一人息子
それからは坂を転げ落ちるように、妻との関係は悪化していった。低いところに水が流れるというように、あっという間に険悪な雰囲気になり、俺はたびたび妻に暴力を振るい、妻も罵詈雑言で俺を罵るようになった。そんな中、希望として生まれてきたのが男児だった。俺と妻はその子に翔と名付けて、一緒に子育てをした。子は鎹とはよくいったもので、翔が幼い頃は、最悪な夫婦仲が嘘のように仲睦まじい親子関係、夫婦関係が続いていた。
しかし、翔が中学校に進学する頃から、様子がおかしくなった。翔の表情が暗く、妻の立てる物音に、怯えているような目をしていた。妻が風呂に入っている間に、翔に何があったのか聞いてみると、俺の危惧していた答えが返ってきた。
「母さんが、怖いんだ」
俯いた翔は、震えるように声を絞り出した。
「成績が悪いのは認めるけど、交友関係にまで口を出されて」
その先は怖くてきけなかったが、翔は自分ひとりで抱えきれなくなったのか、吐き出すようにその先を言った。
「僕の人格まで、否定して。結局、母さんは僕より体裁が大事なんだ」
そんなことはないと、すぐに言いきってやればよかったのだが、不甲斐ない俺はそうすることができなかった。沈黙した俺に、翔は部屋を出て行ってほしいと言った。我が子に失望されたと思った時には、もう遅かった。
寝室で妻が風呂から出てくるのを待った。妻の長い黒髪は濡れていて、タオルでもみくちゃにされていた。方にタオルをかけたままの妻が、ドライヤーを手に取った。その手を、俺は鷲掴みにした。
「何よ?」
不快そうに俺を見上げる妻は、すっかり間違った方向に強くなっていた。控えめで我慢強い印象は薄れ、ヒステリックな女になっていたのだ。俺がそうさせたのか。それとも、この家がそうさせたのか。はたまたこの土地がそうさせたのか。
「翔に毎日怒鳴って、プライバシー侵害をして、人格を否定しているというのは、本当か?」
蝉の声が蛙の声にとって代わり、沈黙を埋めていく。周りには田畑が広がり、田植えの済んだ畑には大きな蛙たちの楽園が広がる。畑に植えられた作物たちは、野生動物の食害に怯えている頃だろう。妻は、小さく声を上げて嗤った。
「だったら、何?」
「お前……!」
俺は妻の横顔を、強かに打った。妻は大袈裟に椅子ごと床に倒れた。濡れたままの髪が妻の頬に貼りつき、狂気の宿った目は、ホラーじみている。俺は、誰かを打ったことはこれが初めてだった。妻は気でも狂ったのか、声を上げて嗤い続けていたい。そして、俺を見ながら勝ち誇ったように言った。
「プライバシーはここではなくて当たり前。そう言ったのは、誰だったかしら?」
これは言質を取られたことに瞠目したが、それが悔しくて何も言えなかった。
「人格否定も、あなたの十八番じゃない!」
そう言われた瞬間には、また妻の頬を平手打ちしていた。終いには、床に転がる妻に馬乗りになって、天に向かって唾を吐き続けた。
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