第33話 ユーイェンの館

 案内された建物の中は決して広くはない。五人入れば万々歳といった部屋には、龍の装飾が為された椅子や腰の高さほどある壺、八角形の鏡や香を焚く道具を置く机が鎮座している。あとは、占い師の女性とアヤメがようやく座れる程のスペースしかなかった。


「その椅子に腰掛けな。飾りは壊すんじゃないよ」

「気をつけます……」

「よし、それじゃあまずは自己紹介だ」


 第一印象が怒り顔だったためアヤメは何となく身構えていたが、水晶を挟んで座った彼女は柔らかい目元でアヤメのことを見つめていた。剣術が伸び悩んでいた時にカンナが見せてくれたような、慈愛と包容力に満ちた不思議な目だった。


「私の名前は……長生きしたせいで沢山あるが、一番有名なのは『ユーイェン』だろうね」

「……ユーイェンって、あの、神話を書いた」

「おや、最近の子は勉強熱心で偉いもんだ。そうだよ、アレは私が書いた……いや、書かされた、と言った方が正確だね。なんせ私自身中身はサッパリ分からないんだ」


 驚くアヤメの前で、ユーイェンと名乗る老婆は豪快に笑い始める。

 愛想笑いの一つがあれば良かったのだろうが、余裕のないアヤメは一切の感情が抜けた顔のまま合わせるように息を漏らすことしかできない。


「で、アンタ、名前は」

「アヤメです」「アヤメは何で悩んでるんだ」

「……ここでは、何を見てもらえるんですか」

「必要なもの、だよ。だが見つけるのは私じゃない。アンタが探せるよう手伝うだけだ」


 胡散臭い言動を前に立ち去りたい気分が芽生えたが、それさえも面倒になったアヤメは自分の悩みを掘り下げ始める。間もなく、脳裏に京華の顔が浮かび上がった。

 彼女に対する想いと正面から向き合うだけで、腹の底で熱を持ったいたちが暴れるような感覚に囚われる。無力感やどうしようもなさといったものの他に、一人の人物へこれほど執着している自分の小ささが恥ずかしくて仕方ない。


「――仲良くなりたい、人が、居ます」

「ありふれた悩みだね……それで、どういう人だい?」

「妹のような人です。出会ったのは最近ですが、彼女とはしばらく一緒に旅をしていました。私のような人を慕ってくれる、純粋無垢な女の子です」

「ふうん……だけどその様子じゃ、まだその子と距離があると思ってるみたいだ」


 熱くなった顔でアヤメは俯き、頷いた。自分の中で複雑に絡まった糸を、一本一本他人に解かれていくのがくすぐったくて仕方ない。


「それじゃあ、もう一つだけ質問をするよ」

「お願いします」

「アンタは、彼女にとっての、どんな人になりたいんだい?」


 質問に対してアヤメが即答できなかった。しばらく、天井の辺りで天秤がキコキコ揺れる音だけが鳴っていた。目をあちこちへ忙しなく動かし、明らかに落ち着きをなくしたアヤメのことを、ユーイェンは急かさず静かに見つめ続けていた。


「私は……」


 蘇るのは、京華が自分に笑顔を向けてくれた時の思い出。

 庚申寺で一緒に焼きそばを食べたあの日。

 飯店の一室で髪を乾かしてあげたあの日。

 図書館の一室で口付けを迫ってきたあの日。

 薬の力に駆られながらも、一生懸命に求めてくれたあの日。

 自分が落ち込んでいた時も傍に居てくれたあの日。


「……ずっと、あの子と、一緒にいたい」


 違う。それだけでは全然もの足りない。自分の中にあった、直視できない程に傲慢な欲望を、アヤメはそっと取り出してみせた。


「私は、スズの、一番になりたい……!」


 言ってしまった――アヤメは、重りが乗ったように背中を丸め、紅潮した顔を両手で覆い隠す。熱い鉄に似た激情が身体中を熱し、小刻みな震えとして表れる。

 ユーイェンは静かに頷くと、皺の伸びた手をアヤメへゆっくりと伸ばした。そのまま彼女の額に人差し指を乗せて目を閉じる。


 全身の脈が、触れられた一点に向かって波打つ感覚。それを指越しに感じ取っていた彼女はそっと手を離すと、驚いた顔に変わって座り直した。


「いま、気の流れを読ませてもらった。アンタの言葉を頼りに記憶を辿って、ほんの少しだけあの子の姿も見せてもらったよ。どうやら、嘘は吐いていないようだね」

「何か、分かりましたか」

「……これを知るには、相当な覚悟が必要になるよ。知ったからにはもう逃げられないし、聞かなかったことにするのもできない。それでも、聞きたいかい?」


 突然のことだった。だが、覚悟なら、アヤメの中では既に固まっている。京華のためならばどのような運命も受け入れる、その一心でアヤメは首を縦に振った。


「大丈夫です」

「じゃあ、心して聞くんだよ。アンタは――」




「――死んでいるんだよ。魂のない身体が、感情一つだけで動いているんだ」

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