■4 心臓を止める言葉
「萌花の夢は……ママと一緒にお洋服を買いにいくことです」
萌花ちゃんの母、つまり彼の妻はIT系の会社を経営している。
もっと言うと、彼は妻の部下という立場だ。
家庭はかなり裕福らしいが、妻が家ですごす時間は短いと聞いている。
「そっか。萌花ちゃんのパパから聞いてるよ。ママはものすごく忙しい人だって。普段の服は、どうやって買ってるの」
「パパと一緒に、ネット通販で」
なるほど。服のセンスは悪くないが、サイズが少し大きい気がする。
通販ではその辺りに融通を利かせにくいだろう。
「だからもし、典子さんさえよかったら……」
萌花ちゃんが、また恥ずかしそうにうつむいた。
正直に言うと、私はこのとき胸の高鳴りを覚えた。
萌花ちゃんがいじらしいのもあったが、自分の娘を着せ替え人形にしたいというのは、すべての男の子を持つ母親の夢だろう。
とはいえ、私は彼の不倫相手だ。
つかの間とはいえ、萌花ちゃんのパパにママを裏切らせている女だ。
身の程はわきまえるべきだし、本来ならばいますぐにでもここを立ち去らなければならない立場と言える。
後ろ髪を引かれるが、やはり断るべきだろう。
そう思ったときだった。
「典子ちゃん。僕からも、お願いします」
彼が私に向かって頭を下げる。
私は「アホか!」と言いたかったが、どうにか言葉を呑みこんだ。
娘が隣にいることで、彼はすっかりパパモードになっているらしい。
私が不倫の相手だなんて、すっかり忘れているようだ。
こうなったら、私が断るしかない。
「ごめんね、萌花ちゃん。私はやっぱり帰るわ」
言って顔を見ると、萌花ちゃんの目から涙があふれそうだった。
「そうですよね……こんなかわいくない子、一緒にいたら迷惑ですよね……」
「違うよ。萌花ちゃんはかわいいよ。そうじゃなくて」
「萌花がかわいくないから、ママも一緒に出かけてくれないんです……」
露骨な泣き落としだ、ということはわかった。
けれど萌花ちゃんは十二歳。
これは女の涙ではなく、子どもの涙だ。
子どもが泣いているのに、置き去りにできる親はそういない。
それが不倫相手の娘でも、親とはそういう生き物だ。
「それじゃ、少しだけ」
ため息をついて言うと、萌花ちゃんが「やったあ!」と椅子から立って抱きついてきた。
息子と違ってやわらかい体は、汗臭くない子どもの匂いがした。
いま思えば、このときに母性本能にスイッチが入ったのだろう。
情けないことに、私は三人でのショッピングをおおいに楽しんでしまった。
身の程をわきまえろ。
私は彼の不倫相手。
萌花ちゃんのママを泣かせる女。
ただでさえ罰当たりなことをしているのに。
そう思っていても、当たり前だがショップの店員は私を母親扱いする。
萌花ちゃんも察しがよく、店の中では私を「ママ」と呼ぶ。
服をあてがえばどれもかわいく、購入後にはうれしいと腕をからめてくる。
いつしか「ママ」と呼ばれることにも抵抗がなくなり、買い物を終えたあとには名残惜しささえ感じていた。
「典子さん、ありがとう。今日は、すっごく楽しかったです」
別れ際に、萌花ちゃんがぺこりと頭を下げる。
「こちらこそ、楽しかったわ。それじゃあふたりとも、気をつけて帰ってね」
私が手を振ると、萌花ちゃんが首を横に振った。
「萌花はひとりで帰れます。まだ時間あるから、パパは典子さんといて」
「いやいや、パパも萌花と一緒に帰るよ」
彼がなにを言っているんだという顔で娘を見る。
「でもパパ、今日はまだ典子さんとしてないでしょ?」
世界が凍りついた。
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