第9話 賢者の贈り物
気が付くと、朝の6時を迎えていた。
なんとなく目が覚めてしまい、腕時計のライトを推す。智機としては午前2時か3時ぐらいかと思っていたのだが、闇の中に浮かびあがる数字は、智機の予想を越えていた。
欠伸が出る。
身体は重いけれど、その重さが何故か心地よい。
部屋は闇の中。
地上の部屋は、朝になるとカーテンから光が漏れるので自然に朝だとわかるのだが、ガルブレズは住居スペースが地下にあるので昼夜を区別することができない。このため、明かりをつけないと一般人では歩くのでさえおぼつかない。智機は常人ではないが。
耳を澄まさなくても響く寝息と、直に伝わるぬくもり。
そんなにくっついていたら、起きれないだろうが。
誰に抱きしめられているのか、すぐにわかる。
どうしてこうなったと、智機は昨日の会話を思い出す。
「智機さん……あの…一緒に寝てくれませんか?」
「おまえ、何を言っているのか分かっているのか?」
姫様、と付けるのすら忘れた。
うら若き少女が、子供と大人の境目にある野郎に一緒に寝て欲しいと願うのは、あまりにも危険すぎた。
「一緒に寝てくれていうのは、セックスしてもいいということは分かっているんだろうな」
言葉を濁しても意図が伝わらなければ意味がないので、はっきりと言う必要があった。
「セセセセセセックス!!!??」
智機以上にファリルは爆発していた。
当然といえば、当然であるが顔を真っ赤にしたまま答えられない。
子供には早すぎる。
性格を考えれば、展開されるであろう光景に耐えきれずに諦めると智機は踏んだが、展開はその斜め上を行っていた。
「ともきさんがよけば………か、かまいません」
「おまえ、脳みそおかしいだろ」
常識から考えれば、襲われることを受け入れるのはおかしい。特にファリルは姫なのだから、自分の立場というものを考えていない。
「なぜ、おかしいのですか? えっとあのその……」
急に黙り込んでしまったのは、調子に乗ってNGワードを言いそうになったからなのだろう。
「こんな殺人鬼に襲われたいなんて、絶対にまともじゃない」
「まともではないですけれど、智機さんは立派な方です。卑下されたら、智機さんに救われた私たちはどうなるのですか?」
それを言われたら一言もない。
「……ダメ、ですか?」
今にも泣きだしそうな顔。
拒絶されたら自殺でもしてしまいそうな顔。
……そんな顔をされるのは卑怯だと智機は思った。
もちろん、本気ではない。
いや、嘘ではないが演技の成分が何割かは混ざっている。
バレバレだというのに。
智機は頭をかくと、顔を背けた。
「勝手にしろ」
「ありがとうございます」
「襲われても、文句は言えないからな」
「智機さんに襲われるのなら、ほほほほほほ本望です」
「病院に行け!!」
智機を混沌の渦に叩き込んだ張本人は、何をも知らない無垢な寝顔で眠っている。
ファリルには色々なものがあったが、寝顔を見ているともやもやしていたものが泡となって消えていく。これでよかったと思えてくる。
実際、ファリルが添い寝してくれたのも智機を気遣ってのことだろう。
例によって、大空から突き落とされる夢を何度も見た。
寝ようとするたびに激痛がぶり返して悶々としているうちに夜が開けるのだが、今回は気が付いたら朝になっていた。
しあわせなのだろうか?
しあわせなのだろう。
絶え間なく繰り返される痛みにうなされることなく、落ち着いた気分で朝を迎えることができた。
穏やかな夜明けを迎える資格など、智機にはないというのに。
智機のような罪人は一生、宇宙から突き落とされる激痛に責められるべきなのだ。
幸せにはなっていけない。
なのに、今の環境には安らぎを覚えている。
ようやく実力に見合う相棒に出会えて、大好きな戦闘を満喫して、そしてベッドの隣に妹のような少女が天使のような寝顔で眠っている。
……今、気が付いたことであるがファリルの隣でマリアが爆睡している。
押し付けられるのは嫌いだ。
たとえ、幸せであっても強制されるのは嫌いだ。
でも、差し向けられた好意を無碍にするのも人として間違っている。好意を馬鹿にする者はどこかでその報いを受けることになると、智機は知っている。
それ以前に、昨日はさんざんファリルに迷惑をかけたのだから、何も言えない。
智機の口元が自然と自嘲に形成される。
なんでこんなくだらない事で悩んでいるのか。
素直に受け入れろと理性ではいっている。智機が苦しんだところで誰も苦しむわけではない。
いや、正確には喜びそうな人物を智機は一人、知っている。
智機に幸せを与えてくれた人間はファリルが初めてではない。過去に温かい想い出をくれた人はいた。智機と同年代の少年らしく安穏に暮らせる選択肢はいくらでもあったのに、それらの全ての投げ捨てて修羅のぬかるみでもがいてきたのは、全てを投げうってでも貫きたい想いがあったからだ。
ファリルの想いを無碍にすることも出来ないと同じように、今まで積み重ねてきたものを無かったことにすることもできない。
いや、器用な人間なら無かったこともすることも可能。むしろ、そうする方が賢い。
本当に馬鹿げている。
答えの出ない問題に悩み続けても陰鬱になるだけなので、智機は枕元に置いてあった携帯を手に取ると、メールの有無を確認した。
<<メール:独立装甲騎兵大隊バビ・ヤール編成について>>
「……早いな」
休暇の終わりを告げるメールを見て、智機の口元はゆがむ。
これからは闘争の時間だ。
兵器なら兵器らしく、戦いのことだけを考えていればいいのだ。
意識が戦闘の一点に向かって研ぎ澄まされる。
こうして、智機の一日が始まった
……かのように思えたのだが、隣で物音がしたので、思考を一時中断する。
仕事関係のメールをベッドで見たりするものではない。
「おはよう。ファリル」
「おはよう……ございます……」
「離れろ!!」
ファリルは半身を起こして、目をこすると縫いぐるみよろしく抱きつきにきたのだから、これには智機も焦る。
「えーっくっついたらダメですか……」
「仕事にならないだろうが」
智機は寝ぼけているファリルを引きはがす。
ファリルは起きているのにも関わらず寝息が響いているのは、多少の騒音にも関わらずマリアが爆睡しているからである。睡眠の深さから察するに激務なのだろう。6歳の女の子をコキ使うとはブラック企業を通り越して地獄の所業なのだが、マリアがいてこそ成り立っているのだから、関係者全員が地獄に落ちるしかない。
「話したいことがあれば、居間で」
智機は抱きつくファリルを引きはがすと、居間に移動した。
智機は居間に移動して、服を着替える。
正式な軍服を着る機会もあるが、今は作業着。
まだ靄がたゆっている頭の中で、これから必要な物をリストアップしていると寝室のドアが開いて、ファリルが現れる。
「おはよう、ございます」
挨拶を聞いたのも二回目なのだが、智機は敢えて突っ込まない。
「おはよう。コーヒーでも飲むか?」
「飲まないです」
「ファリルは苦いのはまだ、無理か」
「智機さんはいぢわるです」
智機はいつものようにファリルとやり取りをすると、コーヒーメーカーのスイッチを入れる。
コーヒーメーカーに入れた水が湯に代わり、コーヒー豆からエッセンスがコーヒーとして抽出されるまでの間、智機は携帯の画面を見つめていた。
ファリルが言った。
「楽しそうですね」
「楽しそう?」
「今の智機さん。とっても生き生きしています。水を得た魚というか」
「あるいはヤクを得たヤク中というべきか」
「相変わらずひどい自虐ですね」
ファリルがそういうなら、とっても人が悪い顔をしているのだろう。本当にロクでみない。
「新生バビ・ヤールの誕生だ」
ファリルが、あの残虐集団の復活と言いかけて抑えたのはおかしかった。
「バビ・ヤールといっても実際に戦闘するのは俺だけで、後はバックアップメンバーだけだが」
「この後の作戦が決まったのですか?」
「俺はこの後、シュナードラ公国ゲリラ戦ツアーに出る。飯を食って結団式をやったら出撃だ」
「早いですね」
「斉、いやクドネルが本格的に襲撃する前に動かないとマズいからだ。ある程度の兵力がバビ・ヤールに回ってくれるのが理想だけれど」
智機に提示にされた作戦はシンプル。
智機とそのバックアップが出撃して、シュナードラ国内に駐屯しているクドネル軍を襲撃。荒らせるだけ荒らしてチャンスがあったら略奪して、敵本隊が出たら逃げるという渋谷が立てた作戦にしては常識的なものである。シュナードラはクドネルよりも小型なのが有利に働くうちに働いて優位に立ちたい。
「戻られるのはいつですか?」
「一週間か一か月か。やってみないと分からないが、一日二日で帰れる仕事ではない」
智機に与えられたのは、渋谷が提示した攻撃目標を攻撃すること。選択は智機の裁量に任されるが、襲撃しては母艦に戻るという日常になるので当分の間はガルブレズに帰れそうにない。
これは智機と一つ屋根の下で暮らすという生活が、数時間で終わるということを意味していた。
「大丈夫。俺は死なない」
これから待ち受ける現実に、露骨までに重くなるファリルの頭を撫でるが、そんなことではごまかされないとばかりにファリルの気は晴れない。
「あの時は騙されました。あと、ひどい演説もされて」
「根に持つなあ」
ティーガーがチクビームで落とされかけた時のことが、尾を引いているのだろう。まだそれほど日も立っていない。
「当然です。智機さんにはあの時、感じたショックなんて理解できないんでしょうけど」
当分の間は引きづりそうなので、智機は話題を変えることにした。
「ティーガーは装甲が厚いし、あの見た目で俊敏だから多少の攻撃には耐えられる。俺以外の奴らを心配してくれ」
ティーガーだから耐えられた。ティーガーでなければ死ぬか重傷を負っていた。
要塞砲に匹敵するほどの砲撃に耐えられたのだから、ティーガーの防御力に関しては問題ない。智機は自身よりも部下たちが気がかりだった。
「バビ・ヤールの戦力はどれほどなのでしょうか?」
シュナードラの戦力もあるとはいえない。
「ティーガーの他は電池代わりのフォンセカと、仮装巡洋艦一隻。大隊というよりスクアドラだ」
スクアドラとは、EFを戦争で運用する上での最小単位で、1、2騎程度の騎数及び基地となる宇宙船一隻、および操船や整備などを行うスタッフといった必要最小限で構成される。宇宙船も軍艦といった上等なものではない。
「仮装巡洋艦と言いましたよね」
「ティーガーの打ち上げの時に使ったミツザワだ」
申し訳程度の武装、装甲を施した宇宙船で戦場に出なければ行けない人たちのほうが智機よりも不幸だと言ってもいい。極力戦闘は避けるとはいえ、EFに包囲されたら死ぬしかない。
「スタッフの皆さんは?」
「ミツザワに乗っていた連中を中心に後は志願組。渋谷艦隊やトランスカナイからの出向はいない」
来たるべきガルブレズ総攻撃の前に、出来る限り敵をひきつけておくのが智機の仕事なので、敵が来ることは大歓迎なのだが、その代わりにガルブレズに侵攻する敵の数が少なければ少ないほど、智機たちの危険度は上がる。そのリスクを非戦闘員に毛の生えたような経験の浅い人々で引き受けなければならないのだから遼の気は重い。
「あいつらにはやりがいのある職場と、生きがいのある死を保障することしか報いることができないのが辛い」
いくら外道を自認する智機とはいえ、味方に死ねと命令をせねばらないのは重い。
「ブラック…ですよね」
「まごうことなき黒だ」
私服を追求するために部下を酷使するのではなく、そうするしか生きていけないのだから余計に重い。
同時に智機の態度が乾いているというかサバサバしているのは、幸か不幸か部下に死を命令することに慣れてしまっているからなのだろう。
「西河が酔狂にも、電池役として志願してくれた」
「芽亜さん。復帰したんですか?」
「あいつはシュアードとは違って、肉体的には健康だから」
「休みをあげてもいいのに、戦線復帰は酷ですよね」
シュナードラ防衛戦から日が立っているわけでもない。西河も精神面に疲労を負っていた。これが平和な世界での業務なら数日間の休暇が与えられるべきなのだが、状況が許してくれない。
もっとも、智機に言わせればカマラに比べれば天国なのだが。
「あいつが望んだことだから、外野がとやかく言うことではない」
搭乗する騎体は前に乗っていたのよりも格が落ちるので楽とはいえないが、西河が決めたことなのだから智機としては、死に場所を自分で選びたいという意思を尊重するしかない。
ただ、心境の変化は気になるところである。
「うらやましい」
「なにが?」
「いえいえ。なんでもないですなんでもないです」
ファリルの何気ない呟きに反応したら、殺人していたのがバレていたかのようにファリルは慌てる。心の中に留めていたつぶやきがつい、表に出てしまったということなのだろう。
智機は武士の情けでスルーすることに決めていると、ファリルは赤面しながらも覚悟を決めた顔で口を開いた。
「……あのね、おにいちゃん。ファリル、お願いがあるの」
智機は一瞬、ファリルが何を言い出したのか分からなかった。
「何を言いだすんだ、てめぇ」
言われた智機にも衝撃だったが、言ったファリルのダメージが大きくて全身真っ赤で固まっていた。
「て、提督がこんな感じでお願いすれば、智機さんはなんでも言うこと聞いてくれるって仰ってましたから、つい」
「あのド変態ロリコン中年は」
腹は立つけれどファリルに「お兄ちゃん」と甘えられたのは、肋骨の隙間からナイフを突き立てられたかのように智機にとっても衝撃だった。
「お願いとはなんだ? できることなら聞いてやる」
出来る範囲のお願いなら、叶えてあげたいとは智機も思う。
「おに…じゃなかった、智機さんに髪を結ってほしいのです」
智機は上から下までファリルを見る。
その程度のささやかなお願い叶えられない、という訳でもないのだがファリルの髪が尋常以上に長い。
首のところで結わえられた髪は袋にくるまれているが、その袋の長さは身長を優に越えている。しかも、袋が死体を詰めた寝袋のように太い。
「結ってあげてもいいけれど、時間が」
今日が休日ならファリルの髪を結ってあげてもいいのだが、智機には仕事がある。髪を編み終える前に出勤になる可能性が高い。
残念だけれど、仕方がないという顔のファリル。
それでも可能な限りは、と思った矢先に智機の携帯に着信が入る。
「……まいったなあ。余裕がないというのに」
「どうしたのですか?」
「ミツザワの追加武装にトラブルが発生して遅延が生じた。のんびりしていられないのに余計に時間がかかる」
「……それは残念です」
「その割には嬉しそうだったが」
「そんなことはありませんよ、ありませんよ」
智機のように顔では笑いながら刺すという真似ができないから、非常に分かりやすい。
智機は肩をすくめた。
「やってやるから、支度しろ」
「いいんですか?」
「とっととしろ」
鏡台の前にファリルが座ると智機は背後に立ち、ファリルの束ねた髪をカバーしていた袋を外した。
それこそ電柱ほどの太さと身長を軽く越えるファリルの髪が露わになる。
髪を束ねていた紐をほどくと、束ねられていた髪が拘束から解き放たれ、蜂蜜色をした髪が豪快に雪崩落ちてきて、全身を包み込むように広がる。
身体全身が髪に覆われてしまい、背後からでは肉体や服などがまったくと言っても見えない。
智機は軽くファリルの毛先をつまむ。
髪に色艶や張りがないように見えるが、長さの割には指先がスムーズに流れる。寝る前にカバーをかけているのが役に立っているのだろう。
智機は鏡台の三面鏡に映るファリルをみる。
鏡の中にいるファリルは、いくらか緊張している。
このため、智機は髪に埋もれたファリルの背中に指を突き入れて、肩甲骨にあるツボを刺激するとファリルは甘い叫びを上げる。
「な、なにをするんですか?」
「緊張しているから」
「緊張しますよ……男の方に髪を結われるのは初めてなんですから」
「つまり、処女じゃなくなると」
本丸をぶち抜かれた訳ではないのに、ファリルは露骨に赤面する。
「責任…とってくださいね」
「やだよ」
秒で否定。
「ひどいです」
「俺は外道だ。良識を期待した貴様が悪い」
「わたしはおにいちゃんがいい人だと思っています」
ようやく、智機を「おにいちゃん」と呼ぶことになれてきたらしいい。しかし、その後で犯罪を犯したことを悔いるような顔になる。
「ごめんなさい。智機さんのことを「お兄ちゃん」と呼んでしまって」
智機はファリルの頭に手を置くと、テイーガーを操縦する時のような繊細さで、蜂蜜色の髪に包まれたファリルの頭を撫でた。
「安いな」
「何が、安いのでしょうか?」
「なんでもない」
たかだか、頭を撫でられる程度で美味しい物でも食べたといわんばかりな、幸せそうな顔をするのだから、安いといわずして何を安いというのか。
「いいよ。お兄ちゃんでも、兄でも、兄貴でもかまわないからお好きなように」
それぐらいしか、ファリルの想いに応えてやれそうにないから。
ファリルの髪、毛先辺りに櫛を通すと、歯は多少の抵抗の受けながらも蜂蜜色をした川から外へと流れる。
最初の頃は抵抗があったが数回繰り返すうちに、すんなりと流れる。いくらかくすんでいた髪色も艶が戻り、照明の光を反射して川面のように輝く。
櫛がすんなり通る領域を、ゆっくりと着実に拡大していく。
ファリルの全身を覆う豊かな髪が、美術品のように綺麗になっていく。
智機は思い出す。
女の子の髪を梳かすのが好きだったこと。
最初は乱れていて色艶がなかった髪が、自分の手でまっすぐになり宝石のように光輝いていく過程がとっても好きだった。
身長よりも長くて、豊富すぎる髪は手間がかかるけれど、それだけにやりがいがある。
一日中ずっと彼女の髪を梳いてもいい。
智機がまだ、御給智機と名乗る前のこと、これだけが智機の娯楽。
そして、言葉が降りかかる。
"迷惑…かな?"
"どうして?"
"こんなに長くて。面倒じゃない?"
"問題ない"
髪の一房一房から彼女の想いが伝わってくるから。
その想いを感じるだけで、智機は幸せになれた。
"ありがとうだよ、ともくん"
「智機さん智機さん」
ファリルに呼びかけられて、智機は我に返った。
智機はメートル単位で伸びた髪を、手のひらから零れるぐらいに掴んだまま硬直していた。
その髪色は鮮やかな蜂蜜色。
決して黒ではない。
「何があった?」
「いえ。智機さんが考え事をしておられたので」
「これからのことを考えていた。大変だから」
待ち受ける未来は気合でごまかせるほど軽くはないので、戦局を思っていたというのであれば納得してくれるし追及もされない。それでも、ファリルが何か言いたそうとしていたのが気がかりであるが、下手に突っ込むと藪蛇になりそうだったので、気にしないことにした。
「智機さんには経験があるのですか?」
「何が?」
「髪の梳き方がとっても丁寧です。もうちょっと手間取ると思ったのですが、こんなにも綺麗にしてくれるなんて想像もできませんでした」
智機の髪の梳きは、生まれて初めて女の子の髪を梳いたという初心者ではなく、熟練した経験者だった。ファリルが意外に思うのも無理もない。
「ノーコメント」
「ごめんなさい」
髪梳きが上手なことを智機は追及されたくなかったので、わざと語気を荒くすれば、ファリルも追及はしない。
「嬉しそうだな」
髪を梳かされているファリルはとっても幸せそうだった。ほんのりと顔が上気している。
「殿方に髪を梳かされることがこんなに幸せだなんて思いもよりませんでした。いや、お兄ちゃんに髪を梳かされているから、私はこんなのも幸せなのです」
お日様のような明るさで、幸せをひたすらに爆発させているファリルを見ると、智機もファリルの髪を梳いていることに幸せを感じてしまう。笑顔を見ていればファリルのために命を賭けても悔いはない。
しかし、ファリルの顔が曇る。
「どうした、ファリル」
「智機さんはお忙しいのに、時間をかけさせ……いだいいだいいだい」
髪を強く引っ張られて、ファリルは悲鳴を上げる。
「俺だって、ファリルの髪を梳かしているのは楽しんいんだから、ふざけたこと抜かすな」
「楽しい…ですか?」
男で髪梳きが楽しいというのは、変なのかもしれない。
「楽しくて悪いか」
「ありがとうございます」
鏡に映るファリルは、智機に対する感謝で一杯。
"ありがと"
純粋に幸せだと言えるその笑顔に、誰かの笑顔がかぶさって、智機は一瞬だけ視線を逸らした。
惑星新臨淄官庁部にある糾軍オフィスでロイ・エバンズは友を見ると敬礼をするが、すぐに下卑たものに変わる。
「どうした? 天巧星殿。随分と景気のいい面だな」
「…これをどうしたら、景気がいいと読める」
平然としていた延信であるが、友人に遭遇すると不機嫌な内面をすぐに露わにする。
「アイノちゃんにでも見限られたか」
「どうしてそうなる?」
「この世において、信が関心あるのはアイノちゃんだけだろ」
延信はひとまず脱帽すると、友人に心中を語った。
「俺が出征するというのに、アイノがいなかった。梁王に呼ばれていた」
「その程度で不機嫌になるとは、天巧星どのは案外器が小さい」
「梁王府の人間、皆が器が大きいと思うな」
一旦、エバンズは話題を変える。
「その制服は黒鉄廣島の制服か」
延信が着用しているのは蒼竜騎士団のではなく、黒鉄廣島の末期色を基調とした軍服だった。階級は少将
「副官と面会する。それから出撃、現地で大将と合流だ」
「副官と書いて、監視役と読むか」
将官なので副官がつくが、主な任務が延信の監視であることは見えすいていた。家柄といい能力といい延信は警戒される立場にある。
「陰獣みたいなのが、副官でないといいな」
「勘弁してくれ。あんなのが副官になれば泣く」
「たくさんの人間たちを殺してきたのだから、ゴリラみたいなのが副官で済めば罰としては御の字だろうよ」
「釈然とはしないが」
「アイノちゃんと会えなくて残念だったな」
延信のことをいじっていたエバンズであったが、アイノが延信にとって数少ない大切な存在だと知っているだけに、その無念さも理解できる。
「この下らない戦争。せめて、アイノの飯を食ってやる気を出そうとしていたのに更にやる気をなくす」
「今度の戦、勝てる見込みはあるのか?」
「相手はマローダーと変態だ。どう転ぶかは読めない」
「えらく慎重だな」
「兄上を思うと油断はできない」
世の中に確実なことはない。
特に戦争においては強者であっても勝てるという保証はない。決まっているのは存在している限りはいつかは死ぬという一点だけである。何気ない別れが永遠の別れになると思うとエバンスも延信の気持ちが理解できる。
「俺に何かあれば、アイノを頼む」
「悪いがその約束はできない」
「薄情な奴だ」
「お互い様だ。でも、生きて帰ってたらいっぱいやろう」
「同感だ」
「では、信のおごりで」
「ふざけるな」
そう言って、2人は別れた。
「はじめましてぇ、延信殿下。アタシは~殿下の副官を拝命しました第五京大尉と申します。よろしくね、でんかっ♪」
糺軍の仮オフィス、空室にデスクと椅子を置いただけの簡素な部屋で出会った副官は軍人とは見えなかった。
年齢は20代ほどの女性。黒とピンクと赤のメッシュに染めて髪をウェーブをかけてツインテールにした美人で、軍服も股間が見えそうで見えないギリギリのラインを攻めたミニスカートで胸元を開けているなど、軍人というよりはギャルだった。もっとも胸は軍服が破けるほどに大きいというのもあるが。
「初めまして、延信少将です。今後ともよろしくお願いします」
延信は、新しく彼の元に配属された部下を確認する。
「なにかついてます?」
食えない奴。それが延信の第一印象
どこをどう見ても軍人というより、夜の町で男をとっかえひっかえ遊んでいるギャルにしか見えない。戦士にしてはとても強そうには見えないのだが、力という力が抜けきったユルさに延信は危険を感じる。
副官というが、その実体は延信の監視。
延信が帝国において不穏分子である以上、監視役には延信と戦えるほどの力量が必要とされる。つまり、戦士として無能であることはありえないにも関わらず無能さを醸し出しているのはあからさまにおかしい。
もっとも、延信もそういう風に見られがちな人間だということもあるが。
中行廠、いや玄武か。
帝国最強四騎士団のうち、玄武だけは秘匿されており、延信でさえもその陣容は把握していないが、構成員の一人だとアタリをつける。
「いや、今日の予定はと思って」
副官の容姿を考慮にいれているだけ、蒼竜のいけ好かない同僚たちと組まされることに比べればいいと思うことにした。
「これより直ちに本星を出立、シュナードラの衛星軌道においてペイトン・ブレイディ大将と合流です。殿下」
「了承した。ところで、いい加減に殿下呼ばわりは無しにしよう」
戦争には公式に斉が関わっていない以上、延信も第五京も実名で参戦するわけにはいかない。斉人が黒鉄廣島などの外人部隊に所属して参戦する時には、人種に共通項が多い扶桑人を名乗ることが一般的になっている。
「今から、私は鷹城潤一郎だ」
「では、アタシは鈴壬矢春秘です。よろしくお願いします、鷹城少将」
厨二病臭いというか、なにやら不穏なネーミングなような気がしましたが、気にしないことにした。
「少将、さきほど直ちに出立と申し上げましたがぁ、その前に少将に引き合わせたい人物がおりますぅ」
それは初耳だった。
「誰だ?」
「梁国王殿下より、少将付を命ぜられた従兵ちゃんです」
延信は不穏なものを覚えた。
まず、第五京が笑みを隠しているようでもらしている。
梁王家の情報ならいち早く延信に入るはずなのに、延信には入らず他者によって伝えられた。これは何かがあるが成り行きに任せるしかない。
「父上も心配性だ」
「心配性ではなく心配なんですよぉ。星殺様は危険だという自覚がないんですかぁ?」
延信は、たった一人で星を滅ぼしたという化物である。味方にとっての最強の武器は、その味方をも破滅させる危険物でもある。特に帝国は外敵よりも簒奪の可能性がある味方を恐れる傾向にある。帝国が監視役として第五京を派遣したように、梁王家としても監視役いや、静止役を派遣せざるおえない。延信が行動を一つ間違えれば梁王家は断絶するからだ。その影響は父の延義だけなく親類縁者、仕える人々に及ぶ。
問題は、その監視役が誰かということ。
梁王家の家門において、父親以外の有力者が思い当たらない。
その意味では人材が細っている。
「ゆうちゃん、どうぞ~」
第五京がドアに向かって呼びかけると、ドアが開いて一人の人物が入ってきた。
「初めまして、山田勇次……はわっ」
その子は部屋に入ろうとして、コケては頭を打ち付けた。
「大丈夫? ゆうちゃん」
「だ、大丈夫です!! まだ、この頭に慣れなくて」
その人物は自力で立ち上がる。
頭や身体を手で払って威儀を調えると、その人物は2人に向かって敬礼する。
「山田勇次郎です。このたび梁王殿下より梁王世子様のお世話を仰せつかりました。まだ、若輩者でありますが以後、よろしくお願いします」
「かわいいよぉ。ゆうちゃんは」
若輩者というレベルではなかった。
年齢はたった5、6ほど。
卸したての黒鉄廣島の制服が身体よりも大きい。
何よりも目を退くのは、その頭。
金色の髪を1mm程度に刈り込んだ坊主頭で、産毛よりも短い髪から頭皮の瑞々しいばかりの蒼さがにじんでいる。このため、第一印象は出家したばかりの小坊主だった。
「鷹城潤一郎です。以後、よろしくお願いします」
延信は平静だった。
傍目には普段の延信のように見える。
「ゆうちゃんは、少将に内密の話があるといってたよねー」
「はい。あります」
「アタシは席を外すから、ごゆっくり~♪」
そういって、第五京は仮オフィスから姿を消し、後には延信と勇次郎が残される。
延信は勇次郎を仔細に観察する。
一見すると、勇次郎は男の子のように見える。
スタジアムの芝生よりも短く刈り込んだ頭のおかげで男の子のように見えるが、その肉付きは骨格は同年代の男子に比べて華奢で貧弱だ。今まで労働をしたことがない環境に見えるがそれは違う。
二人の間に無言の時間が続くが、諦めたように延信は勇次郎の頭を撫でる。
駆り立ての髪が延信の皮膚を刺激するが、犬や猫の毛だって長いしサラサラしている。
延信は悟る。
朝、一人で起きて、一人で朝食を食べて、一人で出勤する羽目になった理由を知った。
「なぜ髪を剃った。アイノ」
勇次郎は延信付のメイド、アイノだった。
あまりの変わり果てた姿に露骨に落胆する主人に、アイノは言う。
「剃らないと三爺と一緒に行けませんから」
「一緒に行くって、遊びではないんだぞ」
「大丈夫です。髪なんてすぐに生えます。三爺がそのようにわたしを改造なされたのですから」
「そうではない」
延信は戦争に行く。
待っているのは強敵との戦い。
延信の兄を倒した奴らなのだから、延信として無事に帰れるとは限らない。ましては大切な存在を戦場に連れ込むなんてできない。それでアイノが死ぬのなら、敵ではなく延信の責任。そんなことに耐えられない。
家長である梁王の決定である以上、アイノを置いておくこともできない。
「わたしだって、三人目の主君を迎える気などありません」
延信にも延信の主張があるように、アイノにもアイノの主張があるる。
「こたびの戦いは生きて帰れるかどうか分からないと三爺は仰っていたではありませんか。三爺が亡くなられたら私は後を追います。大姉の時はゆとりがありませんでした。でも、三爺は違います。最後までお供したいのです」
言っているうちに泣きだしたアイノを見て、延信は思った。
少し臆病になりすぎたか。
今度の戦いにおいて生きて帰れる絶対の保証があるとはいえない。その一方で絶対に死ぬという戦場に赴くわけではない。延信が言うのは過信すれば死ぬということであって、優位は延信にある。
脅威というのは過小評価するのもよくないが、かといって過大に扱うのもまずい。適性を定めるのが重要なのだ。
姉の死は延家の人々に衝撃を与えたが、中でも一番の衝撃を受けたのは姉付の侍女であったアイノであった。
あの時、止めるのが少しでも遅れていたらアイノは死んでいた。
だから、アイノは失うことを恐れている。
「ごめんね。アイノ」
延信は身をかがめるとアイノの小さい身体を抱きしめる。
熱いぬくもりが延信に伝わる。
あの時、安心させていれば、こんなことにならなかったのだろうか。
延信は短く刈り込んだアイノの頭を愛おしそうに撫でると、その小さい唇にキスをする。
長い時間をかけて、ようやく口をアイノの唇から離す。
唇からよだれが糸を引きながら垂れる。
「かわいいよ。アイノは」
「男の子になってしまったのですよ。アイノは」
一見すると男の子になってしまったアイノであったが、長時間のキスを受けて赤らめるアイノの顔は雌だった。むしろ、髪を伸ばしていたよりも淫蕩さが上がっているように見えた。
「それでも、アイノは可愛い」
「では、ずっと坊主でもよろしいので…」
延信はアイノの額をデコピンする。
「狗が主人に指図するな」
「も、申し訳ございません」
アイノには言いたいことが山ほどあるのだが、それよりも気になったことがあった。
「よく、親父が許したな」
女を侍らせて戦に出ることは延家では許されない。梁武王が健在なら許可をとろうと言いかけただけで首を落とされていただろう。
「そのことですが、梁王殿下より言づけがあります」
帝国だけではなく、梁王家からも監視役が派遣されるのは当然だとはいえ、延信の身の回りを世話することしか役に立たない幼女を派遣することへの説明がほしかった。
「梁武王様の言葉を忘れるな「大切なものは自身で守れ。他者にゆだねるな」と。この愚か者が」だそうです」
深く考えさせられる言葉だった。
シュナードラと梁国府、生存確率がどちらが高いのかは言うまでもない。ましてや帝国随一の士大夫なのだ。完全な保護のはずなのに、危険な戦場にアイノを派遣するということは、戦場よりも帝都が危険だということなのだろうか。
いくら延家が名門だとはいえ、皇帝の機嫌次第で一族の首が飛ぶというのが斉である。仮に皇帝の処刑命令が出ても帝都にアイノを置いておくのと、手元に置いてあるのとでは天地ほどの違いがある。
「大爺も、三爺が心配なのです」
「あのクソ親父が心配ね。兄貴が生きていた時はクソみたいな扱いだったのに、俺が世子になった途端に掌を返しやがった」
「そう思うのは三爺さまの精神がネジ曲がっているからです」
その途端、アイノの坊主頭に延信の拳固が押し付けられる。
「狗の分際で、一人前に人語をさえずるではないか」
「痛いです痛いです」
話はシンプルだった。
仮に、アイノを乗せた船が爆散しても非戦闘民を戦場に連れて行っていた延信が悪いのだから、梁武王が言うなら延信のミスであって、倒した相手を責めることはない。
でも、延信は是としない。
アイノを殺した相手は、アイノに与えた数億倍の苦しみでもって葬らるべき。
シュナードラがアイノを殺したのなら、シュナードラを星ごと殲滅すればいい。分子のひとかけらもなく、存在の記憶さえ残さず消滅させてしまえばいい。
過去にやったことを繰り返せばいいだけの話。
アイノが斉によって殺されたのなら、斉を滅ぼせばいい。
延信にはやれるだけの自信はあるが、同じ滅ぼすとしても、シュナードラのほうが手間はかからない。
延信は割り切ることにした。
「アイノ。君の従軍を認める」
「ありがとうございます」
「だが、私は留守を頼んだのに、アイノは破った。この罪は重い。分かるな」
「わかりました」
「今日からアイノは人間ではない。俺に徹底的に服従する奴隷、これが罰だ。人権などアイノには存在しない。頭の先からつま先まで俺の物。自分の意思なんていうものも存在しない。これからは俺のために生き、俺のために死ぬ。いいな」
「仰せのままに」
「そうだな」
延信は夢想する。
「この戦いが終わって家に帰ったら、アイノには髪を伸ばしてもらう。それこそ、このチンケな梁王府よりも長く豊かに。それから髪の一端を柱に括り付けて、家から出られないようにする。24時間終わりなく可愛がってやろう」
「その時が来ることを楽しみにしております」
「心ここにあらずといった感じですね」
ガルブレズの民間人居住エリアを適当に彷徨っていると、ファリルは側を歩いているヒューザーに声を掛けられる。
「そうでしょうか?」
「ほら、あそこに代行殿が」
「え? どこですか!」
ファリルは勢いづいて、ヒューザーが指差した方向を見るがそこには智機がいるはずがない。
「ヒューザーさん……」
「すみません」
担がれたことで、これはファリルも怒る。ヒューザーは謝るが誠意はあまり感じられない。
「やっぱり、うちらだと役不足ですかね」
「そんなことはありません」
「役不足とは、私たちに失礼。護衛の任務は立派に務めている」
側にいるのはヒューザーだけではない。
渋谷艦隊の制服を着た14歳ほどの金髪を肩までのホブに切りそろえた少女が無表情に言う。
「これは失礼。シャイデック少佐」
「護衛の任務なら、あたし達でも充分にこなせはするんだけど」
猫のように笑いながら言ってきたのは、これまた14歳ほどの渋谷艦隊の制服を着た強気な雰囲気を持つ少女。一見すると焦げ茶色の髪を三つ編みお下げにして膝まで伸ばしているように見えるが、実は左右一房ずつつの髪を三つ編みにしているだけで、それ以外の髪は顎先で切りそろえたボブという凝った髪型をしている少女である。
「あたしたちは、代行ではないからね」
「申し訳ございません」
彼女たちは渋谷艦隊のライダー。
金髪の少女がクライネ・シャイデック。
焦げ茶髪が葵・ロゼフナル。
二人とも、渋谷達哉に次ぐ立場にあるエースライダーで、先日のガルブレズ攻防戦では2騎でガルブレズに突入、クライネがシュアード、葵がヒューザー達を助けた。
ファリルは民間人居住地域を視察していて、護衛としてヒューザーと葵とクライネがついている。本来はシュナードラの兵がファリルの護衛を務めるのだが体調不良や休憩などの兼ね合いで、渋谷艦隊所属の二人もファリルの護衛についている。
「姫様。その髪型、とっても可愛いですね」
ファリルの髪は二つの三つ編みお団子にまとめている。長い髪でもお団子にすると圧縮されるはずなのに、頭に二つの頭をつけているように大きいのが、ファリルの髪の長さを垣間見せている。
そう言われるとファリルとしても嬉しい。
「ここまで編みこむのは大変でしょう。マリアちゃんがやったんですか?」
「……ええ、そうですよ」
「代行殿は意外と器用なんですね」
バレていた。
「なぜ、代行なんですか?」
「姫様は感情が顔に出すぎですから」
ファリルはごまかすということができない。
「これ、代行が編んでくれたんだ。意外と器用なんだね」
ファリルの髪が三つ編みに編まれ、それが左右の頭に一つずつ、球状にまとめられている。三つ編みはティーガーの装甲のように硬くまとめられている。
「モフってもいい?」
「お手柔らかにお願いします」
許可を得ると、葵はファリルの髪を喜び勇んで撫でまわす。
葵の手がいささか勢いづいているとはいえ、二人とも楽しんでいるようだった。
「いいなあ。二人とも幸せそうで」
「ヒューザー大佐も混ざる」
クライネに促されて、ヒューザーは二人をみる。
「やっぱ、いいや」
ヒューザーは二人を見ると周囲の状況を伺う。
四人がいる場所はホールになっていて、屋台がいくつも並んでいる。屋台からは電子コンロから美味しい匂いが立ち昇っている。
ガルブレズには軍関係者だけではなく、多数の民間人も逃げ込んでいる。長期に渡る滞在が予想されるので民間人を暖衣飽食させるのは無駄で不平等といった問題、更には精神的な問題から町を作って、かつての日常を再現させる、という計画がスタートしていた。
今は広大なスペースに露天を開いてお店を開いている。食事店が中心で人込みもそこそこおり、スタートは順調だった。
ファリルの仕事は商店街の視察。
店の人たちと会話をしながら買い食いという安楽な内容。
一方、智機とマリアがいないのは智機は独立大隊の最後の詰めで忙しく、マリアは内政を担当している。国王としての仕事がファリルにはできないので、そのしわ寄せがマリアにいっている。実質、マリアが国王を代行しているようなものである。
今のマリアに比べれば、ファリル達は遊んでいるようなものである。
ある組み合わせがヒューザーの目に止まる。
「おはよう、朝から女の子をナンパとはいいご身分じゃねーか。クルーガー大尉」
ヒューザーと同世代ほどの青年が、絡まれて驚く。
「ナンパなどされてませんよ。ヒューザー大佐」
「あたしがナンパしたのっ」
ヒューザーを挑発するようにその女性がクルーガーの腕に絡みついては密着したので、余計にヒューザーはヒートアップする。
「ナンパされた!! 僕にはそんなことなかったのに、うらやまけし……」
「ヒューザー大佐。失礼」
ヒューザーがクライネにどつかれるのを見て、クルーガーは敬礼をする。
「おはようごさいます。シャイデック少佐、ロゼフナル少佐。それにへ、陛下!!」
一国の国王が市井に出ているという現実にクルーガーは驚く。もっとも今のシュナードラは市程度の版図しかもっていないというのもあるが。
「おはようございます、クルーガー大尉。こちらの彼女さんは?」
「あたしはパトリシア・ハックマン。職業はミュージシャン。売れないという奴なんだけどね」
色々と見た目の衝撃が強い女性だった。
黒のジャケットにブラトップと太腿から先が千切れてしまっているというジーンズという露出狂ギリギリな恰好をしている。ブラトップからも零れるほどに大きい乳房に目が行くが、最大の特徴はその髪。
まず、髪を右半分は緑、左半分はピンク色に染めていて、ファリルと同じ左右の一つずつのお団子に結っているのだが、三つ編みのお団子のサイズが、頭並みに大きい。身長が高いことやお団子から垂れさがった三つ編みが足首まで伸びていることから、ファリルを越える長さなのかもしれない。
「大尉。この方との関係は?」
「彼女とは中学の友人です。高校は別だったので、彼女と再会するのは久しぶりのことなんです」
妙な二人の関係だった。
パトリシアはクルーガーに好き好きオーラを浴びせているのに、クルーガーは戸惑っている。警戒しているといってもいい。
バトリシアは見た目は奇抜であるが、髪の長さもあいまって非常に愛らしい女性である。こんな彼女が恋人であれば嬉しいはずなのに躊躇っているのが謎だ。
それ以上に、パトリシアを見ていると心が高鳴るのは何故なのだろう。
同じように、パトリシアも獲物を見つけた猫のようにそわそわしている。
遠慮はしていたが、体内から出てくる欲望を抑えきれないとばかりにパトリシアは言った。
「ひめ…いや、公王様。お願いがあります」
「お願いとはなんでしょうか?」
ここからパトリシアの表情が一気にだらしなくなる。
「公王様の髪をもふもふさせてください!!」
「わたしもパトリシアさんの髪をもふもふさせてください!!」
髪を伸ばし過ぎてもメリットはない。
髪の長さに比例してヘアケアの時間と重量がかかる。いい事なんてい何一つもない。にも関わらずファリルもパトリシアも身長を越えるほどに伸ばしているのは、髪を伸ばすのがとても大好きだからである。そして、髪を身長以上に伸ばすことを幸せを覚えている人間というのは少ない。ファリルはマリアという変態、もとい少女がいたがパトリシアの近所にそのような女性はいない。
もちろん、ファリルも編むのも編まれるのも大好きで、もっとたくさんの人々の髪を編んでみたいと思う。
しかし、葵が厳しい顔で割って入ってきた。
「女の子同士の髪の編み合いを邪魔する気はないんだけれど、ちょっと気になることがあるんだよねー」
さりげなくファリルとパトリシアの間に、葵とクライネが割ってはいる。無表情なクライネはともかく、葵も目が戦場に立つライダーのように鋭くなっていた。
「武器を所持している理由を説明してもらおうか」
その言葉に驚く、ファリルとヒューザーとクルーガーの三人。
ファリルの目には、パトリシアが武器を持っているようにはみえない。ヒューザーとクルーガーにも見えなかったようだ。
葵が言い放つ。
「この程度の偽装が見抜けずに、あたしに声をかけるなんて100年早い。ヒューザー大佐」
「へいへい。僕の目は節穴ですよー」
武器を持っていると指摘されたパトリシアは、バレちまったと笑っていた。
「デズモント・クルーガー大尉に"賢者の贈り物"をしたいんだけど、見逃してくれる?」
その一言で二人の緊張が溶ける。
「"賢者の贈り物"か。そこまで、クルーガー大尉のことが好きなんだ」
葵が楽しそうにクルーガーに流し目を送ると、ヒューザーがクルーガーをヘッドロックした。
「"賢者の贈り物"とはすっげぇうらやましいぞ。この野郎。ボクだって彼女がいないのに、デズはできやがって。ちくしょうちくしょうとくしょう!!」
「いだい、くるしい、だすけて……」
かなり本気にヒューザーが力を入れてきたので、クライネが引きはがすのを見ながら、ファリルは葵に尋ねた。
「ロゼフナル少佐。"賢者の贈り物"とはなんでしょうか?」
「ライダーの彼女、妻は戦場に行く恋人や夫に自身の髪を捧げるという風習がある。うちらの業界ではそのことを"賢者の贈り物"というんだ」
ファリルはパトリシアの三つ編みお団子に編まれた髪をマジマジと見る。
頭のように大きな三つ編みの塊。
その塊を構成する髪は丹念に編みこまれて、一筋の乱れもない。
ファリルはパトリシアの髪の団子に触れる。
染めているので、髪質は落ちているのかと思いきや意外としっかりしている。
その事から、ファリルはパトリシアが丹念に丹念に髪を伸ばしてきたことが分かる。
それほどの髪をばっさりと切ってしまうのが、ファリルには理解できない。
「髪を捧げることに意味はあるのですか?」
「ご利益のあるおまじないだからね」
「ご利益のある?」
「ライダーの意思を引き金に物質をエネルギーを変えるのが、ドリフトなんだけれど、髪というのはその燃料に非常に最適な物質なんだ。だから、ライダー達は恋人や妻の髪を持参するわけ」
得られるエネルギーがほんの僅かであっても、その細かい差が戦場では生死を分けることになる。
「カツラではダメなのでしょうか?」
「ダメ。人毛と合繊繊維で変換効率に差がある」
「EFって、わけの分からない乗り物ですよね」
「そうだね。意思の力で強くなんて、本当ならありえないことだから」
「EF研究では、いちばん進んでいる斉でさえも分からないことが多い」
「その斉なんだけど、髪関係ではエグい話も多いんだよねー」
「どのような話ですか?」
「まず、ライトな話では髪を手っ取り早く伸ばすために速毛剤が開発されている。ダークな話では女性の戦争捕虜は丸坊主にされるとか、有罪判決を受けると女性は丸刈りにされるとか、髪牧場とか髪奴隷というのもいるらしいし」
「…絶対に斉にはつかまりたくないですね」
「斉国民は家畜としか思っていないのが、斉らしいし」
会話をしていて、ファリルは気づく。
いや、気づくのが遅いというべきか。
半身のように伸ばしていた髪を切り落として、彼に捧げるという意味。
ファリルはパトリシアとクルーガーをマジマジと見つめる。
「パトリシアさんは、クルーガー大尉が好きなのですか?」
「うん。大好き♪」
パトリシアは晴れやかな笑顔で言い切ったが、それに対してクルーガーは慌てた。
「ちょっと待ってくれ。パトリシアが俺のことが好きだって? 中学の時は好きだって素振りを見せてくれなかったじゃないか」
「あの時は……恥ずかしくて何も言えなかった。それにデズを好きだと自覚したのは卒業してからだった」
中学時代は友人で、恋しているという素振りを見せなかったのに、再会したら今まで貴方の事が好きでした、のだからいきなりそんなことを言われても戸惑う。
しかも、髪を捧げるというのだから重い。
「実は既に彼女がいる、といったらどうする? それでも髪は捧げてくれる」
クルーガーに問われて、パトリシアは一瞬、泣きそうになったがグッとこらえて言い放った。
「捧げてあげる。デズが好きだから、生きていてくれていたら、あたしは報われなくてもいい」
パトリシアは右側のお団子をほどく。
三つ編みの束が地面にむかって雪崩落ち、足元に蛇がうねっているような三つ編みの塊ができる。
ジャケットの内側に隠し持っていたコンバットナイフを抜くと、左手でほどいた三つ編みを引っ張る。
右手に持ったナイフの刃を三つ編みの根元に当てると力を入れた。
束ねられた髪にナイフの刃が食い込む。
鈍い音が空間に響く。
電柱のように太く束ねられているので時間こそかかっているが、ナイフの刃は下方へと沈み込み、切断部分の髪が扇のように広がり、残された部分の髪が耳の上にかかる。
そして、髪は完全に切り落とされる。
「はい。こんなものでよければあげる」
右側の髪は巨大な三つ編みのお団子ができるほどの長さだが、左側の髪は耳より少し上のところで切られ、後頭部に生えている部分は下へと垂れさがる乱雑に切られたショートというアシンメトリーな髪型になったパトリシアは、切り落とした三つ編みをクルーガーに差し出した。
「頑張ってとはいわない。生きてかえってきてね」
両目から滝のように涙が溢れ出す。
そんなパトリシアをクルーガーは抱きしめる。
「ありがとう、パティ。君がいるからこそ俺は戦える。絶対に生きて返ってくる」
「…デズ」
クルーガーはパトリシアを抱きしめる力に入れると、ヒューザーに向かって叫んだ。
「彼女出来ましたよーっっ。うらやましいでしょう、大佐!!」
「喧嘩売ってのか。てめぇ!!」
いつの間にか人垣で出来ている中、ファリルはそっと葵に言った。
「ロゼフナル少佐、お願いがあります」
「代行殿の演説は見事だったよ」
参謀長執務室で、やってきた智機に対して渋谷は言った。
「見事と書いてヒドいと読ませる類のものだったろ」
智機はゲリラ部隊のメンバーとなる新生バビ・ヤールのメンバーに演説をぶったのだが客観的に見ればひどいものだった。
「代行殿らしいといえば、らしいけど」
「言いつくろったところで死に場所しか用意できねえ。やりがい搾取もいいところじゃねえか」
「代行殿も変なところで誠実というか正直だからね」
軽く会話をしたところで、智機は本題に入った。
「出撃する前に話があると言っていたけれど、聞こうか」
「代行殿も僕に言いたいことがあるようだから、お先にどうぞ」
智機は肩をすくめた。
「ファリルが妙に俺の急所を突くような事ばかり言うんだけど、どんな入れ知恵をした?」
「簡単なことさ。「代行殿はお願いに弱いから、節度を弁えれば、ちゃんと願いごとを叶えてくれる」と」
智機は人を刺し殺せるほどの眼光で、渋谷を睨みつける。
「お怒りのようだけど、代行殿も自覚しているとは思う。違ったかい?」
智機の圧が減る。
自身を善人だとは思ったことは一度としてないが、頼まれると嫌とはいえなかったような気がする。今までの人生の中で。
「代行殿はいい人だからね」
「職務中に酒飲むとは関心しないぞ」
「もちろん、今までの人生で大量虐殺をしている代行殿が清廉潔白な人間なはずはないし死後は間違いなく地獄行きだ。しかし、その一方でたくさんの人々を助けてきた。姫様も代行殿には感謝している。感謝して感謝しきれないほどだ。代行殿を殺してやりたい人間が星団にたくさんいるように、代行殿の幸せを願っている人もたくさんいる。知らないふり、はいいとしても彼女たちの想いを踏みにじるような事は許されない」
どこを間違えたのだろう。
智機は許されないものなのだから、憎まれるべきだった。
幸せなんてほしくなく、自身の命なんて他者からは塵芥のように扱ってほしかった。
それなら、智機も遠慮なく全てを殲滅することができるから。
でも、現実はファリルから「お兄ちゃん」と呼ばれる始末。
智機としては雇用主とのドライな関係で痛かったのに、どこでどう間違えたのか分からなかった。
「まずは個人的な興味なんだけれど、代行殿は陛下のことをどのように感じている?」
「ぜんぜん頼りないけれど、忠誠心を刺激する君主」
「王としてではなく、個人としての感想を聞きたい」
智機はごまかそうとしたが、渋谷は許さない。
「今のは個人的な興味だろ。答える義務はない」
「では、質問を変えようか」
渋谷は聞かなかった。
「陛下が死んだら、代行殿はどうする?」
BGM代わりに響いていたキーボードの打鍵音が一瞬、止まる。
渋谷の隣席で、マリアが事務処理をしているからでファリルの名前が出たので反応したが、一瞥すらもせず課せられた仕事を続ける。
「陛下は雇用主だ。それ以上でもそれ以下でもない」
鋭い視線が肩口に刺さったが智機は無視する。
「代行殿がそう思うのなら、そう思うのだろうね」
渋谷は苦笑いしていた。
「戦歴豊富の代行殿なら理解しているとは思うが、どうでもいい存在が実は大切だったということもある。失った時に後悔するなら、生きている時に大切してあげるべきだ。余計なことだとは思うけれどね」
提督が言うように、そんなことは分かり切っている。
「ここからは僕からの本題。代行殿に託されたものがあってね」
提督は机の引き出しを開くと、中にあるものを取り出した。
智機の動きが一瞬、止まる。
机の上に置かれて、智機の目を奪ったもの。
それは女性の髪。
大木のように太い髪束が三つ編みに編まれている。その長さは軽く見積もって1メートルを越えて2メートルに達するかというほどで、その髪の持ち主が、髪を時間をかけて伸ばした後に切り落としたという事実を示唆している。ルビーのように赤い髪は照明を反射して水面のように秒ごとに光彩を変えながら輝いていた。
髪の持ち主の美しさが、時の流れから切り離されて保管されているように見える。永遠に。
智機は理解する。
「……バカだよ、あの人は。ロングヘアに拘るのなら剃らなければよかったのに」
呟きには怒りがこもっていた。
「大尉もセンチュリオンズから退役したのも、非常にもったいないことだと思うけどね。シャフリスタン提督も大尉が平穏無事な生活を送ることを望んでいた。平和で幸せな選択肢を捨てて、地雷原のまっただ中へ鼻歌交じりに歩む心理というのは、大尉も理解しているはずだ」
自身の生き方が器用なものではないのは、理解している。
絶対に許せないことがあって憎悪が収まらない限り、歩みを止めることができない。愚かであっても、行き着く先が地獄であったとしても。智機も"あの人"もその類の人種だった。
「提督がなぜ、あの人の髪を」
「前にも言っていたように僕はあの人の友人だった。提督は先のことを読んでいたようだ。大尉のことを気にかけていた」
「その気にかけていた相手にぶっ殺されるんだから、世の中は本当に面白すぎる」
「たいへん残念なことになったが、提督は大尉を愛していた。この「賢者の贈り物」は僕ではなく、大尉が受け取るべきだ」
智機が両手で赤毛の髪束を捧げ持つ。
智機の筋力であっても、ズシリとした重量が掌にくる。
母というか姉というか、髪を捧げるのは愛の証。
忘れかけていた、いや、無かったことにしていた憎悪の炎が燃え上がる。
「バカだよ。あの人は本当にバカだよ。大切に思っていた相手にぶっ殺されるんだから、俺なんて救わなければよかったのに」
「嫌いなら、そこまで苦しむこともないのに。大尉の性格なら」
嫌いであれば殺すことに抵抗はなかった。今までのように。
「話はこれまでと言いたいところ、なんだけれど実はもう一つの贈り物がある」
実は智機にとって、この展開は読めないことでなかったので、次の展開は予想外だった。
渋谷が引き出しから、机に出したのも髪束。
細かい三つ編みをまとめて一本にしたもので電柱ほどの太さがある。メートル単位での長さがあって照明が烏の濡れ羽色な黒髪に反射して複雑な光彩を放っている。
「大尉の熱烈なファンからの捧げ物だ」
「誰だ?」
「大尉の知っている人物だ」
智機は少し考えると溜息をついた。
「あいつ、そこまでして自分の手で殺したいのか」
「いや、それは余りにも無理がある解釈だと思うよ。大尉」
沈黙の後に、また溜息。
「わけわかんねー。あれだけのことをやったから憎んでいるはずなのに」
「実際に会ってみたほうが早いよ。実際、そのような取り決めを決めているのだろう」
実に人の悪い笑みを浮かべているのだから渋谷は把握しているのだけど何も言ってはくれないのだろう。
脱力した智機であったが、机を激しく叩く音が執務室内に響き渡り、注意が音の発生源に向く。
執務室内に濃密な殺気に、歴戦の二人でさえも思わずたじろぐ。
「マリア?」
「あの……マリアさん?」
マリアがいきり立っていた。
両面から滝のように涙を流しつつ、智機と渋谷が唖然とするほどの怒気が立ち登っていた。
世の中、面倒なことばかり。
生きていくうちに面倒なことが積み重なり、解決できないまま重荷ばかりが、雪のように振りつもっていく。
執務室から格納庫にあるミツザワに向かう道中、智機は様々なことを考えていた。
自身の命なんて、どうでもよかった。
適当に倒して、適当に倒される。それが御給智機の一生。
他者からはその死が祝われることはあっても、惜しまれることはない。路傍の石としての生涯を終えると思っていた。
それなのに、カマラでは智機を生かすために一個旅団分の人々が死んだ。
彼らはゴミのような存在だから、いくら死んでも痛痒はしないと思うとしても無理だった。想いを寄せてくれた人々を無下にすることはできない。
あの時はどのような行動をとるのが正解だったのだろう。
いくら思索しても答えはなく、生きているということはとった行動は最善とはいえなくても適格だといわざるおえない。
「まだまだ甘いな…オレも」
突き放せばよかったのに、突き放すことができない。
ファリルに懐かれているのはある意味、とても辛いが今更、突き放すことができない。提督が言うように想いを踏みにじることは許されないのである。
智機にとって、ファリルはどんな存在なのだろう。
提督にはファリルの生死はどうでもいい、と言ったがそれは嘘である。
ファリルがこの世界からいなくなっても、ゴキブリが死んだ程度だと思うとしたのだけど無理だった。
気が付くと、ファリルもそれなりに重みを持つ存在になっていた。
これだから、人を想うのは嫌なのだ。
存在が重くなればなるほど、無くした時の喪失感も重くなる。
内臓をごっそりともっていかれるような痛みを味わうぐらいなら、関係なんていらない。ずっと一人でいい。一人で生きて、一人で殺して、一人で死ぬ。
目的を果たすためまでは。
格納庫に入ると、広大な空間に轟音が響き渡る。
戦闘が発生してから数日が経つので、待機しているEFの数も増えていた。完全に整備されたEFもあれば、組み立て半分といったEFもあり、片隅に部品取りのパーツとして転がっているのもある。
少しでも戦力を充実させようと活気に満ち溢れている中で、智機は一人の少女に会った。
「変わったな」
事前に知っていたとはいえ、リアルで見るとインパクトが違う。
「ちょっとさっぱりしたいと思いまして」
ファリルは笑いながら後頭部をさする。
その白い手はすんなりと後頭部を撫でる。
朝には身長を越えるほどに伸び、全身を覆っていたファリルの髪が、耳の上でばっさりと切り落とされていた。
後頭部は刈り上げられていて、猫の毛よりも短く切りそろえた髪が薄く覆っている。
前髪こそあるもののショートヘアになったことで、男の子が女の子の服を着ているように見える。
「似合い…ますか?」
「似合わない」
即答だった。
「ひどいです。勇気を出してイメチェンしたのに」
「変わることはいいことだと言うのが間違いだ」
「智機さんはひどいです」
「勝利のためなら、皆殺しもする奴が善人だと思っていたのか?」
「ほんとーーーに、智機さんはいぢわるです」
溜息をつくと、ファリルは足元に置いてあったトートバックに、手を突っ込むと中にあるものは取り出した。
「本当にどうしようもないのは私もです」
ファリルの両手に握られている物。
それは蜂蜜色に光輝く、とっても柔らかくてしなやかな髪が三つ編みに編まれて、一つにまとまっていた。
「どうしようもない私から、どうしようもない智機さんへの"賢者の贈りもの"です……受け取ってもらえれば嬉しいです」
その目から涙が溢れていた。
自分の分身のようにとってもとっても大切にしていた髪をファリルはばっさりと切り落とした。
「意味分かっているのか?」
涙を流しながらも、ファリルははっきりと言い切った。
「私は智機さんのことが大好きです」
「……髪は本当に好きになった奴に捧げろ。俺みたいなクソに上げるな」
「だから、智機さんのことが好きになったのです。それ以外の人なんて考えられません」
「それは錯覚だ」
「智機さんこそ、私を馬鹿にしています」
いつもなら引き下がるファリルであったが、ここでは引き下がらなかった。意外な成り行きに智機は僅かばかりに後退する。
「チクビームのこと、覚えてますか?」
「忘れた」
「私は覚えています。眼前からティーガーが光の中に消えていく。とってもとっても怖かった。智機さんが消えていくと身体の中にぽっかりとまた穴が空いて、パパやママを失った時のようになってしまう。すごく怖かったんですから、智機さんは責任をとってください」
「本当は怖くないだろ」
なんの責任をとればいいのだろう。
「オレが出撃するたびに落ち込んでいたら、生きていけないだろう」
智機が死にかけた事はこの前が初めてでもなく、これで終わりでもない。智機が出撃するたびに一喜一憂していたら、ファリルの神経はもたない。
「私はEFには乗れません。智機さんは戦場に出るのに私は待っているだけで何もできない。智機さんみたいに強くなくて、マリアちゃんみたいに頭がよくない私だけれど、智機さんの助けることができる。女の子の髪はドリフトの燃料になる。力にはなれませんか?」
女の子の髪はドリフトの燃料になる。
理性ではファリルの髪は窮地に陥った時の手助けになるといっている。
智機はファリルを見る。
身長よりも長く伸びていたファリルの髪は耳の上でばっさりと断ち切られている。生きていく上で髪は面倒だったと思われるが、ファリルは好きだった。でなければ、そこまで伸ばせるわけがない。
その大切な宝物を捧げる意味。
「悪いんだけど、ファリルの想いには応えられない。いや、応えたくない」
「かまいません」
拒絶をしたにも関わらず、ファリルは引かない。
「ある人は「恋人がいてもかまわない」といっていました。私のことはどうなろうとも、智機さんがしあ……生きていれば、それでいいのです」
自分が報われたいと思うのが恋であるのなら、
「私は…智機さんを愛してます」
自分は幸せになれなくても、相手の幸せを願うのは愛。
相変わらず、涙を目に浮かべながらもファリルは言い切った。
「もう一回言っておくけど、ファリルの想いには応えられない」
ファリルが、自身の切った髪を持って前に現れたという時点で、智機の選択肢というのはなかった。
「でも、くれるのならもらってやる」
ファリルの表情が一気に明るくなる。
「ありがとうごさいます♪」
「礼はこっちだろう」
想いを伝えることができて、ファリルは幸せなのだろう。
智機は現実を分からせることにした。
「髪を切ったことは、マリアに言ったのか」
ファリルの表情が一気に石化される。
予想されていたことだった。重大なことを考え無しに実行するのはとても危険なことだ。
やがて、モスキート音よりも聞き取りにくい声で言った。
「……いっていません」
「マリア、無茶苦茶怒っていた」
「……ほんとですか!?………」
一瞬にして、まな板に乗せられて首元に出刃包丁を当てられたようになるファリル。助命を求めるように上目遣いで見る。
その一縷の望みを、智機は打ち砕く。
「俺だけなく、提督でさえも恐れおののくほどの殺意に満ちていた。縁を切られるのはいいとして最悪、刺されるだろうな」
多少誇張しているとはいえ、歴戦の智機や提督でさえも唖然とするほどの殺気を放出していた。
「どうしたらいいのでしょうか?」
「助ける義理はあるけれど、助けにはなれない。マリアの旦那に相談してくれ」
智機は思った。
帰ってきた時には、ファリルの髪はロングといえるほどに伸びている。
仮装巡洋艦ミツザワがガルブルズを出航、作戦ポイントに到達するまでの間、智機はティーガーのコクピットにこもっていた。
出撃するまでの間は休憩するのもライダーの仕事であるが、当然のことながら休養できるわけがない。
まともに睡眠をとることができない体質もあるが、出撃するまでの出来事があまりにも濃すぎて、どうしても脳みそにちらついてしまう。
ファリルの言葉が脳裏によぎる。
「…愛してますなんて、軽く使ってるんじゃーねぞ」
智機は愛を捧げられるほどの立派な存在ではない。
逆に唾棄すべき存在だ。
「おまえ、どうしたんだよ。その頭」
彼女の姿は、朝よりも大きく様変わりしていた。
「えへへ。剃っちゃった」
身長よりも長く伸びていた髪は全て剃り落され、青々とした頭皮を晒していた。智機の視力をもってしても髪の痕跡を認められないほどの坊主頭な彼女は、一見すると男の子にしかみえなかった。
「はい、これ」
「はい、これって……」
彼女が差し出したのは何枚かの紙幣と硬貨。
「わたし、ともくんにすっごくすっごくくろうさせてる」
「くろうじゃないよ。とうぜんだろ」
「だから、かみをうってきた」
「うってきたって……」
「わたしでも、ともくんのためにおかねがほしかった」
ともきは目の前の女の子を見る。
髪を徹底的に剃られまくった女の子は見た目的には女の子とはいえなくなっている。むしろ、男の子にしか見えない。それでも、智機は彼女のことが可愛いと思った。むき出しになった頭蓋と青白い頭皮の取り合わせがとっても綺麗だと思った。
きれいだよ、と言ってあげたかった。
「ごめん……」
声に出るのは謝罪の言葉。人が死んでも涙なんてでないのに、たまらなく涙があふれ出た。
「とも…くん」
「ひどいすがたにさせてごめん。くろうかけさせてごめん。つらいおもいをさせてごめん。オレ、がんばるから。なんでもやるから。どろぼうでもころしでもなんでもやって、いっぱいいっぱいかせぐから。あまり、かせげなくてごめん」
「ともくん、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
今までの人生で涙を流したのは、あれぐらいだったような気がする。シャフリスタン提督を殺した時でも涙が出なかった。
あれから数年が経つが、彼女に誇れるどころか最低な人間、いや、最悪な外道になっていた。
人に好かれることなんてないにも関わらず、それでも愛してくれる人がいる。避けようとしても、その子は踏み込んでくる。
その先には破滅しかないというのに。
「ばかだよ。あいつは……」
その呟きは誰にも聞かれることなく、宙に溶けて消えていった。
Ps.https://kakuyomu.jp/users/ex_himuro/news/16817330662257134159
挿絵へのリンクです。ファリルの変貌ぶりをお楽しみください。
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