第8話 楽園の傷
整備陣は戦闘が終わってからが本番である。
次の戦闘が始まる短いインターバルまでの間に一騎でも多くの騎体を稼働状態に持っていかなければならない。特にシュナードラはテコ入れがあっても戦力が厳しいので、なおさら苛烈にならざる終えない。
ただし、ハモンドとクラークソンは修理とは直接、関係ない命題に取り組んでいる。
「メイ。ティーガーのデータはまとめられたか?」
ティーガーは試作騎である。
コアの性能に対して、反映されている性能はほんの僅か。少しでも理想に近づけるためには実戦から持ち帰った貴重なデータを解析する必要がある。でないと改良の方向性さえもまとまらない。
その作業に手間取っているのは、智機が持ち帰ってきたデータが膨大なのもあるが、それ以外にも要因があるようだった。
「代行殿のいい加減さに恨みでもあるのか?」
「それもあります」
メイは憤懣やるかたないといった様子であった。
「あの人のいい加減さはなんなんですか!! リミッター切るなって散々言っているのに無視して。その結果、200Gはおろか最大で400Gも出しているのに、死なないどころかピンピンしているなんて、おかしいです」
「ああ、確かにおかしいな」
「おかしいのは師匠もです。乗るだけでライダーを殺す騎体は欠陥品です」
「代行殿は無事に生きて帰ってきたではないか」
「それは代行殿がおか…」
「代行殿がいるぞ」
それだけでメイが硬直する。
一瞬にして硬直。しばらくして顔面が恐怖一色に染まる。
「冗談だ」
緊張の糸が切れたように、メイが崩れ落ちた。
「師匠。ひどいですよ~」
「本当に代行殿が恐ろしいのだな」
あの時、脅した智機は当事者ではないクラークソンであっても怖かったのだから、標的にされたメイが受けた恐怖は言葉にできないものであっただろう。
「未だに報告ができないのは、ティーガーが受けた重力加速度が半端ではないからだけか」
ティーガーがライダーに与える重力加速度は、乗り手さえも簡単に挽肉してしまうほどだが、さんざん言われてたことである。
メイは咳払いをして自身を落ち着かせると、クラークソンのディスプレイに情報を表示する。
「この波形は?」
「装甲が受けた衝撃を図形にしたものです」
波形は多少のブレはあるものの概ね直線を描いている。ただし、まったくというわけではない。
「一番激しいのはチクビームを食らった時、その次はズテンカから脱走した時。おや?」
ティーガーがズテンカから脱走した後は、戦闘がなくそのままガルブレズまで逃走したのかと思われていたが、実は誰かと戦っていたようで、チクビームを食らった時ほどではないが、大きくブレている。
「次にドリフト出力計と合わせてみます」
もう一つの波形が重なりあう。
これはライダーが使ったドリフトの量を波形として現したもので、これは激しい波形を描いている。もちろんチクビームを受けた時が激しいが、ガルブレズに帰還する前の衝撃計とドリフト計測計の大きな揺らぎが概ね一致している。
「師匠。これはどう見ますか?」
この波形だけで状況を察することはできない。だからこそメイは悩んでいる。
あくまでも常人は。
「これは相手が自爆したな」
「わかるんですか!?」
「チクビームの次にダメージが大きい攻撃、それは自爆だ。コアの爆発はEFの攻撃など比較にならない。自爆から守るためにドリフトを使ったとすれば、おのずと想像はつく」
マッドとはいえ、この辺りは名工と謳われる所以なのだろう。
「興味がある。その様子を見たいところであるが」
クラークソンは気づく。
「その様子が見えないのです。プロテクトがかけられていて」
性能にもよるが、戦闘行動はコアが記憶して技術者は見ることができる。しかし、今回の行動に関しては波形ほどしか見えない。
弟子の疑問にクラークソンは面白そうに口元を歪めた。
「代行殿は、何を見られたくなかったんだろう」
ライダーが隠蔽を指示すれば、簡単にプロテクトをかけることができて、得られるのはテレメトリーからの波形データだけとなる。
「メイ。突破を考えるのは無駄だ。ティーガーの主たる代行殿がかけたんだ。無理に決まっているだろ」
ライダーがかけたプロテクトは、コアとライダーの格によって硬さが決まるが、智機とティーガーの組み合わせは難攻不落といってもいい。
「代行殿は何を行ったんですか?」
「本人に聞いてみたほうが早いぞ」
「……」
当然の言葉であったが、その直後のメイの顔が無理だと教えていた。
クラークソンは思う。
その様子だと、ドリフトには問題がなかったようだ。
EFでドリフトができるのは人型をしているからである。手足がない飛行機や戦車では決してできない。その原因は未だに解明されていない。逆に手足がなくなればEFでもドリフトが使えなくなるので、降伏にはEFの手足を爆砕するのが基本になっている。
このため、クラークソンはティーガーにおいて実験をした。
右腕が巨大なのも、低下する作業性を補うために副腕を設けたのも、人型から逸脱する許容範囲を探るためである。
ドリフトが作用しなければ最悪、副腕を爆砕することも考えられただけに実験は予想以上に運んだといえるが、許容範囲が想像よりも狭ければ、智機はドリフトを自在に使えずに苦戦していただろう。
場合によっては死んでいたことも充分に考えられたことを考えると、J・C・クラークソンという人物は鬼畜である。
寝ようと思って寝られるのなら、苦労はしない。
智機は瞼を閉じて意識を無にしようと務めたが、寝ようとする時に限って意識が高ぶってしまうもので意識は一向に落ちてくれず、ついには諦めて瞼を開けると起き上がった。
目の前に広がるのはテーブルとチェストとロッカーがあるだけの殺風景な光景。
「ちきしょう」
智機はテーブルに置いてあったリモコンを取り上げて、壁面に埋め込まれているテレビを見ようとしたが、途中でやめてはベットに寝転がった。
両目に映るは照明の明かり。
やる事はいっぱいある。
智機としては昨日の戦闘データを引っ張りだして評価反省を行いたいところであるが、渋谷から休息を言い渡されているので、頭を使う行動は硬く禁止されている。
実際、戦闘データをダウンロードしようとしたのだがアクセスを禁止されていた。
仕事をすることが禁じられている以上、智機にできることは寝るか遊ぶかであったが。ここで露呈したのは智機が戦争に関連する事柄以外の興味がないという無味乾燥とした事実であった。
軍隊に入る前のことなんて、おぼろげ程度にしか覚えていない。
軍隊に入ってからというもの智機が行っていたのは軍務。
はっきりいってしまえば空腹を抱えてEFに乗り、部隊を指揮しながら人を殺すこと以外のことをしていない。智機の同世代の人間は大したことも考えずにのんきにだらだらと日々を送っていることと比較したら、いくら智機といえど余りの殺風景さ戦慄を禁じずにはいられなかった。
目をつぶってみたところで、眠気は訪れない。
そもそも、智機は狭義の意味で寝たことはない。
「……わかってはいるのだが」
寝るたびに思い出す、痛みと憎悪の記憶。
空から未来永劫落とされる夢。激痛を甘んじて受けるべきだと心が言っている一方で、その苦痛から逃げたいと思っている自分もいる。
だとすれば、何をしたらいいのだろう。
真っ先に酒を飲むという選択肢が思い浮かぶ。酒なら、ほんのひと時でも現実を忘れることができて楽しむことができるが、それはやめておこうと智機は思った。
これがカマラなら躊躇なく飲んでいた、いや、飲まなければやっていられなかったというところなのに、シュナードラに限って手が止まるのは、雇用主が未成年の飲酒に寛容ではないのと、上司からの命令で民間人虐殺をするレベルまでには追い込まれていないからだろう。
マリアの言葉ではないが、酒に依存するのはまずい。
知り合いと会話するということもあるが、その知り合いが少ないことにも智機は愕然とする。その暇もなかったので当然といえば当然なのだが。
知り合いの顔を一つ一つ思い出しては、ヒマ潰しの雑談をしかけようとかとは思ったもののディバインにしろ、セシリアにしろ智機のように暇ではないので、仕事の邪魔をすることは智機でも躊躇われた。
それに雑談できたところでいったい何を話せばいいのか。
話題の無さに智機は頭を抱えた。
寝れない。かといって他のことをやる気もおきない、会話する相手もいなければ、会話のネタもない。そんな己にできることはあるのかと真剣に悩みだしたころ、携帯が鳴った。
「もしもし」
「おはよう、代行殿。気分はどうだ」
相手はザンティ。
「仕事くれ」
「せっかくの休暇だというのにもったいない奴だ」
「オレも人殺しをとったら何も残らない存在だということに気づかされて、呆れているところだ」
「ナンパをするという考えはないのか。代行殿ならモテるぞ」
女遊びは考えたこともなかった。
ナンパする、あるいはその先まで行ってしまうといえばクルタ・カプスにいた頃、可愛がってくれたシャフリスタン艦隊の兵士たちの一部が頻繁に女を買いにいっていた事を思い出す。
女を交えた兵士たちの宴会に巻き込まれたのは謎だったけれど、あの時は楽しかった。
「ない」
「つまらん奴だ。俺の若い時なんか…代行殿ほどにはモテなくて彼女もできなかったからなあ」
「そんなに女とやるのがいいのか」
「なんだその疑問形は。もしかして、代行殿は男が趣味なのか?」
「市長」
「なんだ?」
「今から殺りに行くから覚悟しろ」
智機としては半分本気だった。
「冗談だ、冗談。気にするな」
智機としては冗談には聞こえなかった。
ただし、わが身を振り返ってみると他人から男趣味があると誤解されても仕方がないと智機は愕然とする。
正確には男にも女にも等しく興味はない。
ただ、望みは戦場で無数の敵兵を1人残らず殲滅すること。
最低だった。
「おい、どうした」
ザンティの声で智機は我に帰る。
「オレが、思っていたよりも最低な奴だと気づかされて衝撃を受けていた」
「平気で衛星落とせる奴が、最低ではないと思っていたのか」
ザンティの言うのも当然である。
「代行殿の症状も思ったより深刻だな。俺の部下なら命令するぞ。一発やってこい」
「女遊びから発想が抜けないんだ。このジジィは」
女遊びに狂っていたほうが戦闘狂よりもマシだというのだから笑えない。
「市長はオレに用があって連絡してきたのでは。からかうのが目的なら、これから市長に鉛弾をぶちこみに行くぞ」
迷走しているが、ザンティにしても目的があって通話をかけてきたのだろう。智機は本題に入ることにした。
「そうだったそうだった。代行殿が寝ていたら悪かったが、そうではなくて胸を撫でおろしている」
「喧嘩売ってる?」
他人の思惑に踊らされているのはいい気分ではない。
「退屈している代行殿に、いい話を持ってきた」
「いい話とは、どこかに殺りたい奴でもいるのか」
「いい加減に殺しから離れろ」
興味が沸いてきた。
「つい先ほど、部下からオンセン施設完成の報告が上がってきた」
「オンセン?」
「代行殿はフソウ系なのに、オンセンも知らぬのか?」
「オレがフソウ系なのは、拾ってくれたのが扶桑系だからだ。フソウ系全てが温泉好きだと思うな」
智機の人種が何系なのかは智機すら分かっていない。が、智機からすれば人種というのはラベルしかなく、気にした事なんてなかった。実際、智機の国籍はNEU、ということになっている。自覚なんてないが。
ただ、温泉についてはよく知っている。
「完成したオンセン。シュナードラのために一生懸命に戦ってくれた代行殿に感謝をということで一番風呂を浴びてもおうと思って声をかけてみた。寝るだけがリラクッスではあるまい」
ザンティの言にも一理あった。
ティーガーにも乗れるし、目の前に敵がいたら全力全開で戦えるとはいえ疲労が貯まっているのも事実だった。回復するための手段は寝るのが一番であるが、それ以外にも方法はある。例えばマッサージを受けるというのもありではある。
「じいさんから好意、素直に受け取っておく。ありがとう」
ザンティの思惑、というよりは邪気を感じなくもなかったが警戒よりも興味が上回った。今の智機は停滞している。停滞を打ち砕くには行動しかないが制約がある。その中ではザンティの提案が最適だろう。
「道順は代行殿の携帯に送信しておく。良かったら感想をくれ。じゃあな」
自覚症状がなかっただけで、実は智機も思考回路が鈍っていたのもしれない。
普段の智機なら気づいていたはずの、ザンティに問いただすべき項目がごっそりと抜け落ちていたことに。
ドアについている読み取り機にIDを当てると、ドアが自動的に開く。
入口は玄関になっていて、一段上がったフローリングの床と容積を多くとった下駄箱が、無言でここが下足厳禁であることを教えている。
智機はスニーカーを下駄箱に入れるとフローリングの上にあがる。
数歩行った先は脱衣場になっていて、暗証番号をダイヤルで設定するタイプのロッカーが大量に並んでいて、片側の壁には一列に大量の洗面台が並んでいる。
ロッカーの施錠方法をわざわざローテクな仕様にしているのは、電力を節約したいのだろう。
脱衣場の面積が広大なのも、たくさんの人々が来ることを想定しているからだろう。
風景は銭湯や温泉旅館の脱衣場そのものであるが、旅館とは違うのはひげ剃りやローションといったアメニティ類がないということである。
ただ、洗面台の傍らに大小のタオルが用意されている。
智機は手っ取り早く全裸になると、ロッカーに着衣を収めて暗証番号を設定してロックをかける。
そして、ロッカーの先にある大きな引き戸を開けた。
眼前に広がるは、まさしく温泉。
白いタイルと浴槽。灰色の天井と外観こそ殺風景であるが、浴槽の数と広さが半場ではない。それこそプールほどの広さがある浴槽が片手の指以上はある事実に、智機は感慨を抱かずにはいられなかった。
あのクソシジイ。本気だ。
ここがレクリエーション施設であること、多数の人々が利用することを差し引いても豪勢すぎるといえるが、要塞自体がザンティの資産を投げうって作られたものなので文句を言われる筋合いはない。そして、ザンティは非扶桑系ではあるが扶桑人以上に温泉に気合を入れていることが、視覚だけで伝わった。
智機は口元を歪める。
温泉では浴槽への飛び込みはご法度ではあるが、この温泉には智機しかいない。そして、掟というものは破るためにある。
ということで、飛び込んでみたのは良かったものの、瞬時にその決断を後悔することになった。
全身が滲みるように痛い。
その痛さで、脱兎のごとく浴槽を飛び出し、その原因を考える。
ザンティが実は智機を嫌っていてハメたというのでなければ結論は一つである。
この浴槽に張られた湯が酸性であるということ。
実際、他の浴槽に張られた湯はヒリヒリするほどではないことから智機は安堵する。
全部同じでいいのにも関わらず、ある浴槽はまろやか、ある浴槽は塩気がある、ある浴槽は硫黄の臭いがするなど浴槽ごとに泉質も違うという拘りようであった。
数分後、智機は浴槽の中に溶けていた。
疲れてはいないと思っていたけれど、温かい湯の中に浸かっていると硬くこわばっていた全身の筋肉がほぐされて柔らかくなっていくのを智機は実感する。
思惑を感じずにはいられない、とはいえザンティの誘いに智機は感謝していた。
疲れが湯船の中ににじみだし、溶けて消えていく。
ザンティがこれほどまでに温泉に情熱を注ぐのも理解できる。
湯船に全身をゆだねて、天井を見つめているだけで気分がとっても楽になる。
忘れてはいけないとは理解しているが、それらが頭の中から出ていって心を無にすることができる。
やはり、シュナードラはぬるい。
カマラにいた時はこんなにもリラックスできた事がなかった。
何よりも、プールサイズの浴槽がいくつも並ぶ広大な空間を独り占めできるというが最高である。営業を開始すれば傷を癒そうとする兵士や一般市民たちでごったがえすことになるのだろう。開業前の設備を独り占めてできるのは代行の特権というべきだろう。
智機は今、幸せなのだろうか。
幸せなのかも知れないが、幸せという単語がよぎると、いつものように否定したくなる。
光景がよぎる。
ズテンカから脱出して、ガルブレズに行く途中で起こった戦闘の記憶。
当時の行動は最適だったのかと自問自答。
見なかったことにしてやり過ごしたほうが後悔せずにすんだとはいえ、それは結果論。あの時は干渉せずにはいられなかった。
見方を変えればシュナードラ側によって細やかではあるが良い結果になったともいえる。有力なライダーを1人削ることができたので、クドネルの戦力が下がったのはいいことだ。
智機は首を横にふる。
その考え方はごまかして、自身の都合がいいように正当化しているだけ。
悔しさと後悔はあるが決まってしまったものは変えられない。よって、智機にできることは何もない。
ただ、耐えるのみ。
全てが思い出へと昇華される時まで。
「…クソが」
智機は壁のタイルを叩く。
気分が重たくなってきたので、智機は立ち上がると扉が目に入った。
脱衣場とは正反対の方向に位置する扉。
ここが温泉なら、その扉の意味は一つである。
ガルブレズは不幸明媚な場所なので、絶景が堪能できる露天風呂の場所には事欠かないが、リゾート施設ではなく要塞なので、露天風呂から敵兵に突入されて落城というのは笑い話にもならない。
このため、露天風呂とはいっても天井が耐爆シャッターで開閉されるだけであって展望はまったくない。ただ、岩盤むき出しな場所に湯船が設置されているだけである。
しかし、開け放たれた天井から外気が流れくるだけでも気分が全然違う。お湯に使って火照った身体に風がとても心地よい。
ただ、露天スペースに気になるところがあるのだが、うまく言語化することができない。
まあ、いいかとあっさりと諦めて智機は露天の湯船に浸かる。
湯船の温泉がいい感じに白濁しているのも、ザンティのこだわりなのだろう。
「あのおやじ、どれだけ温泉が好きなんだよ」
そう呟くが、その智機も温泉にはまりかけている。
やや熱めの湯船に浸かり、風を頬に受け、ただ青空と細くたなびている青空を見ているだけで気持ちがよくなってくる。
部屋にいた頃は、仕事ができないことにイライラしていたのに、温泉に浸かっているとガルブレズにいる人々が仕事に追われているいるのに自分は温泉を満喫している優越感に浸れているのだから、掌返しにもほどがある。
そんな感じでリラックスしていた智機であったが、その至福の時間も唐突に終わりを告げる。
何者かが露天スペースに入った、と感覚のセンサーに反応があった瞬間、湯船の底に潜水していた。
何がどうなっているのか、さっぱりわからない。
ただ、確実なのは智機独占のスペースに何者が入ってきて、この場所から去らないこと。
水中に潜ったということは、人間にとって必要な酸素の供給が絶たれたということで高温の中、活動限界を迎える前に決着をつけなければならないということ。
やきがまわった、と愚痴の一つ二つをこぼしたくなるが、問題は現状を打破することである。
幸いなことに濁り湯なので発見は難しい。
智機は湯の中を、ドアの方向へ泳ぎつつ感覚の感度を高めていく。
水の中なので、音は聞こえない。
ただ、殺気のようなものが一切感じられない。
智機としては、その誰かが立ち去ってくれることを祈っていたが、こういう時に限って立ち去ってくれない。こうなればひっそりと、湯船の端まで泳ぎ切ってしれっと起き上がって出ると、プランを考えた時、腹部に激痛が走った。
それをきっかけに均衡が崩れてしまい、智機は起き上がるしかなかった。
女の子の悲鳴が露天に響き渡る。
露天に立ち上がった勢いで戦闘態勢に移行しようとした智機であったが、風呂場の石にへたりこんだ人物を見て、動きが止まった。
「……どうして、智機さんがそこにいるんですか?」
ファリルだった。
お風呂に入ろうとしたら突然、湯船の中から野郎が現れて仁王立ち。
腰を抜かすに決まっている。
「ファリルこそ、どうしてそこにいる」
どう見ても智機が不審者で警察に突き出されて当然なのだが、そこは無視して押し通すことにした。ここは善悪よりも圧が強い奴が勝つ。
「どうしてって、ザンティさんに完成したばかりのスパに入りませんかと招待されたからです」
「オレもあのクソジジイに招待された」
話がつながらないように見えて、つながりはじめた。
ファリルも招待されたといっていたが、内湯に浸かっていた時はファリルの姿は見えなかった。
「ファリルはどこから入ってきた?」
ファリルは入ってきた方向を指差す。
その先にはドアがあるが、智機が内湯から入ってきたドアではない。智機が入ってきたドアはその位置からは反対側だ。
智機の頭の中である結論に達すると、噴火した。
「あのくそじじぃぃぃっっ!!」
「智機さん、どうしたんですか? 落ち着いてください」
「ファリルも招待されたと言っていたな」
温泉に入っていた時から感じていた違和感の正体がやっとつかめた。
「オレが招待されたのは男湯で、ファリルは女湯。でも露天は男女の区別がつけられていない混浴なんだよ!!」
露天の広さに関する違和感にも納得できる。座標でいうなら内湯と比較して、X軸の長さが不自然なほどに突出しているのが疑問であったが、露天が女湯との共用と考えればパズルのピースがぴたりとはまる。
迂闊だった。
シュナードラは君主制なのだから、智機よりも優先するべき人物がいる。ファリルは女性だから、シュナードラ1の功労者である智機に男湯使用の優先権が与えられていると考えるべきだった。いつもなら頭に入っていたのだが、今日に限ってはすっかり抜け落ちていた。
疲れていないとは思っていても、脳細胞は疲弊していたのだろう。
「これは施工ミスということでしょうか?」
「そうかもね」
その方が納得してくれるので話を合わせているが、智機はザンティが確信犯でやったと確信している。誰かが言っていたからだ。混浴は漢の浪漫である、と。
「あの……智機さん……」
珍しいことにファリルの目線がトゲトゲしい。
「どうした?」
ファリルは言い淀んでいる。
何か、見てはいけないものを見てしまったかのようである。頬がほんのりと赤いのも湯気に当てられているからではない。
ファリルの鋭い視線の先にあるのは……
智機はようやくそこで気づいた。
「智機さんはどうしてハダカなんですか!?」
恥ずかしい素振りを見せるでもなく、国鉄廣島の誰かのように堂々と裸体を、うら若き少女に晒しているのだから、変質者扱いされないほうがおかしい。
女の子に己の裸体を晒しているという現実にようやく気づいた智機であったが、ファリルの身体をサーチすると言い放った。
「ファリルはなんで水着を着ているんだよ!!」
ファリルは何故かスクール水着を着こんでいて、智機とは違って、見られたくない見せたくない部分をカバーしていた。
「スパに水着は当たり前です!! 智機さんみたいに裸でいるほうがおかしいです!!」
話がまた、噛み合わない。
「スパ、と言ったな」
「はい。スパといいました」
智機は齟齬の原因に思い当たった。
「ファリル。そこにあるタオルを投げてくれ」
ファリルが言われた通りに、湯船の縁に置いてあったタオルを投げてきたので受け取ると、湯船に沈みつつタオルを股間に当てる。湯の中にタオルを入れるのもご法度なのだが、この場合はいたし方ない。
「ファリル。この手の温浴施設には扶桑式と非扶桑式の二週類がある。スパには水着を来て入るのが非扶桑式。裸で風呂に入るのが扶桑式だ」
智機の説明を聞いて、明らかにカルチャーショックを受けていた。
「扶桑の方々は、本当に裸でお風呂に入るのですか?」
「信じられない?」
「智機さんですから」
智機は頭よりも大きな、ファリルの髪のお団子をわしゃわしゃしたくなったが我慢する。
「洗い場なんだけど、浴槽と一緒の空間になかった?」
「はい。湯船と洗い場が一緒にありました。それは疑問だと思いましたけれど」
「非扶桑式は浴槽と洗い場が完全に分割されているだろ?」
非扶桑での温泉は、プールの延長線上にあるので従って水着か必要であるが、扶桑の温泉は入浴の延長にあるので従って水着は必要ない。ただし、露天がプール形式になっているのは扶桑であっても水着着用の義務が生じる。
「世界って不思議なことだらけですね」
ようやく、ファリルも納得してくれたようだった。
そこを見計らって、智機はタオルで股間を隠しながら立ち上がった。
「智機さん」
「邪魔したな」
温泉は充分に堪能した。
ファリルが露天を満喫するには、裸である智機の存在は邪魔であり、話が落ちついたのきっかけにして立ち去ればうまくいくはずだった。
「待ってください」
ファリルが、その手を掴む。
「少し、お話しませんか?」
「紳士なオレでも?」
よりにもよって、全裸の男子と一緒では気持ちいい風呂も、気分よく入れない。
顔を俯かせ無言のファリルであったが、何かを決意したかのように顔を上げた。
「家族であれば、一緒にお風呂に入っても……かまわないんですよね」
「そうだけど、オレがファリルの家族?」
ファリルは赤面しながら上目遣いで言った。
「せめて…今だけは、かまいませんか?」
どうしてこうなった、
と智機は自問自答をするが答えはでない。答えがでないことは最初から分かっていたが、それでも繰り返さずにはいられなかった。
絶海の孤島にある露天風呂。
12歳ほどの美少女と肩を並べて、白濁とした湯に全身を浸からせている。
この状況に陥ってから何分が過ぎたのだろう。
長いのか短いのか分からない。
いずれにしても話しかけづらい沈黙が続いていて、智機は停滞した状況を打破しようと口を開けかけたが、それより早くファリルが爆弾を投げてきた。
「……わたし、魅力がないのでしょうか」
思わず、むせかけた。
「おまえ、それを演説でぬかしたら世界中の女どもにフルボッコにされるぞ」
豊かで夕日を浴びた川面のように輝いている蜂蜜色の髪。雪のように白くて透き通った肌。珊瑚礁のように蒼い瞳と絶妙のバランスでまとまった唇と鼻、そして頬。これほどのレベルにある美少女は滅多にいない。EFで例えるならティーガーといっても言い過ぎではない。その美少女が自身を魅力がないと言った日には世間の女性たちは間違いなく絶望するか激怒で立ち上がる。
「だって、わたし…胸がないですから」
そういうことであれば納得できる。
スクール水着に覆われた胸は膨らんでいるとはいえない。膨らみかけといえるのもしれないが水着の記事の厚さに吸収されてしまっている。
「いや、ファリルの歳で巨乳のほうが怖いだろ」
それに世の中には貧乳の方がいいという同僚がいる。
ファリルはすねるように智機を睨みつけた。
「だって、智機さんは「おっきいは正義」とおっしゃっていたではありませんか」
智機でさえ、忘れかけていたことをファリルはしっかりと覚えていた。
笑うしかない。
セシリアさんの胸、大きかったもんなー。
今でも脳裏に蘇る。擬音つきで。
「それに」
「それに?」
また無言。
ファリルは拗ねた目線である一点を見る。
その視線の先にあるのは。
「なあ、ファリル」
「なんでしょうか?」
黙っておくのが賢いが、智機としては言わずにはいられなかった。
「ファリルって、意外にスケベ?」
ファリルと一緒に風呂に入って、股間に多少の力が入ってはいるがアクセル全開で元気になっているとはいえない。
当然のことながら、智機は頭をボコスカ叩かれた。
心理というのは不思議なもので、指摘されると股間に力が無駄に入りまくるのを実感する。
心臓の回転数が上昇したのも、温泉に浸かっているせいではないだろう。
智機はどちらかといえば巨乳好きなことを自覚する。ファリルだからこそ冷静に見ていられるが、傍にいるのがセシリアなら、理性を保っていられないかもしれない。
智機のこれまでの人生は戦闘に継ぐ戦闘を生き残るのに必死で、性欲のことを顧みる余裕なんてなかった。いや、性欲の分を殺戮で発散していた。
智機がシュナードラに来る前に接していた女性たちの顔を思い浮かべる。
部下や上官など、接してきた女性は智機よりも年上。同世代の少女と接するのは久しいことであった。
ファリルは可愛い。
ものすごく可愛い。
性格も悪くはない。いや、悪人に騙されないか心配になるほどに良い子である。こんな子を彼女し、ゆくゆくは結婚をして夫婦になったら、それこそ幸福な人生が送れるのだろう。
…そう思った瞬間、心が冷えていく。
温泉に浸かっているはずなのに、氷海に放り込まれたように全身が冷えていく。
股間の熱さえも消え去る。
智機の変化を感じ取ったのだろう。
ファリルは智機を叩く手を止めた。
「…バカなことを言ってごめんなさい」
智機を不快にさせたと思ったのだろう。泣きそうになっているファリルを見て、鬼畜な智機でも罪悪感にかられた。完全にファリルに非がないことで彼女を傷つけてしまった。
「オレこそ悪い。すまん」
「……」
「なら、するか?」
「するかって、何をですか?」
「オレの股間のティーガーは、いつだって戦闘準備完了だ」
言葉の意味に気づくと、ファリルの顔面が再び真っ赤になる。
「えええええええ、しちゃうんですかんしちゃうんですか!?」
「ファリルが望むのなら」
ファリルは答えない。
答えられない。
そんなファリルに、智機はさわやかな笑顔で言い放った。
「冗談だ」
「智機さんのバカバカバカバカバカーーーーっっ!!」
智機は再びタコ殴りにされる。
「ファリルはすっごい可愛い子だ。ブスだなんて言おうものなら、世間の女どもからぶっ殺される」
「それでも智機さんは巨乳の女性が大好きなんですよね。貧乳は女性ではないんですよね」
どうして極端に走るかと思いつつも智機は言った。
「ファリルは…その妹みたいなものだから、手が出にくいんだよ」
その場を切り抜けられるためなら、平然と嘘がつける智機である。
「私は智機さんにとって妹…」
それだけでファリルはごまかされる、もとい納得してしまう。
「殺人鬼に妹と思われても、迷惑だろうけど」
「いえいえ!! 智機さんは問題がない……とはいえないですけど私たちを助けてくれたではないですか。それはその…うれしいです」
嘘はつけるけれど、ファリルのような妹がいてほしいと思う気持ちにも嘘はない。
智機はファリルの頭を撫でる。
髪越しに、ファリルの感触と温かさが伝わり、ファリルは嬉しそうにする。
「ほんとにファリルの髪って長いよな」
膝ぐらいに伸ばした髪でも、お団子にしてしまえばかなりコンパクトにまとめることができるのに、後頭部にもう一つ頭をつけたように髪のお団子が大きいのだから、その長さがうかがえる。
ファリルの顔が曇る。
「迷惑なのでしょうか?」
「なぜ?」
「この国家の非常時だというのに、不謹慎なような気がしまして」
申し訳なさそうにするファリルに智機はいう。
「好きだから、伸ばしているんだろ?」
「はい。大好きです」
ファリルは満面の笑顔で断言する。
髪を伸ばしてもあまり益はない。
伸ばした髪の量に比例してヘアケアが困難になるし、それだけ重量もかさむ。修行している訳でもないのにウェイトをつけているのだから無駄だ。
にも関わらず、そこまで伸ばしているのは髪を伸ばすことが大好きだからだ。伸ばすことに愛があるから、そこまで伸ばせるのだ。
「ファリルは切りたくないんだろ」
大して深く考えることもないのに、智機は真面目だった。
迷いながらもファリルは答える。
「はい…できれば、いや、本当は切りたくありません」
すると智機は心の底から莫迦にしているかのように言い放った。
「他人の都合で切りたくもない髪を切らされるのは不幸だ。ましてや、雰囲気に流されて髪を切るのははっきり言ってクソだ」
「そうなのですか?」
怒りさえも込められているのが意外であった。
「オレの姉さんがそうだった」
まともな両親がいたのであれば少年兵なんてやっていないのだから、智機の口から肉親の言葉が出たのは意外だった。
「姉さんといっても生みの母親ではない。オレが在籍していた職場の上司。美人で爆乳なのに頭を完全な坊主頭にしていた変な人だった」
それだけでも充分に変人である。
「仕事の時は鬼畜で外道なのに、プライベートではオレに甘えまくってた。人には見せられないっていうレベルで。いい歳しているくせに、どっちが年上なのか分からなかった。遊びに行く時なんかおかしかった」
「どんな感じでおかしかったんですか?」
「一緒に出かければいいのに、別々に出て、待ち合わせするんだけど、フリルとリボンでフル武装したドレスと超長い髪のヅラ付けて現れた。そんなに長い髪が好きなら伸ばせっていうのに。今は伸ばすのが簡単なんだから」
「それって、デートでは」
「坊主頭で軍服よりも、そちらの方が似合っていたし可愛かった」
「智機さんのお母さまは、誰に似ているんですか?」
智機は少し考えてから答えた。
「セシリアさんを、少しかっこよくした感じ?」
ファリルはセシリアをベースに色々と映像を浮かべて見る。
「すっごい美人さんじゃないですか!!」
「だから、坊主にしているのがもったいなかった。いや、坊主でも可愛かったが」
「智機さんにだけ、女性としての姿を見せたかったんですよ」
会ったことはないけれど、確信をもっていえる。
その姉は智機のことがとても大好きだったのだ。
「分かっている。でも、データを調べていた時に姉さんの若い時の写真を発見して、その時の姉さんの髪はファリルみたいに長かった」
そこまで伸ばしていた髪をバッサリと剃り落した。
女の命を捨てた。
智機が言う、大切にした髪を切り落とさざる不幸な要因があったのだろう。思えば西河もそうだった。
「智機さんのお姉様は、どうなされているのですか?」
何気ない問いであったが、ファリルは猛烈に後悔することになった。
「殺した」
随分と湯に長く浸かりすぎた。
智機は風呂から上がって着替えはしたものの、脱衣場から移動することができず、ベンチで身体を休めていた。
身体が重い。瞼も重い。
ようやく待ちに待っていた眠りの時がやってきたのだろう。欲求に逆らわずに瞼を閉じると、あっという間に智機は無意識の海の中へと沈んでいった。
気がつくと、いつだって空の中。
その身に風を受け、重力に押しつぶされながら光よりも早い速度で地面に叩きつけられる。
激痛という言葉でさえ生ぬるい衝撃が全身を襲い、智機の全身を心をばらばらにしていく。
完全に無になったのもつかのま、一瞬で智機の身体は空高く、成層圏の向こう側にまで浮上させられ、そこから砲弾のように高速で地面に叩きつけられる。
抵抗さえも悲鳴を上げることさえも許されず、衝撃が津波のように包み込む。
繰り返される死と再生。
そして、苦痛。
いくら意識が落ちようとも誰かが許してくれない。
何度でも智機は、空から叩き落とされる。
この苦痛はいつまで続く?
智機が終わるまで続く。
高度50km
いや、その十倍以上。
空がその蒼さを失い、本来の姿を表す世界。
すなわち高度500km以上の世界から地上へと突き落とされることを繰り返し続ける。
なら、自らの手で御給智機という一個の人生を終わらせる。
自殺禁止などというゴタクなど、そんなものは関係ない。この痛みを終わらせることができるのならそういう選択もありなのかもしれない。
そう思った時、聞きなれた声が風に混じって鼓膜を売った。
「智機さん!!」
ファリルの声。
なぜ、ファリルの声が聞こえたのかは不明だが、智機が地表に近づくのに連れてファリルの声が大きくなる、彼女の存在が近づいてくる。
彼女が手を伸ばしてきた。
その手を掴めば、智機は救われるのだろう。
高空、いや宇宙から地表へと投げつけられる衝撃を知覚することもなくなるのだろう。
普通の人間達のように、疲れたら安らかに眠れるのだろう。
でも、智機は救われてはいけない。
誰が許しても、自分が許しはしない。
手に走った鈍い衝撃で、智機は目覚める。
何か、硬い物の上に寝ているようだった。
真上には何故か、ファリルがいた。
何故か、その目が腫れている。
水滴のようなものが、智機の頬にぽつりぽつりと落ちる。
横に伸ばしたまま固まっているファリルの右腕。
その右手も何故か腫れている。
そして、ガードするように身体の前面に回した智機の左手。
何が起きたのか、智機が知覚するよりも先にファリルが泣きながら逃げてしまうほうが先だった。
一人取り残されて、智機は犯した罪の深さに愕然とする。
やらかした。
今すぐにでもファリルを追いかけるべきなのに、衝撃の重さに動けない。
自身の行為で相手を傷つけた事に罪悪感を覚えたのは、遥か大昔のことだった。昨日のも衝撃は衝撃であったが性質がかなり違う。
左手を見たまま、智機は固まっている。
「……聞こえていたのか」
あの夢の中で助けに来たのは、間違いなくファリル。
永遠に続く苦痛の世界のに、どうやってファリルが入り込めたのかは謎なのだが問題はそこではない。
助けようとしたファリルの手を拒絶ってしまった。
ファリルはまったく悪くない。
智機が完全に悪いが、かといって拒絶せずにはいられなかった。どれだけ痛もうが苦しもうが絶対に救われてはいけない。これが己に決めたルールだからだ。
優しさに溺れてはいけない。
溺れたら、御給智機の全てを否定する。
……気分は重いがいつまでも沈んではいられないので、智機は行動を開始する。
まずは服のポケットから端末を取り出した。
智機にひどいことをした。
「殺したって……」
「オレが離れていた時に、姉さんが率いていた艦隊丸ごと反乱した。色々あって、オレは鎮圧軍に加わることになって結局はオレが倒した」
その時、ファリルは言いかけてやめる。
姉の語る智機は淡々とはしていたが、端々に懐かしさや温かさようなものが感じられた。決して憎くて殺したわけではないのに感想を聞くのは、あまりにも心無いことのように思えた。ファリルも両親の死について感想を求められたら答えられない。それと同じことが智機にもいえるのではないのだろうか。
「あの人は馬鹿野郎だよ。姉さんの命令なら喜んで死んでやったというのに。分かっていたんだろうな。反乱が失敗に終わるということを」
「わかっていたので何故、反乱したのですか?」
「わざわざ坊主になった理由と同じだと思う。オレ以外はNEUに併合されたことを恨んでいた」
人には効率だけで生きているわけではない。
時には先に破滅しかないと分かっていても、突き進むこともある。
あの時の智機がそうだった。
ファリルが温泉から上がり、髪を乾かして服に着替えていると隣から不穏な物音がしていたので、急いで行ってみたら智機がうなされていた。
寝ているとは思えない暴れっぷりに、ファリルは思わず手を出した。
その手を掴めば智機は救われると思ったのに、智機はその手を振り払った。
なぜ、智機がそんなことをしたのかは分からない。
ただ、傷つけてしまった。
智機の踏み込まれたくない領域に土足で上がりこんでしまい、そこで智機を傷つけた。そのことがとても悲しくて反射的に走り出していた。
涙を流しながら。
脚の筋肉全体が石のように硬くなり、ファリルはへたりこむ。
吸入よりも消費が激しかったので、動きを止めるなり肺が全力で酸素を求める。
再起動するまでタイムラグを要する身体でファリルは思う。
"私は悪い子だ、と"
そんな悪い子はこれからどうすればいいのだろう。
気がつくとファリルは知らない場所にいた。
ガルブレズの要塞も広大ではあるが整備が行き届いている場所は限られている。薄暗い照明に照らされるパイプむき出しの天井が生々しくて不気味だった。
こんな悪い自分に生きている意味があるのかファリルは自己嫌悪に陥り、この暗がりの中にずっと生きていたいような気持ちになる。
その時だった。
不意に人の気配がしてファリルは固まる。
視線の先は闇。誰もいない。
完成したばかりなので幽霊の話は聞かないが現れてもおかしくはない雰囲気ではある。
「暗いから幽霊が現れるというベタな……」
ファリルは固まった。
気のせいかと思いかけた矢先に、目の前にそれは現れた。
赤いライダースーツにヘルメットを被った人物。
ファリル達と同世代のように小柄でライダースーツに浮き出た身体のラインが柔らかいことから女性であることしか分からないが、ファリルを恐怖させるには充分だった。
逃げようとしたが、腰から下の神経が断線してしまったかのように動けない。
声帯さえも破けてしまったかのように、意味のない悲鳴さえも上げられない。
その人物はしゃがんでファリルと目線を合わせる。
もっとも、バイザーが黒系なのでライダーの目は写らず、恐怖で凍結したファリルの顔が浮かび上がるだけ。
そのライダーはファリルの頭上に右手を差し伸べる。
風景が一瞬で変わる。
ファリルの眼前に写るのは空。
背中全体がシートのようなクッションの効いた物体に辺り、脚が空の方向に伸びては膝で降り曲がる。そして、脚にはペダルが当たる。
両の前腕の下に硬い物が当たっている。
視線をかろうじて動かすと、EFメーターモニタ。
モニタは一つ残らずブラックアウトしている。
ファリルは状況を理解する。
今、ファリルがいるのはEFのコクピット。
空を真正面に捉えて、脚も空方向に跳ね上がっているのはEFは寝た姿勢でいるからである。しかも、海風と空気がダイレクトに当たるのは、ハッチが丸ごとはがされてコクピットそのものが晒されているからである。
それを見つけると、ファリルの心は高鳴った。
フリエブルーに塗装された殴られるよりも殴るほうが骨折するに頑丈な装甲。両肩の巨大なコンテナパックと肘付近についた副腕。そして、蟹のハサミのように強大な右腕。
なぜ、ここにティーガーがいるのか分からない。
コクピットハッチが開いて、智機が現れたのも。
瞳が智機の姿を捉えた瞬間、心臓が一際激しく鼓動した。
下腹部の中央部が激しくうずいた。
だいすき。
想いが心臓から、下腹部から立ち上る。濁流のように全身の穴という穴からあふれ出す。その感情にファリルは流され溶かされながらも、ファリルという人格を保っていられるのは何処か違和感を覚えていた。
智機のことは嫌いではない。
むしろ、ファリルも智機のことが大好きだと改めて思う。
智機がいたからこそ、生きていられた。
首都から脱出する時、無数の敵軍相手に超絶技術を駆使して生き残ってみせた智機がかっこいいと思った。
大気圏外での戦いで、チクビームの圧倒的な光にティーガーが飲み込まれた時には絶望した。
なによりも両親が死んだ時、智機がそこにいて壊れかけたファリルを支えてくれた。
ぶっきらぼうで鬼畜でいぢわるだけど、与えてくれたぬくもりは今でもファリルを温めていてくれる。
だからこそ、苦しいのだ。
助けようと伸ばした手を拒絶されたのを。
智機を傷つけてしまったのかと。
嫌われてしまったのかと。
でも、胸からこみあげてくる気持ちは何かが違う。
違和感に悩んでいると、唇が勝手に開き、舌が動いて言葉を紡ぎだす。
あいたかった、おにいちゃん。
智機はファリルの兄的な存在ではあるけれど、肉体的な繋がりがない。
毎日のように会っているのだから会うのが初めて、いや、初めて出会えたという感動はない。
確信する。
これはファリルの感情ではない。ライダーの記憶。
圧倒される。
このライダーの正体は分からないが、そんなことが気にすらないぐらいに智機への想いに圧倒される。
この子は智機が大好きなのだ。
智機のことをずっとずっと待っていて、恋焦がれていた。
ようやく、その智機に出会えた。
ファリルも智機のことは好きだといえるけれど、このライダーよりも大きいかと問われたら自信がない。ここまでのレベルであれば嫉妬するのすら馬鹿らしくなって、祝福できてしまう。
きっとこれでいいのだと思った瞬間、腹部に激痛に走る。続けて頭に割れるほどの痛みが走るが悲鳴さえも上げられない。
思慕を浸食する恐怖にファリルは悟る。
死ぬのだと。
確実に、間違いなく死ぬのだ、と。
目前に差し迫った死にファリルはどうすることもできない。抗う事もできず、カウントがゼロになるのをひたすらに膨れ上がる恐怖と共に待つしかない。
聞こえていた。
誰かが「おにいちゃん、助けて」と叫ぶ声と。
そして、見た。
その時の智機を。
たくさんの愛情を向けられているにも関わらず智機はそっけなく流しているように見える。表情というものが感じられない様は人形のようで薄情に見えるが、ファリルはなんとなく違うと思った。
智機の声が風に乗って、ファリルの鼓膜に届いた。
腕を激しく揺さぶられて我に返ると、そこは要塞の通路。腕を掴んだ人物を見るとそれは謎のライダーではなく渋谷達哉だった。
「大丈夫かい?」
提督の優しい表情にファリルは危機が去ったことを悟る。
安心した瞬間、ファリルの両目から涙が滝のように溢れ出した。
「落ち着いたかい?」
「……落ち着きました」
正確にはまだ動揺しているが、まともな会話ができるぐらいには回復してきた。
ファリルがいるのは、渋谷の執務室。
お姫様抱っこで渋谷に運ばれてから、少し時間が経過したところである。
出されたココアの甘さが五臓六腑に染み渡って心地よい。
「ありがとうございます。迷惑をかけて申し訳すみません」
ファリル以上に忙しいのにも関わらず、助けてくれて時間も割いてくれた渋谷にファリルは感謝する。
「気にしないでいいよ。姫様への苦労は苦労とはいわないよ。そもそも悪いのは代行殿」
「???」
「だいぶ混乱していたみたいだけど、良かったらその訳を話してくれるかい?」
ファリルは俯く。
短時間のうちに様々なことが起きた。
智機なら、どんなに嫌なことがあっても涼しい顔でごまかせそうであるが、ファリルはそこまでの耐久力がないので胸の中にしまい込むということができない。
「僕にできる範囲なら、相談に乗ってあげるよ。それとも不安かな?」
「いえいえ。そんなことはありません」
大学を卒業して赴任してきたばかりの先生といった感じの渋谷には、心配を無くしてしまえる安心感がある。
ファリルの脳裏に軍機という言葉がよぎる。
軍事上秘密にしてはいけないまではないかと思ったが、渋谷は新米教師ではない。シュナードラ軍の参謀長なので、言ってはいけない機密はないといってもいい。むしろ、些細なことでも異常なことは報告しなければならない立場である。
渋谷ならきっと、満足の行く答えを出してくれる。
ファリルは口を開いた。
「それは大変だったね」
「…信じてもらえますか?」
口に出して整理して見ると荒唐無稽や妄想としか思えない内容であるが、渋谷は笑ったりはしなかった。
「信じるさ。姫様の言には否定できる根拠は何もない。ドリフトも物理的には証明できないものだからね」
科学的な思考というのは、一見荒唐無稽だからといって否定するのではなく、それが現実として起こる確率を検証することにある。
「まず、最初のライダーの話。姫様が見たのはレッズの記憶だと思う。
「あれがレッズ?」
見た感じ、ファリルの同世代にしか見えない。
「それを言うなら、どこかの代行殿も戦歴がおかしいしね」
伏せている意味がない。
島を襲撃したレッズはシュアードの体当たりによって吹き飛ばされた。
あの光景はそのライダーから見たティーガー。
「ティーガーのデータを解析したところ、怪しい点があった」
「どこが怪しかったんですか?」
「テレメトリーを見たところ、ティーガーはクドネルを脱出してからガルブレズに帰る途中で一戦していた。でも、代行殿がなぜかプロテクトをかけていたので詳細が分からなかった。これではっきりしたよ」
何故、智機が隠していたのかが痛いほど、よく分かる。
「レッズとは何者なのでしょうか?」
智機が実はレッズの知り合いだった。
この段階で智機が裏切るのであれば、ファリルと最初に会った時にクドネルに売っている。よって内通していると考えるのはバカバカしいことなのだが、その事であることないことを言いふらす輩はどこにでもいる。
「代行殿の知り合いである事は間違いないけれど、それ以上は本人に聞くしかない。むしろ、姫様のほうがよく分かっているのではないかと思う」
今でも思い出す。
ライダーが智機にかけている想いのことを思い出すと、嫉妬よりもなぜ、そこまで彼を愛せるのかと圧倒される。ファリルも智機のことは好きだけれど、彼女以上かと聞かれたら答えられない。仮に智機から告白されれば嬉しいというよりも彼女に申し訳なく思えてしまう。
その彼女はどうしているのだろう。
彼女はティーガーから現れた智機を見て歓喜したが、その後、全身を走る激痛で身体が動かなくなり、そのままブラックアウトした。
「ライダーさんはどうしたのですか?」
彼女が無事なのなら、ガルブレズに智機と一緒に現れていた。物陰でこそこそとファリルと出会ったりしない。
「ティーガーのテレメトリーには2種類のデータが観測されていた。装甲衝撃計とドリフト出力計、そのどれもが脱出から帰還までの間、一度だけ大きな波形を描いていた」
「それはどういう意味なのですか?」
背筋が凍り付いていく。
ファリルでも意味はわかる。
ただ、認めたくないだけで、否定される奇跡を期待していた。
「大規模な爆発があって、ティーガーがドリフトを使って防いだということだ。おそらくその爆発というのは、コアの自爆だろうね」
渋谷が目を閉じたのは、哀悼の意をこめてのことなのだろう。
「なぜ、コアが自爆を」
声が震える。
「機密保持。騎体もライダーも機密の塊のようだし、クドネルがむざむざと投降を許す組織だと思えない」
さっきから泣いてばかりだから、涙が尽きてもいいはずなのに目が熱くなる。
認めざるおえなかった。
レッズのライダーが、大好きな人を目の前にして自爆させられたということ。
数分後
「……本当に本当にすみません」
謝罪するファリルの前には、くしゃくしゃになったティッシュが幾重にもうずたかく積み上げられていた。そのどれもが涙と鼻水にまみれている。
「いや、いいんだよ。むしろ、泣いてくれたほうが彼女も嬉しいと思う」
渋谷に限らず、傭兵業界はあまりにも死が多すぎして多少のことでは動じなくなってしまっているので、ファリルのように号泣してしまうのは新鮮でもあり、人として忘れかけていた何かを思い出させてくれる。
「僕らは結局は他人だから、彼女のあんまりな死を嘆いていればいいんだけれど心配なのは代行殿、いや智機くんだ」
彼女が自爆する様は智機も目撃していた。
「智機さんは、彼女のことをご存じだったのでしょうか?」
「それはわからない。でも、あの時、智機が何を感じていたのかは姫様にも分かっているはずだ。あの時に姫様が見た智機くんは素だよ」
何も隠していない、素顔が晒される時があるとするならば、ライダーが自壊しようとしていた時に見せた顔が、智機の素なのだろう。
あの時の智機は感情や生気といったものが一切抜けて人間味が感じられなかった。精巧に模しているが人の形をした、ただの抜け殻。
でも、智機が実は感情のないアンドロイドのような、無感情冷血な機械であるとファリルは思わない。
ファリルは聞いていた。
人の声というよりは、葉と葉をこすり合わせたような雑音に近かったがはっきりと聞いた。
「……ごめん」
ファリルも謝罪をしたし聞いたこともあるが、これまでの人生の中で、あれほど悲しい謝罪を聞いたことなんてなかった。
かすかに感じ取れた怒りも。
ファリルは確信している。
「智機さんはなぜ、落ち着いていられるのですか?」
心の中では嵐が荒れ狂っているにも関わらず、涼しい顔で態度には一切出さない智機がファリルには信じられなかった。
「姫様も知っての通り、智機くんは数々の死線を生き抜いてきた。動揺することがあってもいちいち顔に出していたら指揮なんてできないからね」
指揮官が目の前のことに動揺していたら、部下にも伝染して戦闘継続が不可能になってしまうので、士気高揚のために熱くなることはあっても決して悲しみの色を出していけないというのはわかる。が、智機の場合は戦闘の回数があまりにも突出している。
悲しいことがあるたびに、いくど心を殺してきたのだろう。
智機は姉と呼んでいた人を殺したと言っていた。
その口調は淡々としていたけれど、端々にくやしさのようなものがにじんでいた。大切な人を殺すことになってつらいはずなのに、智機は表に出すことはない。
あまりにも多すぎたので慣れてしまった、壊れてしまったということなのだろうか。
「提督なら、智機さんはどんな人だと思います?」
「僕の人生の中で、あれほどお人好しな軍人を見たことがない」
信じられないことを聞いた。
勝利のためなら徹底して残忍になれる鬼畜が、実はお人好しとは思えない。渋谷が気でも狂ったのか、あるいは冗談でも言っているのかと思った。
反応を予想していたのだろう。渋谷は苦笑して肩をすくめた。
「智機くんはシュナードラの惨状に何の責任もない。ここまで追い込まれたのはシュナードラ国民全ての責任だ。それなのに、智機くんは全ての人間から憎まれてでも責務の全てをその身で負うつもりだ。報酬がティーガーであっても、そこまでの義理はない」
同じことをセシリアも言っていた。
クドネルの国民を全て死滅させる攻撃を智機がしても、それは智機個人の意思で行うのではなく、シュナードラの国民たちがよってたかってやらせるのだと。しかも、智機は不平を述べるでもなく極自然に、当たり前であるかのようにその立場を受け入れていた。
全ての人間から憎まれてもかまわない。
「偽悪家というべきか一種の厨二病とでも言うべきなんだろうけれど、智機くんは自身が傷ついていることに気づいていない。あるいは痛くても無視しているか。でも、いつかは……」
その先は言わなくてもわかる。
痛みがあってもなくてもダメージは確実に蓄積している。許容範囲を越えたら崩壊する。
「以前、僕は彼に言ったことがある「自身を少しでも大切にしたらどうだ」と。でも、聞いていないだろうな。あの子は間違いなく他人のために、自身を壊すつもりでいる」
提督が智機をお人好しと評したのが、狂っているわけでも冗談でもないことが理解できる。
自身を崩壊させても、他人を優先させる。
感謝どころから憎まれるのに、それでもいいと言っている。
あまりにも自己犠牲心が強すぎる。
これのどこが、お人好しではないといえるのだろう。
「とっても危険なお人好しですよね」
「間違っても政治家にしてはいけないタイプだ。国民全てが地獄をみることになる」
平気で自分を犠牲にできる独裁者の怖さは、客観的には間違っている政策であっても、自身が正しいと信じたらブレーキが効かずに突っ走ってしまうことである。こういう人間に治められた国は大抵が焼野原と化している。
「どうして、智機さんはそこまで…」
「ここで第二の質問に答えよう」
ファリルは緊張する。
実はファリルが飛び出した件、つまり智機の世界を覗いてしまったことについて詳細に説明していない。隣がうるさかったので、行ってみたら智機がうなされていたので手を伸ばしたら、という具合に内面には踏みこまない説明をしている。
「最初の件に関しては、あれは智機くんが完全に悪い。でも、理由がまったくないわけでもない。智機くんは救われたくないんだ」
しかし、渋谷は一部を削った説明にも関わらず理解できているようである。
「あれほど、痛がっていたのに。ですか?」
人間というか痛みに耐えられる生物などいない。発生したら除去しようとするのが普通である。にも関わらず、智機は痛みから逃れることを拒絶するのがファリルには信じられない。
「複雑そうにみえるが、実はシンプルな話だ」
渋谷は言う。
「智機くんは過去に大好きな人がいたけれど殺してしまった、あるいは裏切ってしまった。その人を苦しめたというのに自分だけが幸せになることができない。だから、智機くんは姫様を拒絶した」
それならば、自己犠牲したがる気持ちもわかる。
「よく分かりますね」
「僕は長年傭兵やっているからね。色々なライダーたちと付き合ってきたから、ある程度傾向が見えるんだ」
見た目は若々しいのに実年齢はいくつなのかと気になるところではあるが、聞いてはいけないのだろう。
根拠といえる根拠が、渋谷の経験がもたらす読みしかないのであるが、その解釈で妥当なような気がした。それが傷つかないからだろう。
智機は誰に対して罪の意識を抱いているだろう?
殺してきた人間に対して罪悪感を抱くような人間が、殺傷数をスコアと言い放つはずがない。
智機は姉を殺したことを後悔しているのかと思えたが、ファリルは否定する。くやしさはにじませてはいたものの懐かしいように語れたからだ。思い出に昇華できるということは何らかの決着がつけられた事に他ならない。
智機が全てを語っているわけでもなければ、ファリルが見ているのは表層の一部でしかない。他人には語れないことや決着がついていないことが、涼しい顔に隠された奥底に滞留しているのだろう。ちょっとした弾みで吹き出しかねないマグマとして。
「姫様としては、智機くんに何を望む? 前非を悔い改めることでも望む?」
問題は過去ではない。未来である。
智機は罪人である。死んだら間違いなく地獄に落ちる。
本来なら、彼が今まで殺した人々に対する謝罪をするべきなのだろう。
ファリルは首をそっと横に振る。
「幸せになってほしいです」
殺人鬼かも知れないが、それでも幸せになってほしかった。
あまりにも苦痛に満ちた人生を送っているのだから、解放されてほしかった。
それは智機の眼前で自爆させられたライダーも同じ想いだろう。
「でも、智機さんは救われることを望んでいないんですよね」
だからといって、智機が拒否している以上はアプローチのしようがない。
「姫様は智機くんのことをどう思っている?」
「どう思っているといいますと?」
「端的にいえば好きか嫌いか、ということ」
ファリルは少し考える。
目を閉じるとこれまでの光景が蘇る。
最初に出会った時、智機に向かって、殺してくれと懇願した。
それから、無理やりEFのコクピットの中に詰め込まれ、戦場の業火の中を生き延びてきた。
怖かったけれど、ファリルを気遣ってほとんどドリフトを使わずに切り抜ける姿はかっこよかったし、両親を失っても傍が智機がいたから救われた。
そして、いなくなったと思った絶望と歓喜。
「……だいすきです」
だから、好きでいよう。
いなくなってしまった、あの子の分まで。
この時の渋谷は意地がいいとはいえない。
「家族としての好き? それとも処女を捧げても?」
「それは…」
顔が真っ赤になる。
あのライダーなら、迷うこともないのだろう。
「智機くんは極悪人だ。それでもいいのかい?」
「例え極悪人であっても、家族なら支えるものだと思います」
渋谷は一本取られたという表情をしてから、次に悪人顔で言い放った。
「奴の都合など知ったことか。姫様は姫様の幸せを貫けばいい」
智機を踏みにじってまでも自身の幸せを優先しろという、渋谷の言い草にファリルは唖然とする。
「いいのでしょうか?」
「幸せには二つの形がある。姫様には分かるかな?」
渋谷が問いかける。
「いえ」
「一つは問題が解決した時。下品な例えになるけれど、大が出ると幸福感を覚えるだろ。特に便秘だった時には」
下品だけれど、それならわかりやすい。
「もう一つはご飯を食べた時。これが幸せの原点だけど、実はここに落とし穴がある」
「どんな落とし穴ですか?」
「何かを食べるということは、何かを犠牲にすること」
「牛さんとか豚さんとか確かに食べます。でも、植物は?」
「植物が生きていないなんて、誰が決めつけた?」
その問いにファリルは答えられない。
「植物は動かないし、自身が食べられても悲鳴すら上げないけど光合成という形で呼吸はするし、成長しては枯れる。植物も一種の生き物だ。だから、菜食主義といっても根菜を食べないという宗派もあるが、何かの存在を我々の栄養として吸収することには代わりない。つまり、僕が言いたいことは全人類を幸福にすることはできない。利害と利害が対立して、勝者が敗者の全てを手に入れる。僕や智機くんは決着させる最終手段として存在している」
求めるものを求めるものだけあげて抗争を避けることもあるが、自身の命が欲しいというのであれば捧げられない。生きるためには抵抗するしかないのだ。
「姫様の幸せと智機くんの幸せ、対立して妥協点が見いだせないのであれば戦って勝つしかない。幸いなことに智機くんは勝つことを放棄しているのだから、それに付けこむべきだ。彼は大勢の人々を蹂躙してきたのだから、姫様に蹂躙されるべきだ。違うかい?」
答えられない。
提督の言は正しいように聞こえるが、騙されているような気にもなる。
「智機くんをそのまま放置していてもいいけれど、姫様も気分はよくないと思う」
好きの形は色々だが、このまま放置して行けば智機は傷の重さに耐えかねて崩壊する。そうなってしまえばファリルは間違いなく後悔する。
「智機くんは不幸なままでいいのかも知れないけれど、周りが許せない。僕も姫様も、バビ・ヤールの将兵たちやシャフリスタン提督も智機くんが不幸であることを望んでいない。前に進む必要があるんだ」
彼女も智機が幸せになることを望んでいただろう。
ファリルは腹をくくった。
「……わたし、悪い子になったような気がします」
「大丈夫。姫様は聖人ですよ」
ファリルとしては取り柄なんて何もないけれど、無能だからといって幸せになっていけないということはない。
ファリルにとっての幸せとは、周囲の人々。
マリアや渋谷、ディバインにヒューザー、セシリアにザンティ、そして智機といった人々が最後まで笑顔で生きてくれることに他ならない。
「あの、提督。質問があります」
それはファリルにも言える。
「クドネル軍は、私の身柄と引き換えなら降伏を許してくれると思いますが、提督はどう思いますか?」
「クドネル軍以前に僕が許さない」
王族というのは国を支配する以上、国のために尽くさなければいけない。自分自身を捧げれば国民全てが救われるのであれば捧げなければならない。怖くても自由意志はない。
でも、ファリルが智機の幸せを願っているように、ファリルの周りにいる人たちもファリルの幸せを願っている。その人たちの想いを踏みにじるわけにはいかない。まだ、追い詰められてはいないのだから。
ファリルは渋谷に一礼をした。
「提督。相談に乗っていただきありがとうございました。この御恩はどのように返したら…」
「かまいませんよ。これも契約のうちですから」
当然とはいえ苦笑するしかない。
「では、お時間を作ってもらえませんか? 智機さんを引き留める時間を」
「それなら問題ありません。僕も代行殿にお聞きしたいことがありますので」
提督は人の悪い笑みを浮かべた。
「なにを企んでいるのですか? 姫様」
「それは…まあ、その色々です」
「ならば、代行殿攻略法を教えてあげますよ」
「あるのですか!?」
ファリルが去ってから数分後、入れ替わるように執務室に入ってきたのは智機だった。
「姫様の件ですが、僕がフォローした。代行殿は何の憂いもなく戦えますよ」
「ありがとうございます」
さしもの智機も一礼をする。
ただし話は、そこで終わりではない。
「なぜ、僕にレッズと接触した事を報告しなかった」
渋谷は厳しいが、智機が悪びれることもなかった。
「しなかったわけではない。タイミングを計っていただけ。こんなこと、大っぴらに話せることではない」
機密条項を話せるのは極僅かな人間に限られているので、智機の言にも説得力がある。
渋谷は言った。
「流石に言えないか。レッズが代行殿の妹なのは」
「オレに妹がいたなんて初めて聞く話なんだけど、提督はレッズの正体をどう見る?」
「昔、ある実験があった。人の体内にコアを埋め込んで効能を確認する実験。その結果、EFと同じような特別な能力を発揮することが確認された。その数少ない研究対象の生き残りが代行殿で、その代行殿のクローンがレッズ。僕はそう見た」
沈黙は、智機の溜息で破られる。
「あのクソババア。殺したはずだったのに生きてやがった」
その表情が、渋谷の推論が正しいことを物語っていた。
「その代行殿の能力は?」
「提督はどんな能力だと思う?」
「聞いているのは僕だぞ」と言いながらも渋谷は答えた。
「ハモンド女史は数100Gにも耐えられる代行殿のいい加減さに怒っていたから、重力加速度への耐性だとみたが」
「70点。
今度は渋谷が溜息をつく番だった。
「……その能力を得るために、どれだけの苦労を強いられた?」
「ぜんぜん苦労はしなかった」
「なら、姫様が代行殿の惨状を見て泣くこともなかったのではないのか?」
再度の沈黙。
「姫様に過去を見られた」
この時の智機は苦々しいものだった。
「姫様の異能か」
「思ったよりも事態が悪く進んでいる。黙っておくのは難しそうだ」
「どのような過去を見せたんだ。代行殿は」
智機は考え込む。
明らかに言いたくなさそうであったが、渋谷にしては珍しく眼光が厳しく、沈黙もごまかしも効かない空気であった。いくら智機であっても、この手の駆け引きは渋谷に負ける。心底を見透かしている相手に嘘をつくほどバカバカしいことはない。
「色々なもの。エアコンやジェネレーター、エアカーやEFに至るまで耐用テストを繰り返すだろ」
「それは繰り返すだろうね」
「SRSの耐久性を計るため、何度も耐用実験を繰り返された。このオレの身体で。その意味が分かるか? 提督」
珍しい光景であった。
「SRSを搭載した奴らはオレを含めて数百人もいたが、生き残ったのはオレだけだった。完成したことを確認すると奴らはSRSの耐用性を確かめるためにオレで耐用実験を繰り返した。何十回もいや、何千回も生身で大気圏外から地上に叩き落とされた」
渋谷が露骨なまでに唖然としていた。
驚愕を隠せていなかった。
「フラッシュバックをしているのか?」
「寝るのは嫌いだ。寝るたびに大気圏外から地上に叩き落とされる。提督にはわかるか? 100km以上の高さから落とされる痛みが」
「そんなの分かるわけないだろ」
「分かるといったらぶん殴っていた」
その高さから落とされて生き残れるのが智機だけなのだから理解できるわけがない。VRで痛覚を再現できる可能性がないわけでもないが、間違いなく被験者の精神が破壊される。
「…医者にいけ」
「そんなの今更言われても無理だ」
智機が行くべきなのは戦場ではなく精神科なのだが、聞き入れないのは言うまでもない。
渋谷は智機を見る。
他人は決して共有することができない激痛を、その身で絶え間なく体験してきた。身体は耐えられるのかもしれないが精神は別。壊れないほうがおかしく、異常をきたさなければ生きていけない。
渋谷の目の前にいるのは一見すると普通の少年だが、その中身は人間の姿をした化物だ。まだ、人間としての姿を保っていられるが、かろうじてである。
その一方で、こんな化物を愛していた人々もたくさんいた。いや、今もいる。
「姫様によれば、あのライダーは代行殿を愛していたそうだ」
「バカな子だ。憎んでくれたほうがどれだけマシだったか」
「大丈夫か。智機は」
「平気だ」
提督は露骨に智機を白眼視する。
その視線に、智機はやれやれといった具合に溜息をついた。
「腹が立つに決まっているだろ。いつもいつも大切な人々が、想っていたくれた人たちが目の前で死んでいく」
「その人たちを守るために、君は強くなりたいと願ったんだろ」
その想いが残っているからこそ、御給智機という人物を応援することができる。
「その通りなんだけどさ……」
智機は言いかけて止めると、右手を見つめて伸ばしたり広げたりといった行動を続けた。
考えがまとまったのか、智機は行動をやめた。
「提督はどちらがいいと思う?」
「どちらが」
「自分を愛おしく想っていた子が、目の前で爆死させられるのを見せつけられるのと、大切な人をこの手でぶっ殺すのとどちらがいいんだ? いや、あの子はまだマシだ。多分、残りのレッズどもも、この手で殺すことになる」
智機はありとあらゆる人間を殺してきた。
憎い人間も、愛していた人間も。
しかも、その憤りや悲しみも露わにしてはならなかった。
慣れたら楽になるのかも知れないが、その時は智機も終わる。
いくら渋谷でも、智機の年代でここまで深い重圧を受けたことはない。いや、智機ぐらいなものだろう。渋谷は鍵を取り出すと鍵のかかっていたキャビネットを開けた。
そこからウィスキーのボトルと、グラスを二つ取り出すと琥珀色の液体をグラスに注いだ。
「悪い大人だな」
「聖人だと思っていたのかい?」
「そういや、あんたはただの変態だった」
「幼女愛は正義だ」
「やっぱり変態だ」
「それはさておき、愚痴でもこぼさないと壊れるし、僕の前でも言えないのかい?」
渋谷は、この戦いに置いては智機の目上なので安心して愚痴をこぼせるというものである。
「代行殿。乾杯の前にまずは祈ろう」
「余裕があるうちに、か」
渋谷と智機はグラスを、中身が入ったグラスを手に取ると高く掲げて、グラスとグラスを無言で打ち鳴らした。
提督の執務室から出ると、智機の携帯から着信音がなり、手に取ると携帯がメールを受信していた。
智機が歩みを止めたのはメールの発信主がファリルなのはともかく、タイトルが勅命と書かれているのが尋常ではなかったからである。
智機は去り際に、渋谷からの言葉を思い出す。
「今回は代行殿が僕に貸しを作ったわけだが、その貸しは姫様に譲渡したから借りを返す相手は僕ではなく姫様だ」
提督とファリルと結託しているのだろうか。
勅命と書かれているからには智機に選択の自由がない。その内容、指定された場所に向かうしかなかった。
智機が向かった先はある住居スペース。
インターホンを推すとチャイムの直後にマリアが出た。
「御給智機です。入ります」
智機が答えるとドアが自動で開いたので、中に入る。
玄関になっていて、履物を脱ぐと更に歩みを進める。
この居住スペースは、単身者向けのベット兼リビングスペースにユニットバスがついたものではなく、一家族が住むために部屋が複数あるなど、広大なスペースがあることに智機は気づいた。
そして、システムキッチンと一体になっている広いリビングでファリルが、マリアを付き従え仁王立ちで智機を待っていた。
「公王代行騎士、御給智機。そなたに勅を命じます」
ファリルが全力を込めて待ち構えていたので、智機も真面目にひざまづくとファリルも最初の勢いのままに命じた。
「御給智機。契約期間のうちは私と、家族として暮らしなさい」
智機は最初のうち、ファリルが何を言っているのか分からなかった。
「家族、ですか?」
「そうです。今日から私とマリア、智機さんは家族です。智機さんも私たちを愛してください。私たちも智機さんを全力で愛します」
「代行殿の荷物は、全てこちらに移動してあります」
マリアが補足を入れる。
渋谷が別れ際になぜ、あのような事を言ったのか智機は理解した。
ありとあらゆる面で、智機の退路を断つためである。
智機の権威はファリルのを借りている以上、ファリルの命令に逆らうことができない。勅という重たい言葉を使っている割には、というのはあるが。
この騒動は智機が原因である事に加えて、関係修復に尽力してくれた渋谷の面子を潰すことができない。ありとあらゆる点で、がんじがらめに縛られている。
「陛下。某は薄汚れた殺人鬼です。そのような者を家族として認めてもよろしいのですか」
「その殺人鬼の力によって私は助けられました。貴方の行為に私は公王として報いなければなりません……」
公王ぶるのも限界に達したのか、ファリルは体当たりする勢いで智機に抱きついた。
「だから、死なないでください。貴方が苦しむ姿を見るとわたしも苦しいのです、だから、だから……」
涙こそ流しはしなかったものの、ファリルは智機を抱く力に渾身の力をこめた。
「わたしを置いていかないでください……おにいちゃん」
こまったな。
智機としては笑うしかない。
無理にふりほどけるのかも知れないが、そんなことはできない。ファリルが公王ではない、ただの女の子であったとしても。
……マリアの眼差しが厳しいのは気のせいではないが、智機は無視することに決める。
智機はファリルの頭を撫でた。
蜂蜜色の柔らかい髪の感触がとても心地よい。
「了解した。よろしく、といってもいいのか」
「はい。よろしくおねがいします」
ファリルの満面の笑みがとっても素敵で、智機としては直視しづらくすごく照れ臭かった。
だから。
「でも、やっぱり胸ないな。お前」
照れくささに耐えきれずにセクハラ発言してしまうわけで。
「智機さんのバカ!!」
そして、脚を強く踏まれたり、背後から強く殴られるわけで。
しばらくの間、渋谷は虚空を見つめていたがやがて、机の引き出しを開けた。
「お元気ですか? 提督」
その中にあるものに向かって、渋谷は語りかける。
「貴方の息子さん、いや弟さんは成長しています。兵士としては充分に一人前でしょう。ですが、人物としてはまだまだです。我々にような大人や友達が見守ってあげるべきでしょう」
軽くメートル単位の長さがあって、塔から梯子代わりに下せるぐらいに太い、三つ編みに編まれた髪束が引き出しの中にあって、その髪の持ち主から切り離されてもなお艶めかしく輝いていた。
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