第38話 朝に道を聞かば
灵南第三高級中学、屋上。赤錆びた金網フェンスはところどころが破れ、変形した貯水タンクには黒い穴が空いている。端に佇む空調の室外ユニットはそのどれもが機能していなく、屋上の隅に立つ電灯が周りを寂しく照らしていた。
南東大門路を見下ろせるこの場所に、蛇の顔を持つ男はいた。
無言のまま、京華とアヤメはおよそ二十メートルの距離で立ち止まる。一触即発。先に京華が口を開くも、揺れる声に普段の優しさは感じられない。
「……貴方さえ、いなければ」
「聞きたいことは山のようにあるが、ここで貴様には消えてもらう」
「良い顔になったな……
二人は何も言わずに武器を構える。それを前にしてシェン・ウーは鼻で笑った。彼の両手に生成される、握りの先に鋭角状の刃がついた得物。ジャマダハルだ。近接格闘の延長で突きと斬撃を繰り出すそれは、彼の獰猛な性格を暗示している。
「では、幕引きといこう。貴様らの旅は、
先に狙われたのは京華だった。シェン・ウーは地面を蹴らず、身体を浮かせたように詰めて彼女の心臓を狙う。出遅れた京華が身体を捻ると、セーラー服のスカーフが刃に掠った。これまでの相手と全く違う。攻撃の時に必ず生じるはずの殺気が読み取れない。
煙を相手しているようだった。
だが、場当たり的でも京華はその動きを寸前で見切り、地面を滑るように間合いを取る。隙を突いて柳葉刀を突き出すが、簡単に躱されてしまった。
「成る程、これが見えるか」
横からアヤメが加勢する。大太刀のリーチを生かした突きだ。先程の意趣返しを食らわせようとするが、シェン・ウーの身体が吊り上げられたように宙を舞う。重力を感じさせない振る舞いだが驚く時間はない。すぐさまジャマダハルの刃の一撃が落とされる。
剣戟。大太刀の
「成長したな、明花の救世主……だが実力は足りない。気配を殺せてないぞ」
「ぐっ……!」
「二人仲良く
周りの空気がシェン・ウーの身体へ流れ込む。
次の瞬間、彼を中心として、紫色の光と共に「爆発」が起きた。
「やっ……!」
爆炎の突風で二人の身体が巻き上げられた。京華は咄嗟に受け身を取る。光と風が止んだ屋上で、男は不敵に笑いながら彼女たちの再起を待っていた。
陰と陽、対立する二つの気を練り合わせて瞬間的に莫大なエネルギーを発動させる技――操気の術を知る最中の京華には、それくらいしか分からない。
「絶対に、負けないっ!」
一度目が駄目なら二度目を繰り出すまで。京華は柳葉刀に陽気を纏わせながら再び立ち向かう。だが振り下ろす寸前にジャマダハルの刃が柳葉刀の峰を強打し、敵を前にした京華の身体がふらついた。
がら空きになった胸元へシェン・ウーの蹴りが入る。重い一撃で鮮血を吹いた。
「がっ……!」
「肺をやられたな。次に食らえば、死ぬぞ」
「げほっ、ぐふ……ああぁ、はあっ!」
勝負の天秤は一気にシェン・ウーの方へ傾いた。
呼吸が不自由になった京華。それでも柳葉刀を握り、二本の脚で立っている。見開いた目の奥には憎悪の炎が燃え、修羅の如き顔で敵を睨み付けた。
まだ、終わってない。京華の口が、その形に動く。蛇の男は得物を紫に光らせ、狡猾な笑みと共にどう甚振ろうかと思案していた――
「――私を、忘れてもらっては、困るな」
京華が道連れを考え始めた時、シェン・ウーの腹部から大太刀の刃が貫通した。遂に攻撃が通った。そう思った京華は、男を貫いた彼女の姿を見て悲鳴を上げる。
そこにいたのは、頭から真っ黒な血を流した、痛ましい姿のアヤメだった。彼女の背後には、黒い血でべっとり濡れた貯水ポンプ。血の足跡がここまで続いている。
「アヤメちゃんっ……!」
「心配ない……少し、打ち所が、悪かっただけだ」
不意を突かれたシェン・ウーは最初こそ身体を強ばらせていたが、推測を終えると何らかの結論を得た様子で驚嘆の声を漏らしていた。アヤメは大太刀で腹を横に割き、辺りに赤黒い血を撒き散らす。常人なら間違いなく致命傷だ。
「そうか、お前は……道理で、気配に気付かなかったはずだ」
「慈悲はないぞ。ここで、死ね!」
残った力を振り絞ってアヤメが刀を振り上げる。ここで斬り殺せば全てが終わる――だが、向かいにいた京華が上げた悲鳴でアヤメの手が止まった。
「スズ……?」
「いやっ、やめ、てっ……!」
恐ろしく怯えた様子の京華。その喉元で、「彼女が持つ」刃が震えていた。
どういうわけか、彼女は手にした得物で自身を貫こうとしている。まるで何かに操られているように……アヤメは攻撃を放棄して駆け出した。
「アヤメ、ちゃん、たす、け、て……!」
京華の手を止めようとアヤメも反対側から引くが、刃をほんの少し剥がすだけに留まる。そこに込められた力は並大抵のものではなかった。アヤメの脳裏に、図書館での騒動や、高級中学で倒れていた毒蛇たちの姿が蘇った。
「――傀儡術か! だが何故だ、どうしてここまで強力なものを……」
「宵鬼の少女、お前には、感謝しなくてはならないな」
京華は刃から逃れるために一歩ずつ後ろへ下がっていく。屋上の縁まで追い詰められた彼女は死に物狂いで両腕に力を込め、アヤメも彼女を救おうと刀を引っ張っていた。二人が苦心している間、シェン・ウーは深い傷を負った腹を撫でて「治して」しまう。
「あの時、陽の地との電話を繋いでいたのは、お前だろう?」
「……な」
京華は状況を把握できていない。だが、アヤメの目からは光が抜け落ちていた。ゲンブの家で行われた通話に入っていたノイズ、もしかしたらそれは……
「聞いて、いたのか……」
「アヤメちゃん、電話って、誰と……」
「その子に伝えていなかったのか? 可哀想な奴だ、せっかく母が心配してくれたのに」
「やめろ! 戯れ言を、抜かすなっ!」
シェン・ウーが蛇の舌をちらつかせている。
アヤメの前で、京華は、明らかに動揺した顔になっていた。
「お母さんと、電話、できたの? いつから……」
「宵鬼の少女。お前はその子に頼られたかったのだろう? 彼女が頼る相手は自分一人だけでいい……そのような感情がなかったとは言わせないぞ。私には人の悪意が分かる」
京華の手から力が抜けていく。柳葉刀が抑えきれなくなる。
そして、遂に――。
「二人とも、酷いエゴを抱えていると思わないか……なあ、『キョウカ』?」
――柳葉刀が「アヤメの腹部」に刺さっていた。
目が覚めた京華は素っ頓狂な悲鳴を上げる。アヤメはふらつく脚で踏ん張ると、京華の両肩にそっと手を乗せて引き寄せる。泣きそうになっていた京華を、優しく、抱きしめた。
「アヤメちゃんっ、違うの、これは、そんなつもりじゃ……!」
「……聞いてくれ」
背後でシェン・ウーが笑っている中、アヤメは神妙な表情で、京華の耳元に囁きかける。
「今のお前では、奴には勝てないっ……逃げるんだ。そこから、飛び降りれば、下のゴミ捨て場が、クッションになる。強くなれ。奴に、悪意を、利用されるな」
「できないよっ、私も、アヤメちゃんと一緒に」「いいから行けっ!」
シェン・ウーが、二人の元へゆっくりと歩を進める。時間はもう残されていなかった。アヤメは京華を解放するが、彼女はてこでも動こうとしない。唇を噛みしめ、痛みに耐えながら、アヤメは意を決したように目を閉じた。
「スズ、お前がそんなことをする奴とは、知らなかったぞ……」
「アヤメちゃん! 待って!」
「妹のように思っていたのに! お前など……いなくなってしまえ!」
溢れんばかりの涙を浮かべたアヤメは、屋上のフェンスの穴へ向かって、京華を強く突き飛ばした。腐食していたそれは少女の体重を支えきれない。根元から折れるように、京華と共に屋上から落下していった。
アヤメが上へ遠ざかる。
京華は手を伸ばすが、落下の衝撃で気を失ってしまった。
「――まったく、哀れなものだな」
シェン・ウーのジャマダハルが、残されたアヤメの背中を袈裟切りにした。
アヤメの身体が崩れ落ちる。
それでも、彼女はまだ諦めない。腹部に刺さった柳葉刀の柄を持つと、それをひと思いに抜いてみせた。真っ黒な血が吹き出て道着と袴を汚していく。やがて、彼女の足元に溜まりを作った。
「死してなお、誰かの期待に応え続け、友を守り……涙を誘う人生だったな?」
「勝手に……言ってろ」
「二度目の死を前に、一つ聞かせてくれ。何故お前はそこまで戦える?」
アヤメの身体は既に硬くなり始めていた。それでも残った力で再び立ち上がる。頭の傷も相まって、「亡者」と呼ぶに相応しい格好となっていた。シェン・ウーを睨む目も白く濁り、もはや何の景色も映すことができていない。
京華の残した武器には陽気が残り、宵鬼であるアヤメの手のひらが焼けて煙を上げている。それでもアヤメは柳葉刀を手放さない。声を上げ、自らが倒すべき相手へ立ち向かった。
「私が戦う理由は」
「私が、
決して、シェン・ウーにとって避けられない一撃ではない。だが、アヤメが断末魔の一撃を食らわせる時、彼女に一人の少女の像が重なった。
「何だ、これは……」
それは、シェン・ウーが知らないはずの、亜理沙の影。
柳葉刀が敵を捉え、貫く――直後、アヤメの冷え切った身体が崩れ落ちた。
「京華」
五感が遠くなり、身体が動かなくなる。アヤメは、自分が尽くした少女の名前を呼ぶ。かすれた声だった。その声色はまさしく「東雲 亜理沙」のものだった。
「カンナ」
「ん、何かあったか?」
電気街を抜け、灵南スクエアの中を急いでいたカンナとナデシコ。突然、ナデシコが足を止めてカンナを呼んだ。表情は暗く、いつもの天真爛漫な様子は見られない。
「一人、反応がなくなっちゃった」「どっちだ」
「……宵鬼の方」
「ああ、そうか……っ、畜生……!」
震える声でカンナは唇を噛み、残酷な事実の前に目を伏せる。ナデシコも黙祷をしていたが、カンナは深呼吸を一つ済ませると普段通りの顔つきに戻った。
「立ち止まっていられないぞ、ナデシコ」
「……うん」
「まだ走れるな? これからは時間との勝負だ、行くぞ!」
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