第四章(1)
昨日から梅雨入り宣言が出され、湿度一〇〇パーセントにふくらんだ空気がじんわりと制服のスカートからはみ出た脚に不快にまとわりつく。
この学校は傘の色まで指定されているので、傘立てにはビニール傘と紺と黒の傘ばっかり。一本だけ浮いている赤いチェックの傘は、間違いなく静音のものだろう。シスターに見つかったらきついお説教を食らいそうだ。
いつもと同じ教室の中は、いつもと違う雰囲気が漂っていた。誰よりも騒がしい静音のグループがひっそりと隅っこで息をひそめ、静音の親友である千絵子の姿がない。他のグループたちは静音たちを遠巻きにして、ひそひそと抑えた声で何かを話している。
「おはよー、澪!」
いつも通りの声で笑子が言った。琴美も芳乃も、笑子のテーブルを囲んでにこやかに笑っている。よかった、わたしのグループは普段と変わらない。そのことに心から安堵を覚えた。
「澪、結構濡れちゃってるね。雨、強かった?」
「うん、いつもより一本遅い電車に乗ったら、タイミングが悪くて。学校までの道ですごい降られたんだよね」
「大変だったね。それよりか、大事件だよ! 大事件!」
一気に空気が変わり、四人の頭が寄せ集められる。笑子がボリュームを絞った声を出した。
「千絵子が妊娠したんだって」
「へ?」
「へ、じゃないよ、妊娠だよ妊娠! まぁ、当然っちゃあ当然っていうか、あんまり驚きないけど。でもさすがに身近でこういうことあると、ビビるわー」
それで気付く。他のグループたちの子もみんな今まで、千絵子の話をしてたんだ。
女子だけの学校だから、噂の広まるスピードは速い。既に隣のクラスまで広まっていてもちっともおかしくない。
「ほんと、妊娠とかマジで不潔。千絵子、ありえないよ」
笑子は笑子らしい毒舌で千絵子をぶったぎる。琴美が頷く。
「妊娠って、そういうことしてたってことだよね」
「当たり前じゃーん! コンドーム持ってたんだから。でもこうなるってことは、ちゃんと使ってなかったんだよね? バカじゃん千絵子」
そこでホームルームの開始を告げるチャイムが鳴り、シスターが教室に入ってきた。いつも厳格なシスターの顔が、いつもよりさらに険しい。
「みなさんも既に噂で知ってると思いますが、村木千絵子さんが妊娠したことが発覚しました」
シスターの言葉に、全員が改めて息を呑む。
この人の対応は、正しい。すでにみんなが知っているのなら、これ以上千絵子が傷つかないように、大人たちもきちんとした姿勢でこの問題に挑まなくてはいけない。
「四か月だそうです。お腹の子どもをどうするかは、現在、村木さんのお家で話し合いがされているそうです。学校を辞めることも検討しているようです」
教室は、静かだった。
静音がささやかな怒りを込めた目をシスターに向けていた。
「みなさんも既にご存知のとおり、キリスト教には十戒というものがあります。十戒のはじめは、人を殺してはならない。他人の命も、自分の命もです。ですから堕胎という選択は十戒を破ることになります」
ここでシスターはたっぷり十数秒、沈黙を取った。誰もが息をすることも忘れたように、教卓の向こうのシスターを見つめていた。
「私はまだ、教師として、聖職者として、どう村木さんに向き合うべきか考えています。十戒を守り、子どもを産んで育てる道は、まだ高校二年生の村木さんにとっては険しい道のりです。
もちろん最終的には、村木さん本人が決めるべきことです。個人的には私は、村木さんには十戒を犯してほしくはありません。しかし、大切なことは」
シスターの声が大きくなった。
「大切なことは、ここにいるみなさんが同じ過ちをしないことです。みなさんは自分でもよく知っているとおり、こういうことが起こっても責任を取れる年齢ではありません。村木さんの立場になったら誰もが悩むでしょう。苦しむでしょう。
もちろん、恋をしたい年頃ですから、そういう相手がいること自体は悪いことではありません。でも、みなさんの年齢で深いお付き合いをするのは、私の立場では反対せざるを得ません。自分を大事にすること。ひとりひとりがちゃんと考えてください。今日は、村木さんのために祈りましょう」
教室の中に祈りが広がる。ちっとも千絵子のことなんて思いやっていない、形ばかりの祈りの時間。いつもこういうことには不真面目な静音だけが、今日ばかりは真剣な顔で祈っていた。
シスターによる「性教育」が終わった後も、始業直前の教室の中には千絵子が投げていった余波が止まることはない。
「ほんとに、責任も取れないのにエッチなんてするからいけないんだよねー」
「千絵子の相手、大学生らしいよー。十八歳以上がJKに手ェ出してる時点で犯罪じゃん」
「相手の男、絶対逃げるっしょ。責任なんか取ってくれるわけないし」
「ほんと、千絵子って馬鹿」
シスターによる千絵子のための「性教育」は、皮肉にも千絵子に対する反感を煽っていた。そもそも潔癖なお嬢様たちが多い学校だから、ただでさえ千絵子や静音の存在は「不良」の烙印を押され、浮いている。
その「不良」が問題行動の中でもいちばんレベルの高いものを引き起こしたんだから、お嬢様たちの反応は当然だろう。
教室の隅で同じグループの子たちと話していた静音が、いきなり大声を上げた。
「てめぇら、ふざけんなよ」
お腹の底からぶち破れたような、凄みのある声だった。
蜂の巣を突っついたように騒がしい教室から、一斉に音が消える。
「この中で男を好きになったことがない奴なんているのかよ。男とセックスしたいって思ったことがない奴なんているのかよ。男って、芸能人とかマンガのキャラクターも含めて、だぞ?
そう思っている時点でうちらは、メスなんだよ。少女じゃなくてメス。性欲を持ってる時点で、もう子どもじゃないんだよ。子どもじゃないんだから、恋をしたらセックスする。普通だろうが」
琴美が笑子の腕にさりげなく手を回した。本気で怒っている静音が本気で怖いらしい。
「千絵子があんたらになんか迷惑かけた? かけてないだろ? 自分がしたいからセックスして、その結果妊娠した。それだけじゃん。誰にも迷惑なんてかけてない。千絵子は何も悪いことしてないよ」
「迷惑なら、かかってる」
笑子が鋭い視線を静音に向けた。静音の目がカアッときつくなった。
「村木さんのせいで、聖マリアの名が汚れる。ここは普通の高校じゃない、特別な学校なんだよ。あたしたちは特別な生徒なんだよ。村木さんひとりのせいで、あたしたちみんながそういう馬鹿な子だと思われる」
そうだ、そうだよ、と何人かが声を上げた。クラスでもともと浮いていた静音たちは、優等生のお嬢様たちから一斉に敵意を向けられた。
「馬鹿はどっちだよ!」
静音が叫んだ。狼のような咆哮が教室に轟く。
「なんだよ、特別な学校だの、特別な生徒だのって。ただの、歴史が古くてカトリックでシスターがいる阿保みたいな校則だらけの阿保高校じゃねぇか。あんたら、シスターの言葉本気でそのまま信じてるの?
言っとくけど、あんたらみたいなセックスもしたことない馬鹿のお嬢バージン、一歩学校の外に出れば男にナメられまくるんだからね?」
今度は誰も声を上げなかった。みんな、怒りに狂って、今にも拳を振りかざさんばかりの静音に多かれ少なかれ怯えていた。
静音の言葉は、痛い本質を突いていることに誰もが気付いていた。
「千絵子は全然馬鹿じゃないよ。頭いいよ。あんたらみたいに大人の言うこと真に受けないで、自分で考えて、自分で行動してる。今だって自分の脳みそ総動員して悩んでるんだよ。これから先どうするか、子どもの命を守るのか捨てるのか、死ぬほど悩んでんだよ! そんな千絵子のこと、これ以上傷つけないで」
静音は乱暴に言い捨てて、乱暴にガタンと椅子を引っ張り、席についた。そこでちょうど、始業を告げる鐘が鳴った。
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