第8話

 春はあけぼの、なんて謳ってるいる間も無く、緊急出動させられる丘頭警部。まだまだ三寒四温の抜けきらない浅草。道路には腹部から血を流し、包丁が刺さったままの男性が1人横たわっている。かなり深くまで差し込まれているようだ。被害者の両手は凶器を確り握ったまま硬直している。背広が乱れ争ったようだ。顔や手にも傷が見えるし、爪には相手の皮膚片が挟まっていた。

死亡時刻は夜の8時半から9時半というのが鑑識の見立てだ。

昨日は夕方から小雨が降り続き舗装道路は一面濡れて、下足痕なんかは消されている。被害者はサラリーマン風だが鞄や財布といった持ち物は、奪われたのか何もない。ただ尻ポケットに刺さる定期券入れに、運転免許証と名刺が入ったまま。犯人は素性を隠そうとはしなかったようだ。

 物取りがここまで深く刺す必要はない。怨恨だと鞄や財布を持ってゆく理由はない。捜査の混乱が目的でやったか?と警部は呟く。

まだ25歳になったばかりで可哀想に。

そう思いながら被害者の住むマンションの5階9号室を目指す。

 ドアを開けて驚いた。ここまで荒らすか。と言いたくなるほど、物が散乱している。何処から何を出したのか、さっぱり分からない。足の踏み場もない。

 犯人の殺害した目的は、被害者が持っているだろう何かを奪うことのようだ。

共に行動している佐藤刑事に呟く。

 奥の部屋には机とタンス。見事にひっくり返されている。写真たてのガラスが飛び散り、窓下に転がっている。おそらく彼女とのツーショット。

どっかで見たような、と考える警部。

「おい、佐藤、この顔見たことないか」佐藤刑事に写真に写っている女性の顔を指差す。

首を横にふる佐藤刑事。思い出せず、天を仰ぐ警部。

 現場は、台東区の鶯谷駅から徒歩10分くらいの10階建マンション。

10時近くなり、腹減ったなあと口にした時

「あ〜」といきなりデカすぎる警部の叫び。

「あの娘だ!ラーメン屋のねえちゃん・・名前分からん。行くぞ。佐藤!」

相手も見ずに走り出す。


10分後ひさご通りの「よってこ」と書かれた看板のあるラーメン屋の前にきた。準備中になっているが、玄関を開ける。

「すみませ〜ん。11時開店ですう」と可愛らしい女の子の声。

現場から持ってきたガラスの割れた、写真立てを見せる。

「これ、あんたでしょ?」

「はい、そうですけど」不審な顔を隠さない。

「あっ、私、丘頭警部です。岡引さんとこで何回かラーメン食べた」

「あ〜思い出しました。で、どうしたんですか?」

「驚かないでね。落ち着いて聞いて」

「はい・・」

「彼氏の名前、滝上真二さん。この写真のひとね」

「はい・・」十和の声が小さくなる。

「昨夜、亡くなったの」

「えっ?どういう事ですか?だって、昨夜電話で話したのに?」すっと血の気が引いて青ざめる十和。

「何時頃?」

「8時前、これから帰るって」

「あ〜、昨夜8時半から9時半ころ殺されて、今朝、遺体が発見されたんです・・」

「なにいっ!」大きな声で叫んだのは大将。

「ヒッ」小さく悲鳴を上げて、へなへなと座り込み、両手で顔を隠し俯いて肩を震わせ泣く十和。

 警部は大将に断って、十和の肩を抱いて岡引探偵事務所に連れて行く。

十和は俯いたまま、警部に寄りかかるように力無く、足を引きずるように店を出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る