第1話 佐藤
【明晰夢を見る方法】
・起きたらすぐに見た夢をメモする
・よく見る夢の中で共通するもの(キーワード)を見つける
・一日に数回、今見ているものは夢なのか現実なのか自問する
・眠る前に夢で意識を持つ自分を想像する
上記のことを習慣化する
習慣化することによって夢の中でも夢か現実か自問するようになる。
キーワードがトリガーになることもある。
そしてこれをきっかけに夢の中の不自然(文字が動く、時計の針がおかしい)を見つけると、これは夢だと確信する。
朝方か二度寝の時が成功しやすい。
#明晰夢
佐藤は目覚めてから、自分が泣いていることに気付いた。何か悲しい夢を見た気がした。昔から夢を見てもあまり覚えていられなかった。
布団の中から佐藤が飼っている猫のハルがモゾモゾと這い出てきた。「にゃー」と言って佐藤の顔を舐めた。涙を拭ってくれたのかもしれないが、ざらっとした舌の感触に身震いした。佐藤は猫をどかしてベッドから出た。
机に置いてあるスマホを手に取り、SNSを覗くとタイムラインに胡散臭い投稿が流れてきた。
【明晰夢を見る方法】
明晰夢という言葉を知らなかったので無視して、次にニュースサイトを一通り見ていった。大したことは起きていなかった。経済は低迷し、失業率が上がり、自殺者が増えたとか暗い話ばかりだった。足元でハルが「にゃーにゃー」と鳴いてごはんの催促をしてきた。
台所に行き戸棚からキャットフードを取り出した。ハルは佐藤の足に額を押し付けてくねくねと動きごはんを今か今かと待っている。キャットフードを皿に盛って定位置に置くと、ハルはそれを勢いよく食べ始めた。佐藤は美味しそうに食べるその姿をのんびりと眺めていた。
しばらくして佐藤は湯を沸かし、コーヒーを淹れてそれだけ飲んで、すぐに仕事に行く準備をして家を出た。
佐藤は電車の中でスマホを取り出し、SNSを見ると【明晰夢を見る方法】がトレンド入りしていた。
投稿したのはインフルエンサーのタケルという人だった。
「夢の中で自由に動けるとしたら、何をしますか?」とタケルはコメントしていた。
返信欄には、
「あれ驚きますよね。私なんてアイドルたちとイチャつきましたよw」
「やっぱり人に言えないようなことしちゃいますよね」
「夢だと気付いても動けないからつまらない」
「訓練すれば誰でもできますよね」等等。
佐藤はスマホを見るのをやめて外を眺めた。流れていく景色を見ていると不意に妻が昔言っていた言葉を思い出す。
「素敵な夢を見た」彼女はそう言っていた。
彼女は夢で自由に動けたのに、いつもと変わらないことをした。とても彼女らしいな、と佐藤は懐かしい気持ちになる。彼女との思い出が溢れてしまい視界が滲んでいった。
時間が経つにつれてタケルの投稿は凄い勢いで拡散されていった。
次第にSNSで明晰夢の体験談を投稿するのが流行り出した。
性的な事か暴力的な内容が多かった。
佐藤が仕事から帰宅しテレビをつけると、お笑い芸人が「明晰夢を見ることができる」とエピソードトークをしていた。
「ビルから飛び降り、空を飛んで、現場に来て、収録中に全裸になってみたけど誰も笑ってくれなかった」と芸人は話し、共演者の女が「えー、きもーい」と返して笑いが起きていた。
芸人は、共演者の女に対して、
「今夜はお前といちゃついてやるからな」と言って、MCに頭を叩かれていた。
何が面白いのかわからず、テレビを消した。
ハルが「にゃーにゃー」と鳴き出した。冷蔵庫から鳥ササミを出して茹でて少し冷ましてから皿に乗せて定位置に置いた。ハルは大事そうにそれを食べていた。佐藤はコンビニで買ってきた缶ビールと弁当を袋から取り出して冷たいまま食べた。
佐藤は寝室に行きベッドに入り目を瞑った。暗闇の中で、妻の姿を想像した。もし夢に彼女が出てきてくれたら。佐藤は明晰夢を見たいと思った。
佐藤には愛した妻がいた。彼女は事故で突然亡くなってしまった。
夢でもいいからもう一度会いたいと佐藤は願った。
佐藤はもともと夢をあまり見なかった。見てもほとんど覚えていなかった。
佐藤はその日から投稿に書かれていることを実践することにした。夢を見ることを意識し、起きてすぐに少しでも覚えていることをメモするようにした。
初めは「悲しい夢を見た気がする」「誰かと話した」「どこかを歩いていた」「黄色い物を見た」このようにイメージや小さな断片しか思い出せなかった。
何日も続けていくうちに、「女性と公園を歩いていた」「会社で同僚と仕事をしていた」「テニスコートで彼女とラリーをしていた」
佐藤は見た夢の詳しい内容を書くことができるようになっていった。
佐藤は大学のテニスサークルで妻に出会った。長い黒髪がよく似合う美しい人だった。
数日後、佐藤はついに明晰夢を見ることに成功した。
佐藤は夢の中の公園で、妻と歩いていた。ふと、これは夢なのかと自問することができた。そして腕時計を見ると秒針は不規則に動き、これは夢なのだと確信した。
「ずっと会いたかった」佐藤はそう言ってみたが、口をぱくぱく動かしているだけだった。
それでも妻は、
「毎日会ってるじゃない」と言った。耳にというより脳に伝わってきた。
それから手を繋いで公園をゆっくり歩いた。佐藤はそれだけで充分だと思えた。
しばらくして、まわりの色が薄らいでいき、あらゆるものの輪郭がぼやけてきて目を覚ました。
佐藤は夢で握った妻の手の柔らかさをありありと思い出すことができた。リアルな体験に深い驚きと高揚感を感じた。
佐藤はそれからも何度か明晰夢を見て、妻と再会した。
大学のテニスコートでテニスをした。よく通った和食屋さんに行った。窓を開けて二人の好きな音楽を大声で歌いながらドライブをした。海の見えるチャペルで式をあげた。彼女が捨て猫を拾ってきて二人で可愛がった。雨の降る日に家で何度も抱き合った。
夢を見ている時は幸せだった。しかし、目覚めた後の喪失感は何よりも大きかった。
佐藤は仕事に遅刻するようになっていた。目覚ましをしても起きれず、ハルが頬をざらついた舌で舐めてやっと目を覚ますようになった。だんだんとハルに起こされるのが嫌になって寝室に入れるのをやめた。
佐藤は眠り続けた。扉の向こうでハルが鳴く声が聞こえた。それが現実なのか夢なのかわからなくなっていった。
佐藤が妻とベッドで寝ていると彼女が泣きそうな声で「ハルはどこ?」と聞いてきた。
「心配いらないよ」と佐藤はそう言って彼女の髪を撫でた。その髪は初めて出会った時のようにさらさらで美しく輝いていた。
「白髪生えてる?」彼女はいたずらっぽく佐藤の目を見つめて言った。
「生えてないよ」佐藤は優しく答えた。
「嘘」彼女は小さな声で言った。
「出会った頃と何も変わらない」
「時間が進んでないのね」
「そうかもしれない」
「私が髪のことで昔言ったこと、覚えてる?」
「覚えてるよ」
妻は事故に遭う前、髪に白髪が混ざり始めていた。彼女は新しい白髪を見つけるたびに佐藤に報告していた。佐藤がその白髪を抜こうとしたり、染めたらどうかなと聞くと彼女はそれを断った。佐藤が理由を聞くと、彼女は、
「あなたと一緒に過ごした時間の証拠」と言った。
その後、白髪が目立ってきたので結局染めていた。髪の質感は出会った頃よりパサついていた。佐藤は彼女のパサつく髪を撫でると共に過ごした時間を感じ、心が満たされていくのを感じていた。
佐藤はそのことを思い出した。
目の前にいる彼女は記憶の中の彼女。
妻は佐藤に優しく口づけをして、「ハルが呼んでるわ」と言った。
「私たちが見つけた小さな猫」
「今は太っていて大きいよ」
「きっと可愛いでしょうね」
「とても可愛いよ」
「ごはんを待ってるわ」
「行かないとね」
ゆっくりと色が褪せていく。
「君と会えなくなるのが寂しい」
「ごめんね」
「謝らないで」
視界がぼやけていく。
「出会ってくれてありがとう」
「幸せだったわ」
遠くで「にゃー」と鳴く声が聞こえた。
佐藤は目を覚ますと涙を拭って、寝室の扉を開けた。ハルが「うにゃー」といつもより大きな声で鳴いて尻尾をピンと立てながら佐藤の足に噛み付いた。
「痛い痛い、ごめんよ。許してくれ」
佐藤は台所に行き冷凍していた鳥ささみを出して茹でた。火が通ったのを確認して取り出した。少し冷まして小さくほぐした。いつもなら皿に乗せるけど、手で直接あげることにした。親指と人差し指で鳥ささみを持ってハルにあげると、ハルは「にゃーにゃー」と鳴きながら佐藤の手から鳥ささみを奪い取りむしゃむしゃと食べた。食べ終わるとまた「にゃーにゃー」と鳴き、佐藤は鳥ささみをまた手に取って食べさせた。そんなに美味しいのかと思って自分でも一口食べてみた。
「お前こんなに美味しいの食べてたのかよ」佐藤はそう言った途端、自分が物凄く腹が減っていることに気付いた。
その日から佐藤は夢をメモすることをやめた。深く、ぐっすり眠れるようになった。
妻の死を受け入れて、前に進もうと思った。
仕事をして、ハルを可愛がり、たまに同僚と飲みに行き、週末は時間をかけて料理を作った。
妻の夢を見ても目が覚めたとき、泣いていることはなくなった。
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