第9話:理想の心と矛盾の苦痛
結局僕は自分のリズムを取り戻せず、1週間以上学校を休んだ。何もする気が起きなかったというのもあるし、家から出られなくなっていたというのもある。
誰かが拘束しているとかではなく、単に気分的な物かもしれない。要するに気が乗らない。
しかも、その家というのが自分の家ではなく五十嵐家だから
日々何もしない僕を見て、鉄平氏も天乃さんもさぞガッカリしていることだろう。ただ、一番ガッカリしているのは僕自身なのだ。
たった一人の肉親を亡くしただけでこうもダメージが大きいとは。世の中の人はどうやって乗り越えているんだよ。
「ねえ、このTシャツなんとかならない?」
日曜日の昼間、天乃さんが僕のTシャツを持ってリビングにいた僕のところに来た。そのTシャツはまだそんなに古くないし、十分着れるけど?
「真っ黒のTシャツに銀色の英単語ってこのセンス……しかも、単語が『feel me,quench me,I 'm pervert.』って見たこともない英単語なんだけど、めちゃくちゃエロい言葉じゃないの!?」
そうなのだろうか。言葉の意味なんて考えたことなんてなかった。
「せっかくの日曜日なんだから、ちょっと外に出たら?服買いなさい、ってお父さんからお金預かってるし」
居候させてもらった上に、何も仕事をしない上に、服まで買ってもらったら、それはもうヒモでしょう。さすがに申し訳なさすぎる。あと、出かけたくない。
「ほら、この気持ち悪いTシャツ着て!今日は服買いに行くわよ!」
そういえば、天乃さんは良い恰好をしていた。僕のTシャツにいちゃもんを付けた時点で既に出かけるつもりだったみたいだ。
彼女の目論見通り僕は連れられて買い物に出ることになった。一応家族と考えれば「買い出し」なのだけど、ほんの数日前まで出会ってすらいなかった女子。「デート」という言葉もちらつく。
その存在は学校で聞いたことがあったけれど、自分には関係ないと思っていた、いわゆる「学校のアイドル的存在」。一緒に買い物に行くとなると否が応にも意識せざるを得ない。
僕は地下鉄に乗って一番の繁華街「天神」に連れ出された。天神と言えば地元で一番の繁華街。県内どころか九州内から人が集まる場所だ。
人はうじゃうじゃいる。東京とか大阪ほどではないだろうけど、それなりに人が多い。こんなとこで知り合いに会う確率はほぼゼロ。天乃さんと歩いていても学校の人に会うことはないだろう。
繁華街なので当然、服屋さんはめちゃくちゃたくさんある。僕だってそんな店を見て回ったことはある。
ただ、これまでほしい服は見つからなかった。最初に値札を見て、金額を確認してから、諦める。そんな選び方だから、2〜3着見たら「この店に僕が買えるものはない」と判断がついて別の店に移動……こんな感じだった。
結局、チェーン店の安い服を買う感じ。母さんが買ってきた服をそのまま着ることも少なくなかった。
自分で服を選ぶというのは考えてみたら、これまでに経験がなかった。少なくとも意識したことがなかった。
「これなんかどう?」
天乃さんが持ってきてくれたのは、今僕が着ているのと同じように黒いTシャツ。違いと言えば、襟の部分がV字になっているのと、無地と言いう事くらいか。
いつもの様に値札をみると8,600円!なに、これは……この価値が分かる人が買うべきだ。
「パンツはこれを合わせたらいいんじゃない?着てみて」
えー、買いもしないものを着るのはめんどくさい……ただ、天乃さんには迷惑かけっぱなしなので、
「うーん、まあ、いいんじゃない?」
試着室を出た僕に天乃さんが言った。まあ、ぱっとしない僕が着て「まあいい」ならいい方じゃないだろうか。値段以外は。
「じゃあ、この調子で2~3着選びましょ」
「ちょ、ちょ、ちょ!こんな高いの買えないよ」
「大丈夫よ?お金は預かってるもの」
「いや、そんな高いやつは……」
「でも、これまで買ってもらってないんでしょ?ちょっとくらいいいTシャツ買ってもらってもバチは当たらないわよ」
そうは言っても……僕の精神的ダメージが大きいんだ。恐らく、彼女の家は僕の家より裕福なのだろう。同じ父親を持つ子供として、同じだけの恩恵を与かるべきだと言っているのだろう。
そして、これまで何も受けていなかった僕は彼女よりも大きな恩恵を受けても妥当だという意味だと理解した。
これが間違っていないとしたら、彼女は正義の人なのだと思う。だけど、そんなの現実的じゃない。彼女は理想を実現しようとする正義の人に思えた。
「すごくいいセンスだと思うんだけど、価格が高すぎて気後れしてしまって普段使いできないよ。よかったら量販店の方でもう一度選んでもらえないですか?」
「もー、しょうがないわね。貧乏性ね」
文句を言いながらも、希望をかなえてくれる当たり彼女は相当面倒見もいいみたいだ。うちの高校のアイドルなんて前評判だったから、悪い意味でお高く留まっているイメージもあったけど、すごく好印象だった。
「あと、髪ね。すっごくボサボサ。いっつも行く美容室があるから切るわよ」
「え!?」
僕はいつも1,000円カットに行っていた。また高そうなところに行くんじゃ……
『カット12,000円』
だから、どうして、何もかも高いんだよ!?天乃さんってプチお嬢様!?店の前で抗議の視線を送ると、明後日の方を見て口笛でも吹きそうなジェスチャー。
「分かっててわざとやってるな!」
天乃さんはぴゅーっと逃げて行った。お茶目な面を見せられて彼女の人となりを知った気がした。
***
それでも家に帰ると、あまり話してくれなかった。僕がリビングのソファに座っていたら、なにも頼んでないのにコーヒーは淹れてくれたし、嫌な態度などはない。つまり、彼女自身矛盾を抱えていて消化しきれないのだと予想した。
僕とそれなりに交流は図りたい。だけど、それは彼女の母親を裏切る行為。そんな矛盾を抱えたまま、消化できないのだ。
彼女は、5人は座れそうな長いソファの反対側に座った。お互い同じ方向を向いているから、お互いの顔は見えない。
彼女の伝えたいことは、僕に向けられるものではなく、もっと他の人に向けられるものだと思う。言いたくても言えない。だから、彼女は消化しきれない。
「あの……」
「なに?」
「手紙を書いたらどうでしょう?」
「手紙?」
「そう、口で言いにくいことは手紙で伝えるんです」
「誰に?」
「鉄平さんと……お母さんに。今の気持ちを伝えたい人へ」
「…そう……ね」
「亡くなった人へ手紙を受け付けているサービスもあるそうです。よかったら調べますよ?」
「うん……」
天乃さんはその後、ソファで膝を抱えて声を殺して泣いていた。
こんな時、ハンカチの一つも手渡せたら僕も物語の主人公になれるのかもしれないけど、あいにくハンカチを持ち歩くほど上品ではなかった。
だから、僕はただ黙って座っていた。
彼女は誰かに傍にいてほしかったのかもしれない。泣いているのを悟られたくなかったら自分の部屋に引きこもるはずだから。
そんな後付けの理由を準備して、意気地がなくて動けないでいた自分の行動を正当化した。
彼女の心は清らかだ。彼女自身アイドル的に理想を目指しているのかもしれない。事象は彼女の外の話。彼女だけの努力では解決できない矛盾を孕んでいた。そんな時は、関係者を巻き込んで解決するしかない。
彼女は後日、鉄平氏に手紙を書いた。事情は分からないけれど、母親を裏切ったのならば母親に謝ってほしい、と。そして、母親にも手紙を書いた。そちらの内容は教えてもらえなかった。
さらに、僕にも母さんに手紙を書けとのご命令だった。確かに、僕自身今の状況を受け止めきれていない。母さんとの別れに十分な時間が取れたとも思えない。物は試しにと書いてみることにした。
天乃さんの手紙を読んだ鉄平氏は、天乃さんの目の前でお母さんの仏壇に手を合わせて謝っていた。苦笑いの様な、喜んでいるような……これで、彼女の心の苦痛がいくらかでも緩和されれば……
「はい、じゃあ、この件は終り!夕飯作るわよ!流くん、材料買いに行くから付き合いなさい!」
気持ちを切り替えるように、元気に言った。天乃さんの提案に、どうも僕には拒否権は無さそうだ。無言の肯定。
「なににする?カレー?」
カレーなのに天丼だった。僕は、いつぞやの落語の話を思い出していた。
僕は天乃さんに一方的に迷惑をかけているばかり。彼女の厚意に甘えてばかりの存在だ。僕と彼女の出会い、そして、関係はこうして始まった。
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