第四章(3)

「今日も演劇部の練習だったのか?」



 ダイニングテーブルでひとり分の肉じゃがが取り分けられたお皿のラップを剥がしていると、お茶を淹れてくれながらお父さんが言った。



「そうだけど、なんで?」


「いや、最初はこんなにたくさん練習があるなんて思わなかったから。澪の学校の演劇部は、ずいぶん本格的なんだな」


「部長が結構、力入ってる人で」



 適当な言い訳をしながら、罪悪感がちりちりと心の中で瞬く。



 お父さんは鈍感なのか、素直なのか、わたしのことをちっとも疑っていない。まさかパパ活だとは思わなくても、メイクひとつしなかった娘がこれだけの頻度でおしゃれして外出していたら、彼氏でもできたのか?


 と普通は思うものなんじゃないだろうか。それすらないっていうことは、わたしを全面的に信頼しているってことだ。


 もちろん、本当のところはわからないけれど。


 肉じゃがにみょうがの味噌汁を食べていると、二階からふたつの声がギャーギャーと聞こえてくる。



「今日もやってるの?」

「やってるよ。なんでも、塾の成績が下がったらしい。お母さん、怒り心頭だよ」



 ため息交じりに言うお父さんに、妻と娘の諍いを収める夫としてなり父親としてなりとのカリスマ性のようなものはない。


 夕食を食べ終わった頃、ついに真緒が泣きながら階段を下りて来た。今にも転げ落ちんばかりの勢いでドタドタと降りて、ダイニングテーブルに駆け込む。



「もう嫌、勉強なんて嫌、受験なんて嫌! 私立なんか行きたくない!!」

「落ち着きなよ、真緒」



 目も顔も真っ赤にした真緒はここ半年くらいでずいぶん痩せてしまった。食事はじゅうぶん摂っているはずなのに、受験のストレスで追い込まれてしまっている。



 もともと真緒は勉強が好きではなく、学校や塾で競わされることも苦手なタイプだ。中学受験なんて、そもそも向いていない。


お母さんだってそのことに気付いていないわけじゃないだろうに、なんとしてでも娘ふたりを自分の母校に入れるため、なんとしてでも自分の意志を押し付けてくる。



「あたし、聖マリアなんか行きたくない! たしかに聖マリアはいい学校だと思うけれど、髪の毛結ぶゴムの色まで指定されてる学校なんて行きたくないよ! お姉ちゃんはいいだろうけれど、あたしは嫌」


「そう、お母さんに言ってみたらどうだ?」



 真緒の前に緑茶を出しながら、お父さんが言う。口調は穏やかだけど、本心ではこの問題に極力関わりたくないという本音がにじみ出ている口調だった。



「無理だよ、子どもが口ごたえするな、お母さんの言うとおりにしなさいって、そう言われるだけだもん。あたし、お母さんのロボットじゃないのに。お母さんの言いなりなんて、嫌なのに」



 お母さんに言われるがまま小三から塾に通い、難しい勉強をこなしていたわたしと違って、真緒はちゃんと考えていた。自分に本当に合う道を。自分が歩んでいて心地いいと感じられる道を。


 まだ小学六年生なのに、真緒は立派に大人の力を持っていた。



「受験の日、仮病使おうかなぁ。体温計熱湯につけたら、三十九度とか出せそう」


「そんなことしても、お母さんに無理やり会場に引っ張っていかれるよ」


「じゃあ答案白紙で出す」


「落ちたら落ちたでお母さん、うるさいよ。なんでお姉ちゃんはできたのにあんたはできないの、とかそういうこと言われるに決まってる」



 真緒がぎゅっと薄い唇を噛む。白い八重歯が、蛍光灯の光を浴びてきらりと光った。



「お姉ちゃんは、いいよね。お母さんの夢が、自分の夢だったんだから」



 暗にわたしを責めるような言い方に、背筋を氷で撫でられたような気がした。



「お姉ちゃんはお母さんに言われたから仕方なく聖マリアに行ったんじゃなくて、自分で聖マリアに行きたくて行ったんでしょう? あたしは違う」


「わたしだって、お母さんに聖マリアに行けって言われたから、そうしただけだよ」



 言い返すと真緒は一重の目で下から睨んできた。



「素直にお母さんの言いなりになれて、いいよね。あたしには無理。あたし、お姉ちゃんみたいな優等生のいい子ちゃんじゃないもん。勉強なんて、そもそも嫌いだし」


「真緒、お姉ちゃんを悪く言うのはやめなさい」



 お父さんにたしなめられ、いよいよ機嫌を悪くした真緒は、トイレ行ってくる、と言って席を立った。



 それから二階からお母さんが降りてきて、トイレに鍵をかけてこもった真緒を廊下で怒鳴りつけた。真緒は強情になり、二時間もトイレに籠城した。


日付が変わる頃、怒鳴り疲れたお母さんはリビングのソファで横になり、真緒はお風呂に入らずご飯も食べずベッドに潜った。


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