第83話 荷造り
二日後の正午。
実親と紫苑は藤沢市にあるアパートの一室にいた。
二人がいるのは紫苑の自宅だ。
紫苑の母が不在のタイミングを見計らってやって来ている。
何故彼女の自宅に実親がいるのか。
それは紫苑に頼まれたからである。
合鍵を貰った紫苑は今後生活する拠点を実親の自宅に移すことを決めた。
普段から泊めてもらうことが多かったので最低限生活に必要な衣類や日用品は置かせてもらっている。しかし、完全に生活の場を移すとなると着替えなどが心許ない。
夏休みが終わったら教科書類も必要になる。毎朝藤沢の自宅まで取りに戻るのは手間だし、そもそも出来る限り帰って来たくないのが本音だ。
故に今後必要になる物を自宅から全て運ぶ出すことにしたのである。
そして実親がついて来ているのは荷運びの手伝いとボディーガードが目的だ。
主に後者の役割に重きを置いている。
母が不在のタイミングを狙ったとはいえ、完全にスケジュールを把握している訳ではないので遭遇してしまう可能性もある。
母だけならまだ良いが、もし男連れだったら三日前の件を思い出して荷造りどころではなくなってしまう。しかも三日前に紫苑のことを襲った男を連れて来る恐れもある。なので万が一のことを考慮して実親に同伴をお願いしたのだ。
「付き合わせてごめんね」
「気にするな」
仕事があるのに付き合わせてしまっていることに紫苑は罪悪感を抱くが、実親は心配だったので断る理由がなかった。
寧ろ自らついて来る気だったので紫苑が申し訳なさそうにする必要などないと思っているくらいだ。
「それよりも一応急いだ方が良いんじゃないか?」
実親は想像していたよりも綺麗な室内に視線を巡らせながら告げる。
紫苑の話を聞いた限りでは私生活がだらしない母という印象があったので意外だったのだ。
散らかっている家に男を連れ込めないだろうし、見栄を張りたいということなのかもしれない、と実親は結論付けた。
勝手に決めつけているが、娘のことを省みない母親のことを気に掛ける必要などないと冷酷にも切り捨てている。それだけ実親が紫苑の母のことを酷評している証拠でもあった。
「そうだね。あの人が帰って来たら面倒だし急ごう」
紫苑は自分の母親のことを実親がこき下ろしているとは露知らず、苦笑交じりに頷いた。
自宅に帰って来たのにのんびりすることも出来ずに慌ただしくしなくてはならないことが複雑なのかもしれない。心情が顔に現れてしまうのは無理もないだろう。
いずれにしろ母と出くわしたくないので、急いで荷造りしなくてはならなかった。
「私の部屋ここだから、悪いけど黛は教科書と課題を纏めてくれない?」
「わかった」
実親を自室へ案内した紫苑は机に視線を向けながら手伝いをお願いする。
教科書と課題を纏めるように頼んだのは、どれが必要な物か実親でも判断出来るからだ。尤も二人は別のクラスなので担当教師が異なる為、出されている課題に違いがある。なので一応紫苑に確認を取らなくてはならなかった。
自分で生活費を賄っているからか女子高生にしては物が少ないシンプルな室内で、二人は時折会話を交えながら手早く荷造りしていく。必要最低限の物しかない室内はなんだか物悲しさを感じる。
「そういえば合鍵を渡しておいてなんだが、親に何も言わずに家を出ても問題ないのか?」
ふと思い至ることがあった実親は手を止めてしまったが、それは一瞬のことですぐに荷造りを再開して手元に視線を向けながら紫苑に声を掛けた。
確かにいくら娘に関心の母親とはいえ、娘が全く家に帰って来なくなったら疑問を
今までは外泊することが多いだけだったが、私物がなくなっている上に帰宅している気配もなければ流石に娘を気に掛けるかもしれない。
万が一騒ぎ立てて警察沙汰にでもなったら大変だ。実親の指摘は尤もである。
「んー、大丈夫だと思うけど……」
紫苑は顎に手を当てながら考え込む。
「仮に私のことを気に掛けることがあっても、多分あの人のことだから男の家に入り浸っているんだな、とか思って深く考えないんじゃないかな」
考え込んでいた時間は数秒のことで、紫苑はすぐに溜息交じりに呟いた。
「まあ、それは事実だし、そう思ってくれればこっちも都合良いんだけどね」
「そうだな。だが、それでもせめて一言くらい伝えておいた方が良いんじゃないか?」
紫苑が男の家に厄介になるのは事実なので、推測通り母親に男の家に入り浸っていると思われても不満はない。寧ろ好都合だ。
しかし、どんなに良く思っていない相手でも母親という事実は変えられない。彼女にとってはたった一人の母親だ。
「それは確かにそうだね。後々面倒なことになったら
「そうなっても俺は構わないが、考え
実親の諭すような声色に紫苑の表情には真剣味が増す。
「まあ、今すぐに決めなくても良いだろうし、落ち着いてから考えてみたらどうだ?」
暫くは母も娘が外泊していると思う筈なので焦って決める必要はない。
だが一ケ月、半年と帰宅しない日々が続いたら流石に疑問を
「わかった。ちゃんと考えてみる」
いくら実親が面倒事になっても構わないと言っているとはいえ、紫苑としては迷惑を掛けたくないのが本音だ。それにそこまで彼の厚意に甘えるつもりはない。
故に「一言告げるくらいならそんなに負担じゃないしね」、と前向きな思考になっていた。
「ありがとう」
実親が自分のことを真剣に考えてくれていると実感した紫苑は嬉しくなり、無意識に口から感謝の念が零れた。
「気にするな」
一見すると実親の返事は素っ気なさそうに感じる抑揚のない簡素なものだったが、紫苑にとってはそれが安心感を与えてくれる魔法の言葉になっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます