
「確信があったわけではないけど。弟くん──樹くんから、お前の話を聞いた時から」
嘘だ。
直感がそう告げる。でもこいつは、こんなに上手に吐けるような人間じゃない筈で。口を開く前に、夏目はゆったりと目を細める。俺の手を指先でなぞるその表情は、何処か哀愁の漂う物だった。「良いんだ」と、また穏やかな声音で首を振る。
「だから、これで良いんだ。俺はお前の役に立てて嬉しいよ」
「違う、俺は」
「だって冬樹は、特別だから」
────『先輩やなくても良いんですよ、多分』
────『尽くせたら誰でも良いタイプでしょ』
脳内に、春江の言葉が響いて。「お前は特別だ」と、そう告げた夏目の声と、衝突を起こすみたいだ。
顔を真っ赤にして、夏目は潤んだ目のまま唇を震わせる。あの日、生徒会でも見た顔だった。
「気付いてても、それをただの『好意』として受け入れてくれた」
「……?」
「その。あまり、気付かれないようにはしてたんだ。えっと……」
夏目にしては珍しく、要領を得ない話し方だと思った。視線を落とす。いつの間にか、俺の方が手首を掴まれている。強張った大きな手には、冷や汗が伝っていた。
「……『気配り』とお節介の境目って分かるか?」
夏目の顔を見る。先刻までの狼狽など、見る影もなかった。喜怒哀楽。そのどれでも無い色で、昏い翠色が此方を覗いている。いや、覗いているのは、どちらかと言うと俺の方───、
「おれはわからない」
「っ、」
「だから、良くないだろ?何も生まない。害でしかない。分からないのに、するのは」
「なにが…?『気配り』、『お節介』?」
「どちらもだよ」
眉を顰める。夏目が何を言っているのか分からない。わからないのにするのは良くない。気配りもお節介も。夏目はそう言ったけれど、彼が優しい事は、皆が知っている事だ。
それは夏目が親切で、気配り上手だからで。
夏目の理屈は、平生の夏目の姿からはあまりに乖離している。
「おれは求められたことをしてるだけだから」
驚いた。心中でも読まれているのかと思ったぞ。何処かあどけなく落とされた言葉に、訳もなく目元が引き攣る。
「求められただけ与えるし、求められただけしか与えない」
「たまに失敗するけど」
当然、『私に親切にして』と馬鹿正直に乞う人間はそう居ない。ならば彼は、言葉ではなくその人間の機微、背景、性質全てを総合して、相手が「求める」分だけを与えていると。そう言う事だろうか。
あの何かをじっと観察するような目に、漸く説明がついたような心地だった。
「だから、嬉しかったんだ。冬樹は黙って受け入れてくれてたんだろ?」
「なにを?」
「『プリントとか回してくれるとき、絶対振り返ってくれるじゃん?あれ地味に嬉しい』」
「は、」
「『会話とか入り辛いとき、さり気なく話振ってくれたりするし』」
「………………」
聞き覚えのある──具体的には、過去の俺が吐き出した言葉だ。それにしても、一言一句違わず……?
「…………優秀な奴だ」
「だから、冬樹は特別なんだ。おれが失敗しても───余分に与えられたって知っても、拒絶せずにいてくれた」
「そんなのは普通だ。誰も、お前のそれをお節介だって詰ったりしない」
けれど同時に、周りに何百人良い人間がいたとしても、ただ1つの要因で、人は簡単に歪んでしまう。
今はただ、夏目を歪ませてしまったそれが憎かった。だって、此奴の『好意』を蔑ろにする正当な理由こそ、存在する筈ないのだから。
拒絶する人間がいたとしたら、其奴はきっと間違い無くロクデナシだろう。
「みんな、夏目が優しいって知ってる」
「…………」
彼が、彼自身の魅力に気付くように。彼が、少しでも生きやすい世界になるように。この願いが伝われば良いが。
「……でも、冬樹は特別だよ」
「だから、」
「冬樹は、おれの初めてだから」
あまりにも無垢な笑い方だと思った。10歳の少女みたいな笑い方だ。一瞬怯んで、握られた両手が異様に熱くなっていることに気付く。こういう時、自分の代謝の良さを恨まずにはいられない。
「家族以外で、初めて受け入れてくれたのは冬樹だけ」
「…………夏目、」
「冬樹が『求めて』くれたなら、俺はきっと、何だってできるよ。……正しい事も、そうじゃないことも」
目の前の青年は、俺の知る夏目とはあまりにかけ離れた様相だった。
夏目はそんな熱っぽい──気怠そうな目をしないし、もっと雰囲気もこう、凛として、爽やかな物だったはず。何よりその口から、「正しくないこと」を肯定する言葉が出た事が、俄には信じ難かった。
「……夏目、」
けれど、今はそれよりも優先する事がある。夏目が俺から一度距離を置こうとしたのは、つまり、俺が「求めなかった」事が理由である事が判明したわけだから。これ以上の干渉を彼奴は、お節介だ、要らない物だと思い込んでいる。
誤解を解いておかなければならないと思った。
「俺、言ったよな。最初はお前を利用するために近付いたって」
「うん」
「誤解……でもないな。下心はあったわけだし。けど、お前と仲良くなりたいって言ったのも、お前のこと尊敬してるってのも、全部本心だ」
「うん、知ってるよ」
「……きっかけは最悪だったけど。でも今は、同好会も何も関係なく、お前と仲良くしたいと思ってて、俺、謝らなきゃって……」
「全部知ってる」
何かを乞うように、夏目の唇が弧を描く。鳶色の前髪の下から、あの深淵が覗いている。
「おれは、」
ふゆき、と。言い聞かせるような声音に、まるで自分が、頑是ない子供になったような心地になる。唇が一人でに震える。譫言みたいに呻いて。
「俺から離れないで、夏目」
目を見開く。最初はそれが、誰の言葉かは分からなかった。けれど、夏目があまりに嬉しそうな顔をする物だから、やっと俺の口から出た声なのだと理解する。
「ずっと俺と一緒にいてほしい。夏目は────、」
「うん」
「…………」
長い腕が、背中に回される。厚い胸板から、等間隔な鼓動が聞こえてくる。
「…………求めてくれてありがとう。冬樹」
誰かの表情が見えなくて良かったと思うのは、確かこれで2回目だ。
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