「いい大人が、子供に向かって言っていいことと、悪いことくらい、少し考えれば分かることだろう! どうして子供を犠牲にしなくちゃならない!」


言えば言うほど、自分の身に返って来るのに、妻を責めるのをやめられなかった。妻を殴る手を止めてしまったら、俺が自分を保っていられないような気がして、妻を殴り続けた。夫としても父親としても最低だと分かっていた。男としても人間としても最悪だと認識していた。やっと俺の手が止まったのは、妻が鼻血を垂らしていることに気付いてからだ。黒髪にまみれた白い肌に、赤い血は、恐ろしく映えていた。俺は自分のしたことの恐ろしさに、震えながら立ち上がった。


「す、すまない。大丈夫か?」


情けないことに、声まで震えていた。俺がボックスティッシュを差し出すと、妻は泣きながら、乱暴にティッシュを数枚引き抜いて鼻にあてがった。


 そこに、小さくキィッっと何かが軋んだような音がした。俺が振り返ると、そこには翔の姿があった。翔の目は大きく見開かれ、口も悲鳴を上げる寸前のように開いていた。


「違うんだ。これは違うんだよ、翔、な?」


俺の言い訳を聞くなり、翔は逃げ出すように階段を下りて行った。階段のすぐ下には、固定電話がある。


「待ちなさい! 翔!」


俺がベッドを踏み越えた時には、翔が110番に電話をかけていた。救急車で妻が運ばれ、俺は警察署に連れて行かれた。手錠こそなかったものの、警察に挟まれて連行されるのは気分がいいものではない。しかも、パトカーの中にはどこか「またか」という呆れた雰囲気があった。もちろん、妻の姿を見ているから警察官としては、いくら頻発しているDVとはいえ、一件一件誠実に向き合うだろう。俺は翔にとんでもないことを見られてしまったことや、翔に通報させてしまったことがショックで、自分のこれからのことなど、考えられもしなかった。


 取調室に入った俺は、筆記具を持った警察官と、何も持たない警察官の二人に向き合っていた。言葉こそ丁寧な対応だが、この威圧感には耐えられそうになかった。説明を求められるまま、俺は妻に今晩暴力を振るってしまったことを、正直に話した。この時には、初犯だから、注意喚起くらいで許してもらえると、甘い考えを持っていた。ところがそれは甘かった。警察から妻の状態に関する情報が入り、妻が俺から常に暴力を受けていたことを告白したのだ。その証拠に、妻の体には複数の痣があったという。


「嘘だ。嘘です、そんなの!」


俺が立ち上がってそう訴えると、警察官に落ち着いて座るように指示された。俺は慄然とした。誰かが俺を嵌めようとしている。妻の体に痣なんて見たことも聞いたこともない。確かに翔が産まれてからは、妻の裸を見ることもなくなっていたが、今まで痛がる様子もなかった。警察によると、痣は古いものから新しいものまで、大小さまざまあったという。そしてその痣の全ては、服に隠れる位置にあったらしい。俺の妻に暴力を振るっていた奴は、俺よりも冷静に妻を傷つけ、見つからないように巧妙に痣を作ったのだ。言い逃れができないと悟った俺は、全ての罪を被って警察署にしばらく厄介になることにした。




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