第34話 身体の記憶

 人の命とは何か、というのは、どこの世界においても重要なテーマの一つだ。

 その中の一つに「魂魄こんぱく」という考え方がある。人間の中には、精神を支える魂と身体を支える魄が同時に存在し、死後はそれぞれが別の行き先へ向かっていく、というものだ。

 ユーイェンはゆっくりと語りかけるように説明していた。向かいでは、アヤメは呆然とした様子で固まっている。


 自分が死んでいた? 

 あまりに唐突な話なのに、何故か、その方が辻褄の合う気がしてならない。


「魂だけがないって、そんなことが」

「ごく希にそういった例はある……いろいろな理由でそうなるんだが、少なくともアンタは本来人間が持つべきこんを宿していない。思い当たる節はあるかい」


 アヤメの眉間に皺が寄る。思い出そうとしても、思い出せない。


「私には、せいぜい半年分の記憶しかありません。それ以前は、分からなくて」

「そうか……」

「でも、スズを、あの子を守らないといけない、という気持ちは、覚えています」

「……分かったよ」


 ユーイェンは近くに置いてあった線香を取ると、机の上にあった香台を引っ張って何かの準備を始める。アヤメが物思いに耽っていると、程なくして甘い香りが漂い始めた。


「アヤメ、前世を知りたくはないかい」

「前世……はい。でも、できるんですか」

「ああ。アンタの事情も見れるしあの子との魂の繋がりも辿れる。ただ気をつけてくれ。前世それは本来、今世いまとは関係のない話。過去に縛られて現在が見えなくなるのはナシだよ」

「……分かりました。お願いします」


 椅子に深く腰掛けるように言われたアヤメは、その通りに身体を楽にし、目を閉じる。ゆっくりとした呼吸で頭の中の感情を鎮め、周りの空気と一体になっていく。


「これが終わったら、あとはアンタが行動する番だ。あたしも消える……いいね?」

「はい」

「始めよう。生死の境をブチ破る時だ。階段を下りる自分をイメージして――」








 秋の夜空の下、六畳の部屋に明かりが灯っていた。


 時計の針が夜の十時を指している頃、黒髪を一つ結びにしたセーラー服の少女が学習机に向かって手を動かしている。赤い背表紙の本が見える棚には彼女が今まで何度も開いて皺を作った参考書が並び、十一月のカレンダーでは過ぎ去った日付が×で消されていた。

 スマートフォンが、予め設定していた時間が過ぎたことを音で知らせる。少女の手が止まった。過去問、と書かれた紙の上部には、彼女の名前――「東雲 亜理沙」が記されている。


「よし……」


 亜理沙は立ち上がると身体を伸ばし、セーラー服を脱いで灰色のルームウェアへ着替える。すると、彼女のドアをノックする音が聞こえてきた。この時間に来るのが誰か知っているのだろう、終わったから入って良いよ、と返事をする。

 ゆっくりと開いた戸の向こうには、亜理沙と同じ色の髪をショートボブにした、自信のなさそうな女の子が立っていた。彼女が用事を終えるまで部屋の外で待っていたのだ。


「京華、どうしたの?」

「……お姉ちゃん、また、一緒に寝てもいい?」

「いいよ。寂しくなっちゃった?」

「うん」


 ピンク色のルームウェア――亜理沙と色違いのものを着ていた少女、京華は、姉に連れられるように一緒のベッドへ潜る。彼女は一冊の少女漫画を持ってきていた。

 枕元にあったリモコンで部屋の明かりを落とそうとすると、京華がそれを止める。


「お姉ちゃん。これ、読んだんだけど」

「京華が前に買ってた漫画じゃん。私も気になってたんだ、これ」

「その……」


 顔を真っ赤にした京華は自分の言葉で話すのを諦め、漫画を姉の手にそっと渡す。彼女が掛け布団で顔を隠している間、亜理沙はベッドで横になったまま漫画を読み始めた。

 中身は、引っ込み思案な少女が一生懸命に変わろうとする物語だった。それだけならばよくある話だが……主人公はある日、いつも自分を励ましてくれた姉に対して抱いた気持ちが、姉妹の関係を超えたものであることを悟ってしまう。そうして、思いの丈を打ち明けた、夜中に二人で隠れるように唇を重ねるのだった。


「ああ……」


 一通り読んだ後、亜理沙が京華の方を見る。布団の中から出ようとしない。

 亜理沙の頬はほんのりと熱い。枕元に漫画を置き、手で探るようにして京華の両肩をそっと掴む。大丈夫だよ、と声を掛けると、恐る恐ると言った様子で京華は顔を出した。


「あの、お姉ちゃん。私……」


 言葉が詰まる。だが、そんな妹を見つめる亜理沙の目は優しいままだ。

 彼女の無言の励ましを受けながら、京華は必死の思いで腹の中の言葉を伝える。


「お姉ちゃんのことが、好き」

「……ありがとう、京華」

「嫌じゃないの?」

「嫌じゃないよ。だって、私も京華のことが大好きだもん」

「こんな私でも?」

「そんな京華が好きなんだよ」


 ほっとしたのか、感動したのか、京華は目の端に涙を浮かべながら亜理沙に抱きついた。そのまま京華は首を伸ばして顔と顔を近づけるが、姉と至近距離で見つめ合うことがやはり恥ずかしいのか、額をくっつけるだけに留まってしまう。


「お姉ちゃん……明かり、消していい?」

「いいよ」

「……ちゅう、しちゃうよ?」

「うん」


 部屋の明かりが消えた。外の電灯の光が窓から差し込む。

 京華は姉のことをもっと感じようと、抱きしめ直してから口を触れ合わせた。ふるふると柔らかい互いの唇を押し合わせ、隙間から舌を入れて亜理沙の様子を窺う。

 妹の勇気に応えるように亜理沙も舌を伸ばした。唇を強く押し付け合いながら舌を絡める。京華は、大好きな「お姉ちゃん」とキスをしている背徳感、念願叶って自分の好意を受け止めてもらえた満足感で、戻れないところまで来てしまった。


 亜理沙の目が慣れてくる。京華は、狡い笑みを浮かべていた。


「お姉ちゃん、好き……」

「私も、京華のことが好き……」






 ところ変わって、舞台は昼の中心街となる。

 冬を間近に控え、お揃いのコートに身を包んだ姉妹は「デート」と称して外へ出ていた。とは言っても、これは京華の要望によるものだ。家で勉強してばかりの亜理沙を無理矢理引っ張り出した、という見方が正しい。


「あれ、前にあの建物で洋服売ってなかった?」

「再開発だって。お姉ちゃん、ずっと家に居たから知らなかったと思う」


 街のあちこちでクレーンが建材を持ち上げる中、その下では相変わらず様々な人々の営みが続けられている。早い店では既にクリスマスを念頭にした飾り付けが施されていた。

 今時期の亜理沙にとってはいいものではないが、街を多彩な色で染める電飾は京華の好きなもの。冬の夜は、普段は気の弱い彼女が前向きになれる、魔法の時間だ。


「お姉ちゃん、お昼何にする?」

「店は……うーん、今の時間はどこも混んでるね……」

「あ、だったらサンドイッチにしようよ。近くにいいお店あるんだ!」

「いいね。それじゃあ、道案内は任せたよ」


 人通りが多い中、亜理沙は京華が怪我をしないように注意深く周りを見る。案内されたのは一軒のサンドイッチ専門店。窓に張られたメニューには、肉と野菜を用いた多彩な色合いのメニューが並び、二人の目を楽しませていた。


「いいね、これなら食べ歩きできるじゃん」

「でしょ? どれにしよっかなぁ……」


 どれにしようか悩んでいる京華。亜理沙が微笑ましい顔でそれを見守っている。

 だが――遠くから、男女の悲鳴が聞こえてきた。


「ん?」


 亜理沙が振り返ると、交差点の真ん中で車が前傾姿勢のまま止まっている。事故だろうか。そう思った次の瞬間、車は「前」へ滑り落ち、地面の中へ飲み込まれる。


(穴……? いったい、何が起きて……)


 様子を見ようと近付いた者がいたが、その人が穴の縁に立つと足下が崩れ、穴へ落ちていった。交差点の真ん中に、大きな穴が空く。そこを中心に、道路が次々と沈み始めた。


「京華、逃げよう!」

「へっ……?」


 京華はようやく振り返る。事件の起きた方向を見て状況を把握した時、突然の出来事に身体を硬直させてしまった。その間にも、道路の崩落が二人の方へ迫る――


 時間がない。亜理沙は、決死の思いで京華に体当たりした。

 押し飛ばされた京華が店の中で倒れ込む。なんとかなった、そう思った瞬間。


「お姉ちゃ……」


 ――亜理沙の足下が、抜けた。

 崩れていく歩道。街を劈く悲鳴。店の入り口で座り込む京華が遠くなる。やがて、穴の底へ身体が叩きつけられると、痛みを感じる間もなく亜理沙は意識を手放した。地上で呆然とへたり込む、大切な妹を残して……

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