回覧板


 義母に、朝起きるのが遅いことを注意されたのがきっかけだった。義母はこの家の中ではルールを体現している存在だったのだ。義母は早朝に起きて、朝食前に全ての家事を片付けることを日課にしていた。そこに、夫が起きて来て、私のことを「彩は御嬢様なんだから」と言った。私は蒼白な顔で、夫を振り返った。夫はそれで私を庇ったつもりなのだろう。しかしその言葉が、刃となったことは明白だった。軽くめまいを感じたが、そこは私が義母に謝るしかなかった。


 翌朝から早起きをして、義母と共に家事をするようになった。夫は仕事と地域の役員を両立させるために、外に出ていることが多かった。義父も早起きで、雪かきをしていた。私は早くこの家のリズムに慣れなければと、必死に働いた。それでも、誰も褒めてくれなかった。会社に勤めていた頃は、一日に何度もお礼を言ったし、言われもした。しかし、家に入ったからには、やることは全て当然のこととして、誰かから感謝されることはないのだ。結婚前まで笑顔の絶えない夫も、私が家事を義母と一緒にするようになってから、無口で無表情になった。たまに早く家に帰って来ても、「疲れているから」と、私の愚痴一つ聞いてくれなかった。


 そんな日々が続いたある日、夫が回覧板を忘れていた。地区の会議や集会のお知らせは、この回覧板で周知されることになっている。私はやっと家以外の人と関係が持てるかもしれないと、隣の家に回覧板を持って行った。雪国の玄関は二重になっている。雪が玄関を押しつぶさないようにするためにも、また防寒、雪かきグッズの置き場としても重宝される。私はお隣さんの一枚目の玄関扉を開けて、インターホンを押す。回覧板を持って来たと告げると、やっと二枚目の玄関扉を開くことが許された。


「回覧板です」


青いバインダーの雪を払って、お隣さんの奥様に渡すと、顔をしかめられた。


「あなたはもしかして、お隣のお嫁さん?」


私は挨拶が遅れたことに気付き、慌てて自分の名前を名乗った。しかし、それでも奥様は顔をしかめたままだ。そして、早々に「気を付けて帰って下さいね」と言われた。義母に、ここでは客には茶を二回出すのが礼儀だと聞いていたが、回覧板だけでは客と見なされなかったのだろう。そう思って気にしていなかったが、ふと、お隣さんを出た時に奥様と男性の声がした。


「ほら、さっきの小野さんのお嫁さんよ。お嬢様気質で働かないって言う」

「律君は優しいから、変な女に捕まったもんだよ」


雪が降り続く中で、私は体が熱くなった。息が白く吐き出される。動かなければ、盗み聞きしたと言われる。だから、早く家に戻らないと、と思うのに、足が前に進まなかった。たまらずに、帰って来た夫にそのことを言うと、ため息を吐かれて、「そんなことか」と軽くあしらわれた。夫が言うには、ここではプライバシーなんてないのと一緒だという。雪かきの合間に世間話が行われ、その中で情報交換がなされることは、暗黙の了解らしい。しかも、身内の悪口はそこで広まるのが常だという。


「皆、本気にはしてないよ」

「嘘よ。私、今日お隣さんから悪口言われたんだから」

「気にするなよ。そんなこと」


夫は舌打ちをした。このことで、私の中で何かがぷっつりと切れた。





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