第四章(5)

  沙智子たちと別れた後は、渋谷駅の西口で「パパ」と待ち合わせ。夕方の人ごみでごった返す街の中、一件のDMが届く。



『今つきました。車は黒のハマー、ナンバーは二七七四です』



 喉の奥にぎゅっと熱い何かが広がる。



 車で来るなんて、聞いていない。パパ活の先輩である沙智子にも和菜にも、初対面のハパの車には絶対乗るなときつく言われていた。相手の男の車に乗るのは、その人の部屋に行くのと大して変わらない。いちばん危険な密室だ。



「君がいつきちゃんか。可愛いね」



 五十代半ばくらいの「パパ」は笑い皺だらけの目尻に余計に皺を寄せた。悪い人には見えなかったから、ちょっと安心した。



「びっくりしました。車で来るなんて、聞いてなかったから」


「あぁ、俺、いつも車移動なんだ。車は金かかるけど、圧倒的に便利だからね。さて、ご飯にしようか? いつきちゃん、何食べたい? 和食洋食中華、なんでもおごるよ?」



 本音を言うと、さっきのクレープでお腹がいっぱいだった。ガツンとボリューミーなものは、とても胃が受け付けてくれそうにない。



「じゃあ、和食で」

「オッケー、和食ね。この近くにおいしいお寿司の店知ってるから、そこ行こう」



 お寿司と聞いて安心した。お寿司ならちょっとずつ出てくるし、自分の好きなものだけ食べていればいいから、お腹がいっぱいでも調整が聞く。


 青山の高級寿司店で、わたしは中トロとサーモンと海老とイクラを頼んだ。「パパ」はずいぶん小食なんだねと残念そうに言ったので、がんばってアナゴを追加した。アナゴの甘ったるいソースが、ねっちり胃の粘膜を刺激する。



「いつきちゃん、お酒は飲まないの?」

「わたし、まだ未成年ですよ」

「ずいぶん真面目なんだなぁ。一杯くらい、いいじゃん、いいじゃん。付き合って」

「ダメですって」

「固いこと言わないの。ねぇ、この子に日本酒持ってきて」



 なんでカクテルではなく、よりによって日本酒なのか。わたしの身体はまだ、本格的なお酒に慣れていない。ジュースとさして変わらないカクテルなら飲めるけれど、日本酒なんてとても受け入れられる自信がない。


 そう思っていたけれど、「パパ」の言う通り辛口を一気に流し込んだら、何かがすぱんと吹っ切れた気がした。



「おいしいです。これ」

「でしょでしょ? ここのお酒、すっごい美味いんだよ。もっと飲む?」

「はい」



 誘われるがまま、言われるがまま。気が付いた時にはわたしはものすごい量のお酒を口していて、何杯飲んだかもカウントできなくなっていた。


 頭の中がふわふわして、気持ちよくふくらんだお腹がやわらかい。目を瞑っていても、赤や青や黄色の光がちらちらとする。沙智子たちと飲むお酒とは、全然違った。



「いつきちゃん大丈夫? 立てる?」



 「パパ」に支えられながらお寿司屋さんを出た時は、午後十時半を回っていた。いけない、家に連絡するのを忘れていた。真緒のことで頭がいっぱいなお母さんはともかく、お父さんは真剣に心配しているだろう。



「今日はありがとうございます。もう帰ります」



 ふわふわの脳みそでなんとか言葉を絞り出すと、「パパ」はにひっと不気味に笑った。



「何言ってるの? 夜はこれからだよ」

「え」

「いいよね? この後」



 何が省略されているのか、すぐにわかった。車はあっという間に加速し、円山町を目指す。アルコールのせいで熱く痺れた心臓が、ばくんばくんとさらに速く動き出した。やっぱり車に乗っちゃいけなかった。このままじゃ、強制的にホテルに連れていかれる。泥酔したわたしには、抵抗する力も残っていない。



「家に、帰して、ください。親が、心配するんで」



 アルコールで火照った喉で精いっぱい言葉を振り絞るけれど、車は止まらない。心臓はばくばくとうるさいのに、身体にまったく力が入らない。助手席のわたしを安心させるように、皺の寄った手が伸びてくる。



「大丈夫だよ、心配しなくて。ちゃんと優しくするからさ」

「わたし、こういうことは、無理、です」

「俺がリードするから全然平気だよ。ちゃんとお小遣いも弾むからね」



 生温かい手がワンピースの裾をかき上げ、太ももをぬらりと撫でた。嫌悪感に全身の皮膚が粟立った。


 車は円山町のコインパーキングに止まった。なんとかその腕を振り払おうと抵抗するけれど、骨がすべて溶けてしまったように身体じゅうがふにゃふにゃで、逃げ出すことなんてとてもできない。「パパ」は嫌がるわたしの肩を支え、ホテルを目指し歩き出す。



「ここでいいかな?」

「よく……ないです」



 必死に首を振るけれど、「パパ」はにやにやと面白そうに笑うだけだ。慣れないお酒に自由を奪われ、ろくに抵抗もできない女の子をホテルに連れ込んであれやこれやをすることがそんなに面白いのか。


 絶対に嫌だ。こんなところで、こんな人に、バージンを奪われたくない。パパ活なんかやっているけれど、嫌なものは嫌だし人並の貞操観念を失っているわけじゃない。


 だけど、逃げ出すことなんて既に絶望的だ。



「お前、俺の彼女に何やってんだよ!」



 ホテルの入り口で低い声がした。


 あぁ、前にもこんなことがあった気がする、と酔ってふやけた頭の隅っこで思った。芳乃から彼氏ができたと告げられた日、やけっぱちになってナンパされた男にバージンをあげようとしたあの日。


 あの時助けてくれたのは沙智子だったけど、今日は男の子の声だ。



「どうせ、こいつが未成年だって知っててこんなことやってんだろ? 今から警察呼ぶぞ」

「な、なんなんだ君は……」



 「パパ」は突然の男の子の登場にみっともないほどうろたえていた。おそろしく鈍い回転しかしない頭を上げて、男の子の顔を確認する。


 整っていた。濃い眉毛に、切れ長の少し鋭い目。スッと通った鼻筋に、ツンと細い顎。Tシャツにジーパンという普通のいで立ちが、モデルみたいに痩せた身体にしっくりと馴染んでいる。



「だから言ってるだろ。この子の彼氏だよ」


「嘘つけ。いつきちゃんは、君なんかのことは一言も……それにたとえ恋人同士だとして、君に黙ってこんなおじさんとお酒を飲む子なんだぞ」



 男の子の顔に真っ赤な怒りが広がっていく。



「馬鹿野郎、そんなの関係あるか。何をしていようが、いつきは俺にとって特別な存在なんだよ! てめぇなんかに渡せるか」



 そう言ってひったくるように「パパ」の腕の中からわたしを奪う。男の子の手はひんやり冷たいのに、不思議な温もりに包まれているような感覚があった。



「とにかく、この子は未成年だからな。おとなしく今日は帰らないと、てめぇを警察に突き出すぞ」


「な、なんなんだよ……いったいなんなんだ……俺が何をしたって言うんだ……」



 ホテルの前で大声を上げる男の子と、対峙している中年男性、酔っ払った女の子がひとり。不思議な組み合わせは、周囲の好奇の視線を思いっきり集めていた。その視線から逃げるように「パパ」は去っていき、わたしと男の子のふたりきりになる。



「大丈夫か?」



 そっと耳に唇を寄せ、男の子が聞いた。ぬるい息がやわらかく、身体の中心のいちばんやわらかい部分がじんと火照る感じがした。

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