第35話 決戦前夜

(また、あの日の夢を見た……)


 ベッドで目覚めた京華は頭を鬱に覆われたような気分になっていた。動きが鈍い感覚の中で身体を起こした彼女は、まず自分の指の様子を確認する。


(元に戻ってる)


 ひとまずほっとした彼女は次にアヤメの姿を探した。どれくらい自分は寝ていたのだろう。好ましくない態度を取っていたとは言え、一人で残されると寂しさが堪えてくる。

 肩を落としたままスマートフォンを確認すると、カンナからのメールが届いていた。タイトルは「ありがとう」。例の禁書庫突入にまつわる事件のお礼だった。


『スズちゃん、具合はどうかな。大体の話は他の人たちから聞いている。ガードの堅い場所へ忍び込んで、更には敵の刺客に立ち向かったなんて、随分と頑張ったじゃないか』

『おそらく、次の旅が最後になる。最終決戦だ。場所の特定と神話の解読がまだ終わってないから、もう少し、身体を休めておいてくれ。そのときが来たら頼んだよ』


 差し障りのない文を返して、京華はベッドを出る。窓際に立ってカーテンを開け、灵南スクエアが放つ光の洪水の中、飯店の周辺を見下ろした。近くにアヤメの姿はない。一人が耐えられなくなって、自分で自分の身体を抱き締めた時だった。

 部屋の扉が開き、スイッチの切り替えと共に明かりが点く。

 振り返ると、どこかの店の紙袋を手にしたアヤメが帰ってきたところだった。着ている道着と袴、髪は出発の姿よりも崩れて汚れている。


「アヤメちゃん、その格好、どうしたの――」

「私としたことが、派手に転んでしまってな。それより」


 不安げな表情を浮かべる京華に、アヤメは手元の紙袋を突きつけた。そこに書かれている「square sandwich」の文字を見た京華が、恐る恐るそれを手に取る。


「一緒に食べたかったんだ。開店まで少し待ったから、それで時間がかかった」

「食べる」


 あれほど話す内容に困っていたのに、京華はその質問には即答していた。

 ベッドに腰掛けて紙袋を開ける二人。中には、肉と卵とレタスを使った分厚いサンドイッチが二つ入っている。三角に切られていたそれは袋の底で一つの正方形を作っていた。紙袋の他にジュース缶もある。二人だけのささやかな食卓だ。


「それじゃあ、いただきます」


 テイクアウトしてきた店のサンドイッチを一緒に口にする。

 京華が満面の笑みですり寄ってくるのを、アヤメは目を細めて受け止めた。同じものを食べて同じものを飲む。そういった何気ない営みの中に幸せを覚えながら。


「アヤメちゃん、ほっぺにソースついてる」

「えっ? ああ、いつの間に」

「取っちゃうね。んっ――」

「あ、こらっ……」

「これ、こっちで食べたもので、一番美味しいかも!」

「良かった。実は最近、スズがずっと落ち込んでたから、心配してたんだ」


 京華の瞳が僅かに曇るが、優しい目を向けるアヤメの前で黙ることはできなかった。食べ終わった後、ティッシュで手を拭きながら、きまりが悪そうに小さな声で話し始める。


「……あのとき、私はまだ弱いんだって思ったの。みんな励ましてくれたけど、思い出す度に戦えない自分が見えちゃって、早く追いつかなきゃって」

「スズ……」

「いつまでも、アヤメちゃんに守ってもらうわけにはいかないから」


 ちょこっとだけ胸を張ってみせる京華。彼女なりに背伸びしているのを分かっていたアヤメは手を伸ばし、頭をそっと撫でた。


「強くなれるさ。私と師匠に技を学んでいるんだ。きっかけがあればすぐだ」

「ありがと。早く、一人だけで戦えるようにならなくちゃね」

「その時までは、私が守るからな」


 食事を終えた二人は身を寄せ合う。先を考えればきりがないが、この今に限っては、沸いてくる罪悪感やのし掛かる義務感が彼女たちを邪魔することはできない。

 京華はアヤメの襟を引っ張ると、一緒に横になろう、と声を掛けた。アヤメは照れくさそうに笑う。二人はベッドに入り、布団の中でそっと手を繋いだ。


「ねえ」

「どうした?」

「……キス、してもいい?」

「……ああ。勿論」


 枕元のスイッチが切り替えられ、部屋の電気が落ちる。

 闇に紛れるように二人は重なり、気の赴くままに互いを求め合った。


「アヤメちゃん、好き」

「私も……スズのことが……」


 窓の外の喧噪が遠くなっていく。

 天井では、ファンが静かに回り続けている。










 灵西女人街、ホテル桃源郷。

 応接室の上座にはカンナの姿があった。その前で、茶髪をサイドテールにしたチャイナドレスの女性と、黒髪を切りそろえたピンク服の女の子が座っている。普段の和気藹々とした雰囲気は消え、二人はカンナからの言葉を待っているようだった。


「インファ……深淵本部の特定、ご苦労だった。情報部の皆に感謝を伝えてくれ」

「勿体なきお言葉でございますが、必ずや」

「最後の仕事はさっきの通りだ。それと……ナデシコ」

「はい!」


 ナデシコは背筋を伸ばすと、きりっとした顔でカンナの呼びかけに応える。


「次の旅はお前も一緒だ。おそらく、ナデシコの能力が必要になる」

「がんばります!」

「良い返事だ。それじゃあ、そろそろ始めよう」


 カンナは立ち上がり、受付の女性に片手をあげて挨拶してから歩き去る。その後ろにナデシコが続き、残されたインファは自分の両頬を軽く叩いてから部屋を出た。


「ねえねえカンナ」

「なんだい?」

「そろそろ始めるって……何を始めるの?」

「あはは、そうだな、奴の言い方を引用するなら……」


 カンナの脳裏に浮かぶのは、闇の中で嗤う黒のローブを纏った影だった。


「あのクソババアが書いた物語の『最終章』だよ……ナデシコは、まだ覚えてるか?」

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