【短編】天使が落ちてくる日

スタジオ.T

天使/ミニチュア/私


 高台から見る私の町は、ひどく小さい。


 そびえ立つ中部山岳を背景に、町は特撮映画で粉々になってしまうようなミニチュアだ。あんな場所に人口数万人が住んでいるというのだからゾッとする。


 顔の周りをうろつく、鬱陶うっとうしい夏の虫を追い払う。この高台には固定式の双眼鏡がある。百円玉を投入口で小刻みに動かすと、お金を入れなくても双眼鏡は作動する。小学生の頃から、この秘密は私だけのものだった。


 中学が終わった放課後、双眼鏡をのぞいていると、ひらひらと宙を舞う物体を見つけた。太陽の光に当てられて、キラキラと光るそれを、私は誰かが飛ばしたドローンだろうと思った。


 段々と近づいてくる。それには羽があることが分かった。飛行機だろうか。それよりは小さい。鳥だろうか。それよりは大きい。なんだろうか?


 人の姿が見える。パラグライダーだろうか。


 いや。

 違うようだった。私は目をらした。パラグライダーはあんな曲がった羽じゃない。


 白くて、吸い込まれそうなほどに柔らかな羽は、そんなに安っぽくは見えなかった。


「あ」  


 私は息を呑んだ。


 落下物と目があったのだ。


 それは天使だった。


 人の形に、鳥の羽。


 それは自分が思い描いた通りの天使の姿をしていた。もう一度見ようと思った時には時間切れ。双眼鏡は目を閉じてしまっていた。


 いざっていうときに役立たずなんだから。


 双眼鏡をスニーカーでガツンと蹴って、私は天使が落ちて行った方向に足を走らせた。落下地点はそう遠くなかった。登山道を駆けて行って、林の方へ降りていく。五歳から住んでいる、この山は私の庭だ。川の近くに降りていくと、膝上までのワンピースを着た少年が、川の水を飲んでいた。


 背中には羽が生えていた。


 ビンゴ。


 やっぱり天使じゃないか。


「おーい」


 私が呼びかけると、天使はギョッとしたように目を丸くした。瞳の色はきれいな橙色だった。赤色灯に照らされた飴玉あめだまみたいだった。長い髪は新雪の白さだった。


「危ないよ。ここの川は流れが速いところがあるの」


 二、三人流されてるんだ、と私が言うと、天使は川から上がってきた。裸足で河原をぺたぺたと歩きながら、私に近づいてきて言った。


「流されるのは嫌だな」


 飛べないし泳げないんだよ、と天使は私に愚痴ぐちると、片方の折れ曲がった羽を見せてきた。


「ちょうど生え変わりの時期だからさ。羽が取れちゃって」


 思わず見惚れていた私が、ぽかんと口を開けているのを見て、天使は可愛い顔でくすくすと笑った。


「びっくりした? そうだよね。僕ら、普通は死に際にしか現れないから」


 そう言って天使は、ポケットから裁縫セットを取り出した。まち針、白い糸、小さなハサミ、小豆色の針刺し。どこにでもある小さな裁縫セットだった。


「君、裁縫できる?」


 天使は言った。私は答えた。


「……できるけど」


「ちょうど良かった。ねえ、羽を縫ってくれないかな」


 私が承諾すると、天使は服の肩紐を外して、私に背中を向けた。

 私は羽の付け根を、手でぎゅっとつかんだ。弾力のある柔らかさだった。子供の頃好きだったフルーツのグミに似ていた。


 ここに針を入れて良いの、と聞くと天使は「うん」と答えた。


「痛くなっても知らないよ」


 そう一言付け加えて、私は付け根に針を入れた。


 白い糸を通して、羽と身体ををくっつけていく。痛覚がないのだろうか。天使は表情を変えなかった。


 逆に、やりながら私の心がちくちくと傷んできた。それもこれも縫い物にまつわる苦い思い出のせいだ。


 三ヶ月ほど前、初めてできた彼氏に手袋をあげようと考えていた。


 好きな漫画の主人公が、手編みの手袋をあげるシーン。私はそれに憧れたのだ。今思えば子供っぽいけれど、それくらい浮かれてしまっていた。慣れない手つきで半年くらいかけて、せっせと作った。


 あの赤い手袋。手元は黒のストライプ。


 すごく喜んでいて「一生使うよ」と言ってくれた。


 でも彼が私の手袋を付けているのを見たのは一回だけ。


 三日後、彼の母親がその手袋を付けているのを見た。


 私たちはすぐに別れた。


 その後、奴は同じ部活の同級生と付き合っていた。よりによって私が一番、嫌っている女だった。


 ムカつく。天使の羽を縫いながら、よりによってこんなことを思い出すなんて。


「ありがとう。君は器用だね」


 羽の縫合ほうごうが終わると、天使は嬉しそうに微笑んだ。目が合うと、私の頬は自然と赤らんでしまった。彼は本当に可愛い顔をしている。


「水は綺麗だし。やっぱり下界はとても良いところだね」


「ずっといれば?」


「そんな訳にはいかないよ。僕には仕事があるからね」


 じゃあね、と言って天使はふわりと飛び上がった。上昇して、数メートル上がったところで、彼はキュルキュルと落ちてきてしまった。


 顔を伏せながら、彼は私のところへ戻ってきた。


 後ろの羽を指さして、天使は真っ赤な顔で私に言った。


「もう一方も取れちゃった」


「本当だ」


「これじゃあ飛べない。もう一回縫ってくれないかな」


 天使は言った。私は考えた。


 とどめておきたい気持ちがなかった訳ではないのだ。


 彼は天使だから。


 私と違って、いつだって好きなところに行ける。


「縫ってあげても良いけど、私のお願いを聞いてくれないかな?」


「お願い?」


「うん。一時間で良いから付いて来て欲しいの」


 良いでしょう、と私が頼むと、天使はしぶしぶ承諾した。羽がなくては断ることもできない。天使はそう考えたようだった。


 私は天使と一緒に、山を降りて自分の家に帰った。

 兄のクローゼットからパーカーとズボンを借りた。ちょっとサイズがあってないけれど仕方がない。野暮ったい兄の服も、天使が着るとスタイリストが仕立てたみたいに、ぴったりだった。長い髪を結んで、精悍せいかんな顔を真っ直ぐ向けて、天使はうっとりするくらい綺麗だった。


 自分のことのように得意げに、にんまりする私に天使は言った。


「これで終わり?」


「ううん。これからデートに行こう」


「そろそろ帰る時間なんだけれど。それにデートなんてやったことがないよ」


「あなたは「うんうん」ってうなずいてれば良いから」


 天使は仕方なさそうに付いてきた。


 同級生たちはカラオケに行くという話を、私は聞いていた。だから、その前のコンビニで彼女たちが出て来るのを待った。プラスチックのベンチに座って、じーっと入り口を監視していた。天使は私の隣で、暇そうに看板を見上げていた。


 しばらくして制服姿の中学生が出てくる。


 その中にあいつもいる。


 あのクソ女。此河このかわ。私の前の彼氏と付き合ってる女。手袋のことをみんなに言いふらして「愛が重い」とか「面倒臭いメンヘラ」とか裏で言いたい放題やっていた女。


 私はわざとらしくベンチをこんこんと叩く。


 相手は私に気が付く。


 当然、隣に座る天使にも。


 ゲラゲラと下品なことで笑わない。寝癖もない。変な英字プリントがついたシャツも着ない。人の手袋を母親にあげない。おしゃれで完璧な男の子だ。


「誰その子」


 此河は天使を見て聞いてきた。


「私の彼氏」


 私はすました顔で言う。


「ネットで知り合ったの」


「へえ……いくつ?」


「同い年だよ。ねー」


「うん」


 天使はぶっきらぼうにうなずいた。ちょっと演技が暗ったいけれど仕方がない。それよりも周りの子達は天使の美しさに、興味津々なようだった。はしゃいだ様子で、彼女たちは私に聞いてきた。


「モデルみたい」


「でしょー。実はそういう仕事もやってるの」


「ね。写真、撮っても良い?」


「ダメダメ。事務所で禁止されてるんだよ。ねー」


「うん」


「そうなんだー。残念」


 肩を落として、それでも好奇の眼差しで彼女たちは天使を見つめている。


 うらやましがられている。


 注目を浴びている。


 さぞ悔しがっているだろう。


 後ろで腕を組んでいる此河は、ムスッとした顔で口を開いた。


「どこ住んでるの?」


「近くだよ」


「近くってどこ?」


鳴海沢なるみさわの方」


「住所は?」


「さあ」


「彼女なのにそんなことも知らないんだ」


 バカにしたように言う。私はこいつのこういう態度が大嫌いだ。気に入られたい相手にはびを売って、嫌いな相手はあからさまに見下してくる。その癖、自分じゃ何もできないから、いつだって他人を巻き込もうとする。


 そんなこと皆だってすぐに気がつくはずなのに。


 どいつもこいつも阿呆ばかりだ。


 此河は天使に狙いを定めて、質問をしてきた。


「二人は付き合ってどれくらいになるの?」


「え?」


 天使が困ったように私を見る。私は「二ヶ月」と此河に返す。


 此河はニヤリと嫌な感じで笑って、私たちに言う。


「私、彼氏に聞いてるんだけど。ていうか、この子、すごくダルそうだね」


 顔を近づけてきて「ねえ。大丈夫?」とさも心配しているかのように、此河は言った。


「ひょっとして具合とか悪いんじゃない。体調悪いのに無理させちゃかわいそーだよ」


 何か分かったような口調で、此河は私に言った。


 頭に血がのぼる。


 あんたに何が分かる。


 何も分かってないくせに。


 此河をどうやって言い負かすのが良いか考えて、私は立ち上がった。私が口を開く寸前に、意外にも、天使がパッと明るい声で此河に言い返した。


「何も無理してないよ。勝手な事、言わないでくれるかな」


 天使が微笑むと、此河はそれ以上何も言えないようだった。天使は「行こう」と私の手を取った。


 温かくてすべすべした手。


 男の子に手を引かれるなんて初めてで、私は何も考えることができず、しばらく歩いていた。コンクリートの面白みのない道の上の、せた「止まれ」の標識を越えて、人気のない道のど真ん中で、車の強いヘッドライトを浴びて、私はハッと我にかえった。


「ありがとう」


 私は天使にお礼を言った。


 天使は振り返ると、さらっとした顔で言った。


「これで終わりで良い?」


「……うん」


 私はうなずいた。裁縫道具を取り出して、再び天使の羽を縫ってあげることにした。


 ふわふわと柔らかい天使の羽に触れていると、私は無性にまた彼の手が握りたくなった。でも彼の手は。もう私の方に伸びてこなかった。


 私は天使に謝ることにした。


「ごめんね。付き合わせて」


「良いんだよ。人間の願いを叶えるのも僕の仕事だからね」


 やれやれと言った感じで天使は言った。


「一つ忠告しておくけれど」


 天使は言った。


「見栄なんか張っても意味ないよ。後で虚しくなるだけだから」


 天使は色んなことを知っている。


「大丈夫。君は自分で思っているよりも、くだらない人間じゃない」


 天使的な目線で言うとね、と天使は付け加えた。天使だから人間の微妙な違いなんて気にならなくなるらしい。


 糸を繋ぎ終わって、余ってしまった部分をハサミで切る。これで天使とはお別れ。名残惜しい私は「終わったよ」と天使に言うのをためらったけれど、暗くなった夜空を見て、天使が不安そうな顔をしていたから、ポンと背中を叩いて合図をしてあげた。 


「また会える?」


 私は天使に聞いた。


 調子を確かめるように羽を動かしていた天使は、振り返って私に言った。


「君が天寿をまっとうしたらね」


 冗談めかして笑って天使は去っていた。急上昇して、穴の開いたような夜空の一部になると、すーっと消えていった。


 天使がいなくなると、唐突に私は寂しくなった。私の気持ちを分かっていた人が、地上からいなくなってしまった。あの優しい手に触れることはもうできないんだ。もっと話しておけば良かったなと思う。


 けれども、彼の方はそんなことをちっとも気にしていない。


 それに気がついて、私はもっと悲しくなって、車だけが通る道路の、乾いた地面にうずくまって、声も出さずに泣いていた。



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