第43話 アイデンティティ

 ――気が付けば、アヤメはとあるサンドイッチ店の席の一つに座っていた。


 西洋風の店に袴の格好はどこか浮いていたが、店には彼女の他に一人の女性客しかいない。その人はアヤメと同じ黒髪を一本結びだった。椅子の背もたれにコートを掛け、優雅にサンドイッチを口に頬張っている。


「……あの」


 アヤメが恐る恐る声をかける。女性は隣の席を指し、近くへ来るように促した。言われた通りにすると、彼女はにこやかな笑みを浮かべて皿の上のサンドイッチ――先程彼女が食べていた残り半分――を差し出してくる。

 彼女はアヤメと全く同じ顔だった。そして、アヤメより少し微笑み慣れていた。


「久しぶり、もう一人の私……というのは面倒だから、アヤメって呼んでも良い?」

「ああ、構わないが……貴女は」

「私は『東雲しののめ 亜理沙ありさ』。妹の面倒を見てくれて、ありがとう」


 亜理沙は頭を下げてアヤメに感謝を伝える。一方の彼女はきまりが悪そうに俯いていた。


「……すいません、妹さんに、勝手なことをしてしまって」

「いいの。アヤメも私と同じで、京華のことが好きだったんでしょ?」


 二人でそれぞれサンドイッチを食べながら、しばらくの時間を一緒に過ごす。店の外からはビルの再開発の音が聞こえてくるだけで、二人を邪魔するものは何もない。

 食事を終えた後、亜理沙はアヤメの頬にそっと手を当てる。


「でも不思議。私より少し格好いいのかな。なんか嫉妬しちゃう」

「私は、そこまで褒められるような人では」

「謙遜しないで。貴女は私なんだから、もっと自信持って欲しいんだけど」

「……分かった」

「それで、どうして私のところに来たの?」

「そうだった。いくつか、聞きたいことがある」


 アヤメが息を整えていると、ふと、誰かが自分の名前を呼んでいるような気がした。時間は残されていないのかもしれない。単刀直入に、アヤメはこう切り出す。


「スズは、京華は、どうなった?」

「京華ちゃんは、自分が作った『地獄』で苦しんでいる」

「地獄……どうにか、助けられないか。じっとしていられないんだ」

「私もそうだよ。でも、今の私には、京華のところへ行くのに必要な『思い出』がない……あの子が自分を許して、ここへ来るまで待つことしかできないの」


 悲しい表情を浮かべながら、亜理沙は諦めたような声色で零す。アヤメは彼女と一緒に黙り込むが、ほんの少しでも可能性のある方法を思いついて亜理沙を向いた。


「……私の記憶を、貴女に託す」


 アヤメは、亜理沙の肩をそっと掴んで引き寄せた。知っているのか、亜理沙は顔を赤くしながら頷いた。二人は唇を重ね合い、亜理沙は、アヤメを通じて京華との思い出を辿る。

 初めて会ったあの日から、別れの瞬間まで――それを受け止めた彼女の顔が悲しいものへ変わっていった。口付けを終えた後、亜理沙は目を閉じたまま自分の胸元で拳を作る。


「……京華」

「本当に悔しいことだが、今のスズを心から救える人は、貴女しかいないんだ」


 その間にも、アヤメを呼びかける「声」が徐々に大きくなっていく。もう一人の自分のお願いを聞いた亜理沙は、今度は、自信に満ちた表情で頷いてみせた。


「分かった。これだけの記憶があれば、十分以上だよ」

「私は戻らないといけない。頼んだぞ」


 立ち上がったアヤメは店のドアに手を掛け、一度だけ、振り返った。


「……また、会えるか」

「遠くないうちに、きっとね」

「ああ。会えて良かった。亜理沙……」


 ドアを開けた先は光の海になっていた。

 ゆっくりと、アヤメが歩を進めていくと、身体中が暖かいものに包まれて……






「アヤメ!」「アヤメさん!」


 暗い、保健室のベッドの上で目を覚ましていた。

 仰向けの彼女の横では、涙目のカンナとナデシコが何度も名前を呼びかけていた。アヤメの蘇生に成功したことを知るや、二人はほっと一息をついて笑みを浮かべる。


「……師匠?」


 カンナは目の端に浮いた涙を慌てて拭うと、いつものようにけろりとした表情に戻って、起き上がったアヤメを優しく抱きしめた。カンナの身体はとても暖かい。


「ナデシコ、次はスズちゃんを頼む。奴はもう『上洛』を始めている」

「わかった!」

「師匠、いったい何が……」


 再会を喜ぶ間はないようだ。カンナはすぐに仕事人の表情に変わって窓の外を指さす。そこでは――南東大門路では、人々が道の両端に集まって熱狂していた。


「ナデシコが、お前をこっちに戻してくれたんだ……二人がいない間、シェン・ウーは計画の最終段階――幽灵中心への侵攻を始めている」

「侵攻!? そんなことしたら……」

「ああ、ただじゃ済まない。今行われている、南東大門路の車線を贅沢に使った、巨大な蜥蜴共のパレード……あれが中心へ入ったら、城塞全体が戦乱になって収拾がつかなくなる!」

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