第29話 暗闇遊戯
目の前で邪悪な笑みを浮かべるマリー。彼女の一言で震え上がった京華は、本を抱えると近くの作業台の下へ潜り込んだ。埃を吸い込まないようにしながら床を這い、辿り着いた机の下で丸くなって息を潜めた。
眼前を、ぎこちない動きの西洋人形がゆっくりと通り過ぎていく。腰にはあの電気ランタンが下がっていて、その光が異形の索敵範囲になっていた。もし彼女の「お友達」に見つかり、捕まってしまったら。そんな未来は、考えたくない……
「おねえちゃん、かくれんぼがしたいんだ。いいよ、殺されたら負けね!」
少女の楽しそうな声が禁書庫の冷たい壁で跳ね返る。
京華を狙う怪異の足音は遠い。頭の中で地図を作り、出口までの道筋を思い描く。
(私、逃げてばっかり……でも、少しは、成長したはず……)
都合の悪いことに、巨大人形は出口のある方角を
(待ってたら、アヤメちゃんが、きっと助けに来るから、それまで……)
戸の外ではアヤメが見張りの自律機械を相手しているから、それが済んだら中に入ってきて今の状況をなんとかしてくれるに違いない……そこまで思い至った時、京華は自分の思い違いに行き着いて思考が止まる。
外に彼女がいるなら、そもそもマリーは中まで来られなかったはずだ。
(――アヤメ、ちゃん?)
いつも、危険な状況に陥った時に力を貸してくれた、自分と同じ顔の少女。幽灵へやってきた時に助けてくれて、戦いの方法を教えてくれて、街の歩き方を教えてくれた彼女はいない。今この場にいないことはおろか、きっと、あの重い扉の向こう側にさえ。
京華はひとりぼっちだった。
すぐ傍を殺人鬼が徘徊する中、手を差し伸べて救ってくれる者は誰もいない。
(ど、どうしよう……)
華奢な腰にはいくらか使い慣れた柳葉刀が差さっている。だが、京華は一方的な殺意に気圧されてしまっていた。そんな彼女に武器が扱えるわけがない。でも動くしかない。殺される可能性もあるが、じっとしててもいつか見つかってしまう。
「隠れてばっかりだとつまらないよ。おねえちゃんは『救世主』なんでしょ?」
ちがう、私はそんなんじゃない、と京華は首を横に振る。俯いていると、スマートフォンの入っているポケットが微かに光った。
タイトルは「大丈夫?」。状況を打破するヒントが書かれているわけではなかったが、このメールに対して助けを求める内容を返信する。文章を打っている時、京華はほんの一瞬だけでも死の恐怖から逃れることができた。
(……そうだ)
スマートフォンのアルバムを開き、一年前の日付を探る。昼の公園の屋台で買ったクレープを姉と頬張る、何気ない日常の写真だった。二人とも、泣けるくらいに幸せな顔だ。
(お姉ちゃん、私に、力を貸して……)
目を閉じて深呼吸。それが、カンナから貰った「記憶」を呼び起こすきっかけにもなる。絡まった糸を解くように、京華は過去の光景を少しずつたぐり寄せて――。
『よーしアヤメ、これからかくれんぼの時間だ。この区画がいいだろう』
『いいか、私が目を閉じて時間を数えた後、じっと息を潜めて気配を殺すんだ』
『途中で隠れる場所を変えるのもありだ。ただ、その際は相手の死角を突くように――ああそうだ、見つかったらたぁくさん『お仕置き』するから覚悟しとけよ……』
頭に浮かんだのは、カンナとアヤメが、幽灵のどこかで稽古していた記憶だ。今、最も頼りにしたい二人が遠くにいる、そのことが恨めしい。
ランタンの光が遠くへ行ったのに合わせ、京華は、机の下から這い出た。足音を立てないよう、忍び足で人形の跡を付ける。本棚の上にマリーが座っていたが、彼女は薄闇の中に京華を見つけても、わかりやすく人形をけしかけることはしない。
本当に遊んでいる。自分の介入は「ズル」と言わんばかりにくすくす笑っている。
「あれ、おねえちゃん、別のところに隠れるんだ……」
言い返してやりたい気持ちを堪える。京華は本棚に背中をくっつけて息を整えた。
周りは、見覚えのある景色だった。出口はすぐそこ――だが、今、彼女が立つ場所の向かいには、マリーの操る「やつ」がいる。足音が、左右へ動いている。口から心臓が飛び出すような極度の緊張が、京華の身体を硬く縛り付けていった。
『隠すのは、息遣いと恐怖の二つだ』
『見つかりたくない、と思っていると簡単に見つかるぞ』
音が少しずつ回ってくるのに合わせ、出口の扉の前までやってくる。手を掛けようとしたが、その扉には赤色の光を放つ電子パネルがあった。施錠されている。
(なんで、こんな時に……!)
焦る京華を追い立てるように、本棚の裏から、揺れる光が徐々に近付いてきていた。急いで隠れる場所を探す。ここにも作業台があった。
転がり込むと、目の前に蜘蛛の死体がひっくり返っていた。
「ひっ……!」
思わず悲鳴を漏らした京華。慌てて口を塞ぐが、遅かった。京華の声を聞きつけた人形が、作業台の方へゆっくりと向かってくる。関節を鳴らす音と共に、巨大な影が迫る。
目の端には涙が浮かんでいた。京華は、腰の柳葉刀で蜘蛛の死体を遠くへ弾き飛ばす。もっと奥に隠れようと、スマートフォンの明かりで照らしながら、作業台の下を這った。下には本の詰まった段ボールがある。それを引きずって、人が一人入れる隙間を作る。
(う、重い……ああっ! はあっ、変な姿勢だから、っ、腰が、痛いっ……!)
隙間に華奢な身体を捩じ込み、頭一つでも奥へ。そして、審判の時が来た。
「おねえちゃん、どこにいるのかなぁ」
巨影が、膝を鳴らしながら身を屈めた。赤い目がぎらりと光る。
滑稽に作られた表情の下に、血の色で汚れた口があった。ずんぐり太った手が机の下へ滑り込む。そして、標的を求めて伸ばされた指が、京華のすぐ目の前の床をトントン叩いた。込み上げる重苦しい感情を腹の底へ再び沈め、しっとりと寒い世界の中を耐える。
(お姉ちゃん、傍にいて……お姉ちゃん!)
指が、ゆっくりと離れていく。
人形が姿勢を起こす。ランタンが揺れた。光が、京華の隠れていた場所から遠ざかる。追っ手は撒いた。机の下を出て禁書庫の出口へ辿り着いた京華は、スマートフォンのメモ帳を開いて電子錠のパスワードを打ち込んでいく。
だが、先程まで京華のいた机から、積まれていた本が音を立てて床に落ちた。
音に敏感な京華が一瞬だけ両肩を上げる。パネルを操作する人差し指が、同じ場所をもう一度タッチしてしまった。赤いランプが点滅し、ビイッ、と警告音が鳴る。
(あああああああっ、なんでっ……!)
パスワード入力はリセットされる。最初からだ。
顎を震わせ、瞳を潤わせながら京華は番号を打ち込む。ランプの色が緑に変わった。背後から不規則な足音が迫る中、京華は禁書庫の外へ転がり込んだ。
休む暇はない。本を抱えたまま階段を駆け上がる。辺りには自立機械が倒れていた。
「アヤメちゃん! アヤメちゃん!」
今一番会いたい人の名前を呼びながら図書館を飛び出した。
電気街はしんと静まりかえっている。以前との違いは、誰かがどこかへ避難している様子もないこと。そして、街のあちこちで銀色の光が反射していること。
「アヤメちゃ……」
かさり、と硬いものが擦れた。京華は立ち止まり、音のある方向――上を向く。
電気街の高い天井に向かって生えるコンクリートのビル群。それらから線状の光が何本も伸び、遙か頭上に環状の模様を描いていた。
その真ん中に、八つの足を持つ巨大な節足動物が蠢いている。蜘蛛だ。それは、京華を赤い六つの目で睨みつけている。本能的な嫌悪感に襲われた少女は視線を逸らして隠れようとするが、妙に重くなった身体をふらつかせて転んでしまう。
「いっ……な、なんで……」
咄嗟に前へ出した左腕に、白く光る糸が何本も絡みついていた。
見ると、京華の身体は同じような糸に包まれ、トリモチのように剥がれなくなっている。すぐ立ち上がろうするが、時間の経過で糸は硬質化し、上体を起こすことも許されない。
図書館を出た時から、蜘蛛の糸に全身を縛られていた――だが、気付いたところで京華には何もできなかった。刀へ手を伸ばそうとしても、今となっては届かない。
「やっと捕まえた。蜘蛛さんを
頭上から降ってくるのはマリーの声だった。
白い糸によって様変わりした電気街を、黒いゴスロリドレスのマリーは平然と歩く。そして倒れたまま動けない京華の枕元で顔を覗き込み、くすくすと笑い始めた。
「そうだ、これ使ってみる? さっき拾ったんだ……」
マリーは、「長い刀身の太刀」を京華の目の前に突き立てる。
頭の中を埋め尽くす最悪の顛末。磨り減った京華はそれを振り払えない。
(アヤメちゃん)
(ごめんなさい……ごめん……)
心が黒い
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