第26話 あやうく

 スザクとゲンブのただならぬ様子を見たアヤメ、そのすぐ背後に立つ京華。振り返るのさえも憚られる。京華の変化を察してもどうしたらよいか分からず立ち尽くすだけで、お腹の辺りへ両腕を回された。


「……スズ?」


 髪の間からうなじへかかる京華の息。熱く、湿っている。

 動きを拘束されたアヤメは何も抵抗できず、後ろから密着されてしまう。


「アヤメちゃん」

「急に、どうしたんだ」

「なんか、変な気分になってきちゃった……」


 道着の襟元をなぞる細い指が、今にも中へ滑り込んでしまいそうだった。アヤメは我を見失わないよう深い呼吸を試みるが、その度に残香が鼻奥を擽っていく。身体を包み込む暖かさと幸福感が頭を少しずつ焼いて狂わせていく。

 腹の中が熱い。身体の持ち主の努力など意に介さず、呼吸は浅く変わっていく。


「スズ、すぐそこに、二人が」「嫌なわけじゃないんだ?」

「意地悪なことを言うなっ……」


 袴越しに鼠径部を辿られたアヤメは身を捩る。だが、そんなことでは京華は振り払えない。遂には腰から力が抜け、壁にもたれかかろうと体勢を崩した時。

 目の前の扉が、ぎいっと開いた。


「あ」


 京華に絡まれたアヤメの目の前で、ゲンブが二人の様子を覗き見していたのだった。背後にはスザクが立っており、ゲンブのゆるい服の裾から手を入れるように抱きしめている。


「……その、いつから」

「……お前が、覗いてきたあたり?」

「ああ、そうか、はは……っ」


 遂に、京華の手が道着の襟から懐へ忍び込んだ。慣れない感覚に戸惑っているアヤメの真正面ではゲンブも殆ど同じ目に遭っており、スザクの拘束から逃れようと身体を前後に動かしている。スザクもまた、正気を失っているようだった。


「アヤメちゃん、やっぱりおっきい……」

「置いてくなぁ、ゲンブ……」

「ゲンブ、これは、まずいのでは……ひっ」

「見ないでくれっ! ボクだって、はうっ、恥ずかしいんだ……!」


 アヤメの脳裏に浮かぶ、先程のスザクとゲンブの寝姿。京華の手の感触に狂わされそうになりながらもゲンブと一緒になんとか状況の打破を図るが、一度スイッチが入ってしまった二人を元に戻す方法は見つからない。もうダメかと思った瞬間――

 玄関のハッチを、軽いものがコツコツとつつく音がした。


「ん……?」


 それまでゲンブしか見ていなかったスザクが動きを止め、音の方を向く。

 何度も繰り返される打突音の中に、こかあ、と鳥の鳴き声が聞こえてきた。


「カラス……きっと、師匠からの伝言だ」

「アヤメが行ってもらえる? その間にスザクを正気に戻しておくから……」

「分かった。ほらスズ、師匠とお話の時間だからしゃきっとしろ」

「うぁぁ……え、カンナさん、来てるの?」


 部屋の入り口へ向かったアヤメ。まだ頭に霧がかった様子の京華がフラフラと続く。彼女が最後に言い残した「カンナ」の言葉を聞いて、スザクとゲンブは目を覚ました様子で互いの顔を見合っていた。




 アヤメが連れてきたのは一匹のカラスだった。幽灵の闇に紛れる黒い身体は表の世界でもよく見るそれだが、足首には細長い白の紙が巻き付かれている。さながら伝書鳩のようだが、それとは別にもう一つ、京華たちを驚かせることがあった。


『あー、あー、アヤメ、私の声聞こえてる? スズちゃんもそこにいるね……』

「しゃべった!」「問題ありません、師匠。こちらの姿も見えてますか」

『大丈夫だよ。いい部屋に泊めてもらえたじゃん』


 カラスに向けて話しかけているのを京華が覗き込むと、瞳の奥にカンナの顔が映っているのが見えた。濡れタオルで身体を拭いているスザクとゲンブも後ろの方から二人の様子を窺い、目の前の奇妙な光景からどうにか情報を得ようとしている。


「それで、何か分かりましたか」

『ウン、大当たりを引いたみたいなんだ。スマートフォンは直ったかい?』

「なんとか、協力してもらって」

『そいつぁいいことだな、んじゃあ手紙のアドレスにメールをしてくれ』


 カラスの足に巻き付けられた手紙の中には、そこには彼女の言った通りに「@yurin」で終わるメールアドレスが書いてあった。京華が手元のスマホを操作してメールを送ると、程なくしてカンナから返信が来た。

 タイトルは「幽灵救世神示」。アヤメも横から画面を覗き込んで驚いた顔になる。添付されたファイルを開くと、そこには糸で綴じられた古書の写真があった。


『届いたかな? 灵西区の深淵を潰して回ってたら見つけたんだ』

「これって……神話の原本ですか?」

『少なくとも、中身は同じはずだ。ただ……これ、人の言葉で書かれたものじゃなくてね』


 神話、という言葉を聞いたゲンブが二人の元へやってきて、同じように画面を覗き込んだ。あとからスザクも来る。カラスがきょろきょろと周りを見た。


『ん……かわいらしいお嬢ちゃんたちがいるね?』「本の話を」『おっといけない。その本を読むには、私たちが読める形に翻訳する必要がある。だけど、深淵は翻訳本や情報サイトを片端から潰してしまった。今から翻訳を始めるとどうしても時間がかかってしまう』

「やっぱり、都合の悪いことが……」

『断定はできないけどね。そこで二人にも質問だけど……何か、そっちで神話の中身についての話を聞かなかった? ガセに近い情報でも構わない。ある程度中身が割れていれば翻訳作業もかなり楽になるんだけど……』


 京華は瞼をぱちくりとさせると、前にゲンブから貸してもらった神話のファイルを引っ張り出してカラスの前で開いて見せた。過去に彼女がインターネットでかき集めたありとあらゆるゴシップが記録されたものだ。


「ゲンブさん、これ見せてもいいですよね」

「構わない、です。ボクも、中に何が書いてあるか知りたい、ですし」


 妙に堅い口調のゲンブから了承を得た京華は、自分がファイルの中で見聞きした話をカラス越しにカンナへ伝えていく。そうして一通りを聞き終わった後、カンナはカラスをぱたぱた羽ばたかせて満足を表現した。


『よし、これだけあれば十分だ。二人は引き続き、神話についての情報を探って深淵との戦いに備えてくれ……後ろの二人にも後でお礼を送らなくちゃね』

「あ、あの、カンナさん、ですか? ボクはゲンブって言います……」


 意外にも、話が終わったところで飛び出してきたのはゲンブだった。カラスの瞳に映る剣豪をじっと見据えながら、どこか恍惚とした表情になって口をぱくぱくとしている。


『いかにも。私ってそんなに有名人だったかな』

「もしかして、灵西女人街の、カンナさん……?」

『おおっ、そうだよ……って、ああ、それアヤメにはまだ伝えてなかったんだけどなぁ……まあいいや、どうせバレるの時間の問題だったし』


 それを聞いたアヤメの表情が変わる。


「師匠……陰で何やってたんです?」

「こっ、この人は、凄い人なんだよ! たった一人で区の指定地を買収して女だけの街を作ったの! 女の子同士でいちゃいちゃしてるのを見に行くお店がいっぱいあって……」


 目をキラキラさせて語り始めるゲンブ。京華とアヤメはしばらく頭を回した後、怖れにも近い感情を露わにカラスの瞳をじっと見つめた。

 うーん、そういう反応するよねぇ、とカラスはカンナの声で鳴いたのだった。

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