幽灵事変

第42話 さいかい

 四畳半の狭い和室。

 外の庭園から川の音が聞こえる中、一人の女が目を閉じて正座していた。


「……ん」


 白い道着に、紺色の袴、そして流れるような黒髪の一本結び。大太刀こそ別に預けてあるが、彼女はかつてアヤメという名前で剣を振るっていたその人だった。

 池に水が注がれている音に混ざるように、誰かがこの部屋を訪れようと廊下の木板を踏んでいた。彼女は正座の瞑想をやめ、客人用の座布団を並べる。


「失礼するよ」「……! どうぞ」


 来客に戸惑ううちに引き戸が開く。すると、いつもの浴衣に身を包んだカンナが入ってきた。少し熱を持っていた彼女はアヤメに案内されるまま座布団に着き、彼女が差し出した冷水を飲んで気分良さそうに声を上げた。


「あー、冷える。ったく、とんでもねぇ目に遭っちまった」

「師匠、何故、貴女がこんなところに……」


 アヤメは、ここが生死の堺を超えた先の世界――死後の世界だと感づいていた。だからこそ、最強の剣豪であるカンナがここにいることが信じられていない。

 呆然としている彼女を見て、カンナは何も気にならない様子でケラケラと笑う。


「ちょっとした休憩時間だよ。せっかくだから、アヤメの世界を見たくてね」

「……本当に、申し訳ありません」

「なんで謝るんだい」

「私は、自分勝手なことをして、師匠からの命令を……」


 シェン・ウーを後ろから刺した直後に訪れた、彼を倒す絶好のチャンス。アヤメはそれを放棄して京華を助ける道を選んでしまった。

 腿の上に拳を作り、正座のままアヤメは涙を流し始める。カンナは何も言わず、アヤメの隣へ移動すると、腕で包み込むように優しく抱きしめた。


「アヤメはよく頑張ったよ。私の誇りだ」

「ありがとう、ございます……」

「スズちゃんから聞いた。最期は、彼女を逃がすために頑張ったんだろう? いいことじゃないか。アヤメは自分で考えて、為すべきと思ったことをしたんだ。私も鼻が高いよ」


 アヤメは自分からも腕を伸ばし、カンナの胸元へ飛び込んだ。懐かしい感覚だった。幽灵に来て間もない頃、よくこうしてもらっていたと思い返す。


「……それと、そうだ。アヤメには謝らないといけないことがあった」


 額に口付けを済ませてから、カンナは言葉を探すように低い声で唸る。しばらく経った後、ようやく彼女はアヤメと目を合わせ、僅かに顎を震わせた。


「アヤメには、本当に辛い思いをさせた――勿論、これはあとでスズちゃんにも言わないといけないけどね。二人に最後のメールを送る時、私は、旅の結末がこうなると知っていたんだ。でも、二人は神話の当事者だ。このことを話せば、幽灵を救えない未来に変わるんじゃないかと思って、言えなかった……」

「……師匠がそう考ええてくれていたなら、私は、非難できません」

「それに、私は、孤独が怖いんだ。二人の死を認められなかった。でも、あまりに何も言わないからスズちゃんには怒られちゃったよ。それで、もさせられてしまった」


 その言葉の意味をアヤメが理解した時、京華に何が起きたかまでを把握したようだった。不安の影が差した彼女を慰めるようにカンナは頭を撫で、今度は頬へキスを贈る。


「私は、物を言わなさすぎたな。許してくれ、なんて頼めない……」

「いいんです。もう、終わったことですから」

「終わった? ああいや、そうでもないんだ」


 カンナは、雰囲気を変えるようにアヤメの肩をぽんと叩く。何かの冗談かと思われる口調だが、カンナはこの状況で嘘をつくような人ではない。


「しばらくしたらまた呼ぶから、会いたい人がいたら会っておくんだぞ。死んだ奴と話ができる機会なんてそうないからな」

「それってどういう……」

「そうだ、最後に、久しぶりのキスをさせてくれ。きっと、目が覚めたらアヤメはスズちゃんの女になっちゃうからね。ああ、本当に寂しくなるなぁ……」


 カンナは、アヤメと優しく唇を重ね、名残惜しそうに舌を絡める。これまでに癖でしていたような、遊ぶような動きではない。最後に「アヤメ」を確かめるようだった。

 アヤメの不安や焦燥感が、行為の中で溶けるようになくなっていく。長い絡み合いを終え、カンナは娘を見守る目でアヤメの頭を撫でた。


「たまには、私のところに顔を見せてくれよ。女人街の門番には伝えてあるから」

「師匠……」

「それじゃ、また『あっちの世界』で。呼んだら来るんだぞ、心配するからな」


 何が起きたか分からない様子のアヤメを置いて、カンナは和室を出て行ってしまった。会いたい人がいれば今のうちに、と言われていたことを思い出したアヤメは、京華よりも先にあの人の顔を思い浮かべていた。

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