第五章(1)
天井の鏡にせっかくセットした髪を幽霊のように乱し、ワンピースの裾を太ももまでめくれさせたしどけない姿のわたしが映っている。
男の子は趣味の悪い赤いソファーに腰掛け、ガラステーブルの上の灰皿にちょんちょんと灰を落としながら、もう十分以上ラッキーストライクを吸い続けていた。
わたしが見ている限り、三本は立て続けに吸っている。未成年の喫煙を咎められるほど偉い立場じゃないけれど、さすがに吸い過ぎだと思う。
「酔いつぶれた女の子に手ぇ出すなんて最低なことしないよ。だいたいそんな状態じゃ家、帰れないだろ。今日はおとなしく泊まっていったほうがいい」
男の子に言われ、結局わたしは「パパ」と入りかけたホテルに泊まることになった。宿泊は一万二千円、フロントで前払い。
決して安い金額じゃないはずなのに、さっとグッチの財布を出してお札を三枚取り出すあたり、この男の子も決して只者ではないのだと思う。
突然、胃の内容物が逆流し、喉の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。急いでまだだるい身体を起こした。大丈夫? と男の子が聞いた。
「気持ち悪い」
「吐きそう」
「待って。今トイレまで連れてってやるから」
男の子は決して軽くないわたしの身体を易々とトイレまで運び、背中をさすってくれた。吐くところをさっき知り合ったばかりの男の子に見られるのは嫌だったけれど、吐き気の催すまま、吐けるだけ吐いた。最後は何も吐くものがなくなり、黄色く泡立った胃液しか出てこなかった。
「お前、あいつと酒飲んだの?」
「飲んだ」
「どれくらい」
「覚えてない」
「たぶん、薬盛られてるぞ」
真剣な顔で、ものすごく恐ろしいことを言った。
「いるんだよ、女の子の酒にこっそり薬混ぜて悪酔いさせるやつ。酔ったところをホテルへ連れ込んで、後は好き放題。当然、金なんかろくに渡さないぜ」
吐いたもので苦みが広がる口の中に、別のもっとひどい味がふくらんでいった。
洗面所で口をゆすぎ、再びベッドに横になる。男の子が水を持ってきてくれる。それを飲んだ後、大変なことを思い出した。
「どうしよう。家に連絡しなきゃ」
「家?」
「お父さん、きっと心配してる」
「男と平気で酒飲む割には、ずいぶんお嬢様なんだな」
男の子は呆れたように言って、テレビの横に転がしたわたしのバッグを取ってきてくれた。
案の定、お父さんから十通以上メッセが来ていた。『今どこにいますか』『連絡ください』『迎えに行くので連絡ください』『早く連絡ください』『連絡ください』――シンプルな文字の羅列を見ていたら、思わず泣きだしたい気分になっていた。
娘が自業自得としか言えないような最悪の夜を過ごしていると知ったら、この人はなんと思うだろう。『連絡遅れてごめんなさい。体調を崩してしまいました。熱が高くて電車に乗れないので、今日は友だちの家に泊まります』――
悲しいほどすらすら出てくる嘘を返した後、はぁとため息が漏れた。男の子はそんなわたしをじっと見つめながら、眉をひそめて言った。
「お前、名前は?」
「いつき」
「そうじゃなくて、ほんとの名前」
困ったことに、この子にはすべて見抜かれているようだった。わたしがまだ女子高生だということも、パパ活をしていてあんな目に遭ったんだということも。
「佐久間澪」
「歳は?」
「……高二」
「おっ、タメじゃん。俺は坪井邦也、高二。渋谷にある、赤星学園って知ってる? そこ行ってるんだ」
「……すごい」
赤星学園っていったら、聖マリアと同じくらい歴史が古く、聖マリア以上に人気の高い中高一貫性の男子校で、名門大学に毎年百名以上の生徒を送り出すぴかいちの進学校だ。
小学校の時塾に通わされていた頃、赤星学園を受ける男の子も周りに何人かいた。ほとんどが落ちて、滑り止めに通うことになったけれど。
「赤星学園っていったら、結構お坊ちゃまだよね?」
「別にそんなことねぇよ。親は普通の会社員」
「深夜に出かけてて、親はなんとも言わないの?」
「オヤジは他に愛人がいて家のことになんて興味ねぇし、オフクロは弟のお受験に無我夢中で、俺のことなんかどうでもいいって感じだから。なんとかしてきょうだい揃って、赤星に入れたいんだってさ」
「……うちと、ちょっと似てるかも」
今も帰りが遅いわたしのことなんてろくに心配しないで、真緒を叱り飛ばすことに一生懸命なお母さんの顔を思い浮かべた。どんな学校に入るかでその後の人生が決まってしまうわけじゃないのに、なんで親は子どものお受験に人生を賭けるほどの熱を入れてしまうんだろう。
「マジで? 澪はどこの高校?」
「聖マリア」
「めっちゃお嬢さん学校じゃん。そんなお嬢さんが、なんでパパ活なんてしてるわけ?」
「……なんでパパ活してるってわかったの」
無駄な抵抗だとわかって、聞く。
「そりゃわかるよ、無理やり年より上に見られるように化粧した顔とか、髪とか、服の感じで。俺はそれなりに女知ってるから、オヤジに警戒させないように、夜に出歩いてても大人に見とがめられないように、武装してる女子高生はすぐ気づくぜ」
「さっき、無理やりホテルに連れ込まれそうになってるのも、わかった?」
「すぐにね。顔があからさまに嫌そうだったし、一目で酔ってるってわかったし。どうだろ? 俺の機転、すごくなかった?」
「……改めて、本当にありがとう」
邦也くんが現れなかったら、今頃わたしはあの「パパ」にあんなことやらこんなことやらをされて地獄に落ちるほどひどい目に遭っていたんだ。
沙智子といい邦也くんといい、わたしはどうもピンチに陥った時に見知らぬ誰かが手を差し伸べてくれる運命に恵まれているらしい。神様の存在には懐疑的だけど、毎日学校でお祈りをしているから主はわたしを見捨てないのか。
「お前さ、パパ活やるなら、もっと考えてやれよ。最後までお付き合いするのは嫌なんだろ? だったら自分の身は、ちゃんと自分で守らなきゃ」
「それは、ほんと反省してます」
思わず敬語になっていた。邦也くんは相変わらずラッキーストライクの紫煙を吐き出していた。
「あいつ、車だった?」
「うん。車で来るなんて聞いてなかったからびっくりしたけど、いい人そうだから大丈夫かなって」
「見た目や雰囲気で人を判断するなよ。若い女を買う男なんてのは、たいてい精神構造が歪んでるんだ。若い女を引き連れて歩いて、挙句の果てには甘い言葉を囁いてホテルへなだれ込むことしか考えてない。澪は、女の子だろ? 女の子はもっと注意しないと」
「……邦也くんもパパ活、やってるの?」
言いながらものすごいことを想像していた。この、ちょっときれいな男の子が、おじさんたち相手にあんなことやらこんなことやらをして、させられている光景。ちっとも、美しくない。むしろおぞましくすら感じる。
煙を変な形にして邦也くんは笑った。
「男の場合はね、パパ活って言わないの。ママ活」
「ママ活?」
「そう、三十代四十代五十代のママをターゲットにして、SNSで客を集める。澪たちとやってることは一緒だよ」
「女の人もそんなことをするの!?」
思わず声が大きくなっていた。邦也くんが「ママ活」をしていることより、邦也くんを買う「ママ」たちがいることのほうが衝撃だった。邦也くんが笑って、ラッキーストライクの煙が変な形になった。
「男だって女だって変わらないよ。若い子を連れ歩いて、大人ぶって説教たれて、お小遣いあげて、自分がちょっと特別な存在になったような気になる。おっさんたちがパパ活で若い子を買うのと同じように、おばさんたちもママ活で若い子を買いたいんだ」
「……それって、結婚してる人とも、相手するの?」
邦也くんがちょっと不快そうな顔つきになった。
「するよ。澪が相手するパパたちだって、結婚してる人、いるだろ?」
「……いるけど」
「仮に結婚してたとしても、金払ってたら不倫じゃないんだよ。法律的にはね」
罪の意識なんて微塵も感じない手つきで、邦也くんの手が煙草の灰を落とす。わたしはしばらくじっとその手を見ていた。痩せた身体とはアンバランスな、ごつごつとした骨っぽい、男の子らしい手。
その手が顔も知らぬ「ママ」に触れ、触れられるところを少し想像した。ほんの少しにしておいた。
「邦也くんはなんでママ活、してるの?」
邦也くんがはっと顔を上げて、驚いたように目を見開いた。
「なんでって? そんなの、金が欲しいからに決まってんじゃん。それ以外の目的でパパ活やママ活やる奴なんていないだろ。それとも、あれか? 女がやってること、男がやってたらおかしいって言いたいのか? 随分男女差別的なんだな」
「別に。邦也くんがやってること、間違ってるって言いたいわけじゃないよ」
わたしのやってることだって、正しいのか間違ってるのか未だにわからないし。
そう続けようとして、口をつぐんだ。邦也くんが乱暴に煙草の火を消し、ソファーにごろんと身体を横たえた。
「ま、澪の場合は金より、スリルを求めてそうたけどな」
「そんなことはないけど……」
「嘘つけよ。聖マリアなんか通ってたら、校則ガチガチだし、親だって厳しいだろうし、家にも学校にも遊びがないじゃん。遊ぶために、冒険してるんじゃないのか? パパ活やって」
「よくわからない」
自分でもよくわからなくなってきた。わたしはなんのためにパパ活をしているのか。シスターからは良くないことと咎められ、お父さんに嘘をつくことを後ろめたいと思ってるのに、どうしてパパたちと会うことをやめられないのか。
お金の魔力に強烈に惹き寄せられている、それもある。パパ活で稼いだお金で洋服やバッグや化粧品を買うのは、すごく楽しい。
でもたぶん邦也くんの言うとおり、それ以上のものを、わたしはパパ活から見出そうとしている。
「今日はもう寝るぞ」
宣言するとものの二分で邦也くんは寝てしまった。ホテルに入る時何もしないって言ったけど、ほんとに何もされなかった。
ほっとした一方でなんとなく残念な気持ちが心の底からぼわっと湧き上がってきて、そのことに衝撃を覚えながら、重だるい身体をベッドの上に横たえ、毛布を被った。
でも、眠れなかった。
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