灵南スクエア
第32話 腫れ物
灵南区で騒ぎを起こした次の日。これ以上目立ちすぎてはいけないということで、京華とアヤメはほとぼりが冷めるまでスザクたちと行動を別にすることとなった。
だが、京華とアヤメの間の会話は少ない。図書館での一戦を経てから、京華はすっかり自信をなくしてしまっていた。消失した指先とメンタルの回復を狙い、ひとまず二人はとある飯店の部屋を借りる。
(元気出さなきゃ……)
電気街から更に東に位置するネオン街「灵南スクエア」。
戦いで指先を失った京華は、ダブルルームの壁により掛かるように座り込んでいた。窓の外は化粧品や飲料、映画の広告が溢れる光の海だったが、カーテンは閉じられている。
隣では、座ったままのアヤメが、余裕のない表情で俯いていた。
アヤメの持ちかけた、二度目の「少し外を見て回らないか」を断ったところだった。塞ぎ込み、腕の中に頭を突っ込む京華は、アヤメからの視線すら怖くて仕方ない。得体の知れない悪意から逃れるため、京華は手を摺り合わせている。
「スズ」
「……なに?」
「もう少し、隣にいていいか」
「別に……いいよ」
ただただ、辛い。
アヤメがどうにか繋がろうとしてくれているのが分かって、京華は今の自分が余計に嫌になる。ここでもう一度彼女と立ち上がれれば全てが解決するというのに、身体全体に深く浸透した重苦しい感情はそれを許してくれない。
「アヤメちゃんは、あの時、怖くなかった?」
「……怖かったよ。でも、終わったことだ」
「この旅が終わったら、それも、終わったことになっちゃうのかな」
「そんなこと言わないでくれっ」
大きな声が出た。アヤメははっとした後にまた黙り込んだ。
「……すまない。外で、食べられるものを買ってくる」
アヤメは部屋から出て行った。そして、部屋の隅に座る彼女だけが残される。一人で寂しい気持ちになると同時に、少しだけ安心してしまっていた。
(また……迷惑掛けちゃった)
京華が「繭」の中で意識を失ってからの顛末は聞いていた。スザクとゲンブが助けに来て犠牲は出ずに済んだが、自分が支えになれなかったことが京華の心を蝕んでいる。一人で戦えなかった、逃げただけで終わった不甲斐なさが許せなかったのだ。
(私、弱いから、やっぱり死んじゃうのかな)
天井で回るファンを眺める。カーテンから漏れる光を嫌がるように布団へ潜る。
(怖い……)
外へ出ていたアヤメは、閉じた店のドアに貼られた紙をじっと見つめていた。
サンドイッチ専門店「スクエア」営業時間変更のお知らせ――折り悪く、開店までにはまだしばらく時間がかかるようだった。京華に持って帰る食べ物として、これが最善と直感で判断したアヤメは、その店が開店するまで待つことを余儀なくされた。
(仕方ないな、この辺りでも見て回るか……)
京華が必死の思いで回収してくれた「神話」はゲンブに渡され、そこでインターネットを介してカンナたちと解析されている。深淵本部の場所も間もなく割り出せるそうだ。事態が進展するまで二人は戦いとは無縁の生活を送ることができる。
だが、「救世主の死」という文言や、禁書庫での経験が京華の意志を奪ってしまった。無理もない。
(……心配だ。早く戻らなければ)
目を閉じれば、布団の中で泣いている彼女の姿が浮かび上がる。
帰って側にいてやりたい――アヤメの頭は不安と義務感でいっぱいだ。しかし、何か買ってくると言った手前、手ぶらですぐに帰るわけにもいかない。
下を向いて歩いていたアヤメは、ふと足元にポケットティッシュが落ちているのに気付く。どこかのガールズバーが女性従業員を募集する際に配った物だろう。そこに書いてあった「自分らしい生き方を見つけよう」という言葉に彼女の足が止まった。
「自分らしい生き方……」
アヤメは、自分が己を排して今日まで過ごしてきた事実を思い出した。
記憶を辿る限り、彼女はずっとカンナの傍で剣の練習に明け暮れ、一人の武人として将来を期待されていた。彼女自身もそれを受け入れ、今日ここまで戦ってきた。
(自分らしいなんて、今更過ぎる)
(私はただ、スズの傍に居れれば……)
(……この旅が終わったら、私はどうなるんだ?)
深淵の討伐。それこそが、アヤメという人物に与えられた、一世一代の大仕事。
それが果たされ、めでたく「物語」が完結した後を考え始めた時、アヤメの目の前が真っ暗になった。慣れ親しんだ雰囲気の街から隔絶され、一人だけ奈落の底へ落ちたような孤独感に苛まれる。
京華が元の世界に帰り、アヤメが救世主としての役目を果たしたら、どこへ行くのだろう。あれほどアヤメを求めてくれた少女は母のもとへ帰ってしまうだろう。カンナは前のように家に住まわせてくれるかもしれないが、そのまま世話になるのは迷惑かもしれない。スザクとゲンブの二人を邪魔をするわけにもいかないだろう。
考えてみれば、この世界での「子供」の頃の記憶もない。そもそも自分は「
(……ああ、ダメだ、こらえろ)
頭の中が揺れる。このままでは狂ってしまう。自分を慕ってくれるいたいけな少女の顔を必死に思い出す。そこへ――
『貴女の声は、亜里砂に……京華の死んだお姉ちゃんに、そっくりね』
京華の母の声が、蘇った。
アヤメの最後の避難場所が黒く蝕まれていく。今まで、笑顔を向ける彼女が見ていたのは、もしかしたら、自分ではなく……
「――ああああっ!」
道の真ん中で叫んだアヤメは、周りの視線から逃げるように路地へ駆け込んだ。
隙間のような道には小さなバーや個人商店が並んでいたが、今の彼女にとっては全てがどうでもよかった。鉛のように重くなった身体を前へ倒し、壁沿いに手を当てながら道の奥で地面に両手を突く。
息が上がっていた。目がかっ開いていた。視線をあちこち飛ばしながらアヤメは胎児のように転がり、腰に佩いた大太刀を大切そうに抱えて目の端に涙を浮かべる。
「あぁ、あああああ、あああああああああああ」
手のひらをコンクリートへ力任せに叩きつける。足をばたばたと動かし、近くに置いてあった空のポリバケツを蹴り飛ばす。
「助けて! 助けてくれっ、スズ!」
鼠のように丸くなったアヤメ。暗がりを求め、倒れたバケツへ頭を突っ込んだ。
「教えてくれ! 私は誰なんだっ! 私は、私はどうしたら……!」
路地に響き渡る、一人の少女の悲鳴――そんな「底」で苦しむ彼女を現実へ戻したのは、袴越しに尻を叩く一本の杖だった。
「さっきからやかましいよアンタ! 客じゃないならとっと出ていきな!」
「ひっ!」
後引く痛みに悶えながらも、アヤメはひとまずの山を越えて起き上がる。
そこに立っていたのは、金色に光る布と冠に身を包んだ一人の老婆。手には、先が渦を巻いた古木の長い杖が握られていた。先程はこれで叩かれたのだ。
「ご、ごめんなさい……」
「で、アンタは客なのかい? そうじゃないのかい?」
「すぐに出て――」
「質問に答えな。どっちなんだい!」
高圧的に迫られてパニックになったアヤメは周りを忙しなく見回しながらどうにかこの場を逃れようとする。するとその目に「占い」の文字が飛び込んできた。隣に書かれている金額もそれほど高くはない額だ。
判断力が衰えていたせいもあり、アヤメは対立を避ける選択肢を取ってしまう。
「客、です……」
「そうかい。それじゃあ入りな。何かの縁だ、安くしとくよ」
一瞬のうちに機嫌を良くした占い師は背を真っ直ぐ伸ばして近くの建物へ入っていく。まさか今更「帰ります」など言えるわけもなく……アヤメは彼女について行くしかない。
「不思議な占いの店へようこそ。
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