第82話 合鍵
二度寝した実親が起床したのは十時頃で、まだ寝ている紫苑のことを起こさないようにベッドから這い出て寝汗を流す為にシャワーを浴びたが、昨夜のことで悶々としていて起きたばかりだというのに気を静める為に二発も抜いてしまった。
寝汗を流したのと二発発射したお陰で清々しい気持ちになりながらドライラーで髪を乾かしていると、三階から「寝坊したー!」と焦りを滲ませた声が聞こえてきた。
ドライヤーの音に負けない声量だったので相当焦っているのだろう。その証拠に勢いよく階段を駆け下りており、足音が実親の鼓膜まで届いていた。
エアコンの冷気を確保する為に脱衣所の扉を半分ほど開けていたのも影響している。扉を閉め切っていたら声は聞こえなかったかもしれない。
実親は「階段を踏み外さなければ良いが……」、と他人事のように思いながら髪を乾かし続ける。
少しずつ足音が近付いてくると、勢いそのままに脱衣所が完全に開かれた。
完全に油断していた実親は突然背後に紫苑が現れたことに驚いて飛び上がりそうになる。なんとか平静を保ったが、危うくドライヤーを手放してしまうところだった。
「シャワー借りるね!」
脱衣所に飛び込んできた紫苑はそう言うと、唯一身に付けていたショーツを脱いで洗濯機に放り込んだ。
背後で行われる一連の行動を実親は鏡越しに目撃してしまった。決してわざとではない。紫苑の行動を予測出来なかっただけだ。
ちなみに洗濯機は洗面所の隣にあるので、紫苑の裸を視界の隅で
ブラジャーをしていないので歩く度に弾む大山脈に視線が吸い寄せられてしまうのは男の
普通の男子高校生ならテンパって目線を彷徨わせたり、気付かれないように盗み見たりするところだが、実親は堂々と視線を向けていた。
裸を見られてしまうことに全く躊躇がない紫苑は平然としており、顔色一つ変えることなく浴室に駆け込んだ。
怒涛の展開に呆気に取られた実親は一旦ドライヤーを止めて紫苑に声を掛ける。
「そんなに急いでどうした?」
「今日バイトなのー!」
早口で答えた紫苑はシャワーを流して頭から浴びる。
寝坊した所為でバイトに遅刻しそうになっていて慌てていたのだ。
「今日くらい休んだらどうだ?」
紫苑がトラウマになりかねない程の怖い思いを味わったのは昨日のことだ。今はまだ精神的に不安定だろう。なので実親は無理をせずに休んだ方が良いのではないかと思った。
「んー、黛のお陰で大分落ち着いたけど、今は働いていた方が気が紛れると思うから」
頭からシャワーを浴びていた紫苑は顔を上げて気道を確保すると、ゆったりとした口調で答えた。
「そうか……無理はするなよ」
「うん。ありがと」
実親も執筆している時は集中していて他のことに思考が回らなくなるので、何かやっていた方が気が紛れるのは共感しかなかった。
無理に休ませようとするのは余計なお世話だろう。そう思った実親は案じる言葉を掛けるだけで引き止めることはしなかった。
◇ ◇ ◇
「――それじゃバイト行ってくるね」
急いで支度を済ませた紫苑は階段の手前に立ち、ソファに腰掛けて珈琲を飲みながらテレビを観ている実親に声を掛けた。
今日の紫苑はTシャツとデニムパンツに身を包んでいる。急いでいたからなのかはわからないがシンプルな服装だ。それでも彼女が着ると煌びやかに見える。やはりスタイル抜群の美少女は何を着ても様になるのか、衣服と自分の魅力を数段も引き上げていた。
「久世」
優雅に寛いでいた実親は紫苑を呼び止めると、カップをテーブルに置いて立ち上がる。
「お前にこれを渡しておく」
紫苑のもとまで歩み寄った実親は、パンツのポケットから銀色の物体を取り出して手渡す。
「何?」
意図がわからなかった紫苑は首を傾げる。
「合鍵だ」
「え」
実親が手渡したのは自宅の鍵だった。
当然紫苑は驚いて目が点になる。
「これからは自分の家だと思って好きな時に来ると良い。俺がいない時でも遠慮する必要はない」
今まではあくまでも泊めてあげているだけだったが、昨夜の件があった以上はいつでも逃げ込める場所が必要だと実親は思ったのだ。
昨日は実親が自宅にいたから良かった。しかし、もし外出していたら紫苑は降りしきる雨の中、軒先で待ち惚けを食らうところだった。
他に行く当てがあったのなら良いが、昨日は時間帯的に難しかっただろう。家の人の迷惑になってしまうからだ。その点一人暮らしの実親は都合が良い。
それに紫苑としては逃げ込む場所がどこでも良かった訳ではない。
泊めてもらうだけなら他の友人を頼る選択肢はある。だが昨日はことがことだっただけに実親に縋りたかった。実親の顔を見たら安心するし、抱かれるつもりだったからだ。
「つまり……これはプロポーズ……?」
状況を整理した紫苑は宝物を扱うように両手で鍵を受け取ると、声を震わせながら呟いた。
「何故そうなる」
「同棲のお誘いでは?」
「……確かに話の流れ的にそうとも受け取れるが、違うからな」
「それは残念」
肩を落として残念がっているが顔は笑っている。おそらく冗談で言っていただけなのだろう。だから気落ちしなかったに違いない。
「でもありがと。凄く嬉しい」
そう言うと紫苑は実親に抱き着き、顔を見上げながら「これで通い妻は卒業だね」と揶揄うように囁いて白い歯をこぼす。
「家政婦としてこき使ってやる」
「えー、そこは可愛くて甲斐甲斐しい奥さんって言ってよ」
紫苑は唇を尖らせて不満を口にするが、冗談だとわかっていたので楽しそうに微笑んだ。
「急いでいたのに引き止めて悪かったな」
「ううん。引き止められた価値はあったから遅刻しても大丈夫」
「大丈夫ではないだろ……」
実親から離れた紫苑は全然大丈夫じゃない遅刻の理由を堂々と言ってのける。
胸を張って謎の自信を顕にする紫苑の姿に、実親は肩を竦めながら「バイト先にそんな言い訳は通用しないだろうに……」と胸中でツッコミを入れた。
「それじゃ今度こそ行ってくるね」
「ああ」
話が一段落したところで紫苑は片手を振りながら階段を下りていく。
そんな彼女の背中を実親は温かみのある眼差しを向けながら見送る。
実親に見送られた紫苑は安心感に包まれて心と足が軽くなった気がした。
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