第4話 夏目くんはたぶん、教祖適性が高い

スプーンを動かして、グルグルとシチューを掻き回す。


────『先輩のそういうとこ、好きやわぁ』


赤いシチューはとても好きだ。冬樹家は俺以外全員白シチュー派なので、年に一度食べられたら良い方なんだけど。そういえば、今日は何だって赤なんだろう。


────『可愛いらしいなぁ思いまして』


「…………いや可愛くは無いだろうよ」

「クソ兄貴!」

「ンなに!?」


添えられたバケットを噛み千切る。脳内に居座る、変な後輩を蹴り出す。

目を剥けば、正面席に座る弟が、不審者を見るような目で此方を見ていた。

反抗期に入って──否、俺が部活を辞めて以来、冷たかった弟だが。改めてこの反応をされると、割と、こう、胸にクる物があるぞ。 


「ボーッとしてんなよ。一香が気ィ使って赤にしてくれたんだから、冷める前に食べろよ」

「え……」

「お兄ちゃん、いつにも増してキショいし」


嫌悪に塗れた表情で吐き捨てる愛妹。「ありがとう……」と言えば、舌打ちが返ってくる。辛辣ではあるが、気遣ってくれたのは間違いない。

愛妹の愛だ。愛弟のお叱り通り、冷める前にちゃんと頂こう。


「そういや兄貴、今日あの人……夏目さんに会ったよ」

「夏目に?」

「夏目さん!?」


弟の言葉に、妹が素早く食い付く。冷凍マグロみたいだった目が、キラキラと輝いている。愛妹の変貌に、俺は気が気では無いぞ。夏目に妹を会わせたのは、最悪最大の失態だ。


「何話したの!?ねぇ、私のこと何か言ってた?」

「別に。帰りにちょっと会って話しただけだし」

「む……ちゃんと『またいつでもいらして下さい』って言った?」

「『またお邪魔して良いか』とは言われたよ」


キャー!と喜ぶ妹。弟と妹は、夏目に会って以来、あいつに首ったけだ。というか彼奴の求心力というか、吸引力はなんなんだろう。その気になれば、教祖とかにもなれるのではないか。

彼が魅力的なのは重々承知だが、俺は友情と嫉妬の狭間で懊悩が収まらないぞ。


「…………兄貴、随分仲良いんだね。夏目さんと」

「まあ、席前後だし、クラスメイトだし」

「は?それだけ?」

「そ、それだけって。……いや俺はあいつの事結構大好きだけど、向こうはどう思ってるか分かんないというか何というか……」

「面倒臭ぇやつ」

「お兄ちゃんは傷つきましたよ!」


胸を抑えて訴えるが、弟はさっさとシチューへと関心を移してしまう。いやだってしょうがないじゃん。接点ができたのだって、俺が無理やり押しかけたような物だし、夏目の周りにはわんさか人がいるし。俺を選ぶ理由こそない。あと彼は優しいので、俺を拒絶することは無くて、その分どう思われてるのかも分からない。

でも弟から『仲が良いの?』と聞いてきたという事は、何か話したのだろうか。


「…………夏目は、」

躊躇いがちに呟けば、弟が目だけで返事をする。心が縮こまるようだが、同時に、聞かずにはいられない。

「夏目、何か言ってた?俺のこと」

「……………」


弟はゆっくりと目を伏せて、シチューを嚥下する。バケットで空になった皿を拭いて、それを口に放り込んで。


「別に」


ただ一言、そう切り捨てたのだった。

ポトンと間抜けな音がしたと思ったら、俺の手からバケットが落ちた音だった。

「あそう……」

呟いて、大人しく食事を再開する。

愛妹の赤シチューは、とても美味しかった。




***




お弁当にタプタプ詰まった赤シチューを啜りながら、ポスターの構想を練る。千里の道も一歩から。まずは地道な広報活動が重要だ。


「ふーゆき!」

「あれ?朝ドラに出られてましたか?」

「俺は佐藤健じゃない」


夏目は意外と、自分の容姿に自覚的だ。

感心しながら、おやと首を傾げる。生徒会活動で、大抵昼休みは教室に居ないはずだが。時計を見れば、成る程昼休みも残り僅かだった。集中していた物だから、気付かなかった。


「お勤めご苦労様」

「出所祝いありがとう。……それ弁当か?」

「うん」


頷いて、冷め切ったシチューを啜る。やっぱり赤シチューは日本で1番美味い。妹の愛がこもっているならば、世界一だ。強いて欠点を挙げるなら、数日間、屁がメチャクチャ臭くなる事くらいだろう。


「……汁物を弁当に詰めるのは、こう、珍しいな」

「確かに?でもウチは基本、前の日の晩飯が弁当になるから。親が忙しくて、兄弟で当番制」

「へぇ、偉いな」

「これは一香の赤シチュー。流石我が妹、冷めても美味い」

「……赤シチュー……」


何が琴線に触れたのかは知らないが。夏目は可笑しそうに笑いながら、小刻みに肩を揺らす。

何だ。何がおかしいんだ。これを世間一般ではビーフシチューと呼ぶ事くらいは、流石に俺も知っている。何なら、肉じゃがのオヤブンかも知れない事まで知っている。

不服ですと言う顔をすれば、「悪かった」と笑いながら謝罪される。許さずにはいられない笑顔。やっぱツラの良さって、最強の才能だ。


「冬樹家の兄妹は、仲良しで微笑ましいな」

「だろ?……ああそう言えば、昨日樹と話したんだって?」

「そうなんだ。冬樹……お前の事褒めると、すごく嬉しそうにしてて────」

「え゛っ!」

「冬樹!?」


思わず身を乗り出せば、驚いたように夏目が仰反る。 


「す、すまん」

「いや…………」


咳払いして、すごすごと腰を下ろす。いかん、驚愕のあまり取り乱してしまった。驚かせてごめん、夏目くん。


「そ、それでその、どんな話したんだ?……弟……樹は、俺のこと何て……」

「ああ、悪口じゃないぞ」


うろうろと視線を彷徨わせながら、夏目は顎先に指を添える。


「冬樹は、その、『いつも背がぴんと伸びていて、立ち姿がカッコ良いんだ』って」

「ふむ」

「『字もすごく綺麗で、大人びてて、優しい』」

「う、うん」

「落ち着いた声が好きだ。ちょっと眠そうな目も、丸っこい頭の形も、硬い直毛も。全部魅力的だ」


星屑の散った目に、真っ直ぐ射抜かれる。

視線も外せずに口を開閉させれば、黒曜石みたいな瞳が、やわこく撓んで。目尻に刻まれた皺も、ぷっくりとした涙袋も。

やっぱり、夏目の求心力は少し危ういと思った。


「…………夏目。勘弁して……」

「……あ、すまない!近過ぎたな!直ぐに離れる!」

「良いんだ、気にしてない」

「ぜ、絶交しないでくれ……」

「するわけ無いだろぉ?!それより、樹はなんて?」

「ああ、そうだな。その通りだ。ええっと何処まで話したっけ……」


分かりやすく動揺しながら、夏目はドギマギと教材を取り出した。スポン!と手からすっぽぬけたペンを、腰を屈めて拾う。「そうだ!」と背を伸ばした拍子に、頭を机の下にぶつける。


「……大丈夫か?」

「大丈夫だ!……それで、そんな感じで冬樹を褒めたら、樹くん、すごく嬉しそうにしてて……」

「そ、そうか……」

「『なんだかんだ、尊敬はしてます』って。可愛い反抗期だな」

「樹がそんな事を……」


喜色と安堵の入り混じった感情に、表情が弛むみたいだった。


「……あんまり嬉しくないか?」

「ええ?なんで」

「いや、何となくそう見えて」

「いや……」


顔を覗き込まれて、逃げるように目線を落とす。少しだけ迷って、「嬉しいよ」と答えた。


「…………ただ俺はてっきり、弟に見限られたと思っていたから」


そしてこれは、誰にも話すつもりが無かった話。

きょとと双眸を瞬く夏目に、少しだけ心臓が跳ねる。けれど不思議と、俺の口は驚くほど滑らかに言葉を吐き出していた。きっと相手が、夏目だからだろう。


「部活って言うか。その、剣道辞めちゃったから」

「ああ、すごく強いんだろ?よく表彰されてたし」

「……………ただ長く続けてるってだけだよ。……それで、うん。暴力沙汰起こして、謹慎処分受けて、部活も辞めた」

「暴力沙汰……」

「それは良いんだ」


慌てて首を振る。話が逸れた。

これはペラペラ言いふらす事ではないし、弁解をするつもりも無いし。……特に後悔もしていないし。

余計なことを喋るのは、俺の悪い癖だ。


「それで、俺のこと誰よりも応援してくれてたのが家族なんだ。樹なんて特に」

「………………」

「だから、部活辞めた時は大喧嘩になって。……『見損なった』って。彼奴を失望させた」


けれど、そうか。

腐っても家族。記憶の中の俺に対しては、まだ少なからず期待してくれているようだ。

やっぱり、夏目と友達になって良かった。そうでなければきっと、俺はずっと弟の気持ちを知らないままだった。

ありがとう夏目、と。そう続けようと口を開いて、そして閉じる。それは俺が、夏目の表情に戸惑ったからに他ならなくて。

引き結ばれた唇も、寄せられた眉も。

初めて向けられる類の感情に、たじろがずにはいられない。だって、そうだろう。こんな重い話をされて。相手が見せるとすれば、それは憐憫か狼狽の2択である筈なのに。


「それが、お前が同好会を作る理由か」

「……試合には出られなくても。剣道さえ続けてれば、また胸張って弟と話せるんじゃないかって」

「そうか」


真剣な表情で頷く。夏目が俺の両手を包み込む。此方を射抜く瞳は、どこまでも真っ直ぐで、真摯な物だった。


「冬樹」


改まったように落とされる声に、肩を揺らす。


「俺に、お前を手伝わせてくれないか」

「え、それは──」

「俺なんかでも、数の足しにはなる筈だし──、何より、お前の力になりたいんだ」

「……なんで、そこまで」


……いや、そうだ。夏目は、そう言う奴だ。

求められれば、与えられずにはいられない。そこに助けを必要にしている人がいて、夏目にそれができるのなら。彼が手を差し伸べるのには、それで充分なのだ。ヒーローみたいな奴だと思う。神様みたいな男だとも。

それをわかっているから、みんな夏目を好きになる。

それをわかっていたから、俺は、夏目に───、


「…………ごめん、夏目。俺、」


込み上げてくる熱い物を、空気諸共嚥下する。やっとのことで、視線を逸らして。温かく包まれた両手を見て、唇を噛んだ。


「……本当は、」


やや於いて落ちた声に、相貌を擡げる。穏やかに。けれど何処か照れ臭そうに、夏目は微笑む。


「本当は今の話、最初から全部知ってたんだ」

「え?」

「樹くんから、昨日全部聞いた」

「……なんで」

「…………お前の口から、聞きたくて」


頬を染め、照れ臭そうにはにかむ。初心な生娘のような反応だと思った。けれど俺は、正直それどころでもなくて、すまない、なんて謝罪が、右耳から左耳へと通り抜けて行く。

それはつまり、どう言う事だろうか、と。


「冬樹?」

「………………」


俺に罪悪感を感じさせないために、嘘を吐いている?

いや、夏目が根っからの善性で、嘘を吐くのが下手糞なのを、俺はよく知っている。

そうなれば最初から、夏目はそのつもりで、俺に声をかけたと言うことになるけれど。

……最初から?

教室に戻ってきて、弁当に触れて。兄弟の話になって。

先刻のやり取りを回想する。何も不自然な点はない。詳しく掘り下げたのは俺だし、そもそも、昨日の夏目と弟について切り出したのは、他ならぬ俺自身。


「否───、」


────「冬樹家の兄妹は、仲良しで微笑ましいな」

────「……あんまり嬉しくないか?」


きっかけを作ったのは、全部夏目の言葉だった。話題の転換も、俺が心中を語るうえでも。

気付いてしまえば、急に自らの輪郭がわからなくなるみたいだった。

役者やら、列車やらになってしまったような気分だ。

予め完成された台本を誦じて、敷かれたレールを、自覚も無しに辿って。

全部、全部。俺の意志で選んで、吐き出した言葉の筈なのに。

考えが追いつかなくて、答えを求めるみたいに夏目の目を覗き込む。

けれど常盤色の鉱物みたいな目は、間抜け面をした、冴えない男を反射するだけだ。決して、その底を覗かせてはくれない。

底知れない引力だ。眩しく感じていたそれが、急に恐ろしい物のように見えてくる。

彼は善性だ。人を意識的に操る事はない。

意識的にしているのなら、「本当は知っていた」なんて事を、馬鹿正直に話はしない。

ただ人々が、彼が望んだ内面を自分から晒し、彼もそれを当然のように受け入れるだけだ。

何処までも無意識に、無自覚に、彼は人を暴くのだ。

それがなんだか、俺には、とても恐ろしい事のように感じられたのだ。

「夏目」と。うわ言みたいに呟けば、温かな手が、さらに強く握り込まれる。


「…………嬉しいよ、話してくれて」


嬉しくて仕方がないと。そんな恍惚の滲んだ声音に、少しだけ指先が冷たくなって。屈託長く微笑む友人に、やはり何処か上滑りするような心地のまま、「ありがとう」と答えていた。

始業のチャイムが鳴る。

耳障りの良い音を遠くに聞きながら、弁当箱の蓋を閉じた。

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