第20話 3秒ルール
――京華とスザクが買い物へ向かっていた頃、留守番をしていたアヤメとゲンブはそれぞれがコットと椅子の上でぐったりと伸びていた。ゲンブのディスプレイの隅ではいつまでも動かない「98%」の表示が光っている。
「……ゲンブ、失礼かもしれないことを伺うが」
「なに」
「スザクとの馴れ初めを教えてくれ。こちらが聞かれっぱなしなのも癪でな」
「ふうん……まあ、いいよ」
ぎい、とゲーミングチェアが回る。ゲンブは椅子が倒れない程度に肘置きへ体重をかけながらアヤメの方を向き、ほんの僅かに目線を上げた。
「スザクはね、昔は、
「ああ……確かにそんな感じだな」
「それをボクが雇ったんだ。まだユーリネットの常識に疎かった時、あろうことかダークウェブにアクセスしちゃって……それで怖くなって、呼んだのがあいつ」
ダークウェブと呼ばれるサイト群では一般的なネットの世界にはない想像を絶するような商品やサービスが流通している。ログインするだけでコンピュータウイルスに感染したり個人情報を抜かれたりする場合もあり、決して興味本位で入っていい場所ではない。
「すっごく不安だったのに、スザクが初めて家に来た時、そんなものは全部吹っ飛んだ。ボクのことを守ってくれる人はこんなに綺麗な人なんだって……」
「その……今も、傭兵契約は結んでるのか?」
「建前上はね。ある日、とても寂しい気持ちになっていたボクは、クライアントの立場を利用してスザクと一緒に寝たんだ。そこで、あいつも同じ気持ちだってことを聞いて……」
「立場を利用って、それは――」
「自分でも卑怯だと思う……でも、我慢できなかったんだ。お前も分かるだろ? 一時の衝動なんて
ゲンブが捲し立てるのに気圧されたアヤメは、彼女が恍惚とした表情でゲーミングチェアの肘置きを抱きしめる様子を呆然と見ているだけだった。自分の世界に入ったゲンブを尻目にアヤメは呼吸を落ち着かせ、身体の中で陰の気を回し始める。
高速代謝。呼吸を整えて体内の気を循環させて代謝を促し、傷の修復速度を上げられる技だ。アヤメがカンナから聞いたところでは、時間を掛ければ身体の欠損も直せるが、その分、陰陽の気と操気力が要求されることになる。
「大分楽になってきたな……ん?」
師の教えを思い返していた時、アヤメは自身の右手が薄くなっていたことに気づく。手の甲には斑点模様が浮き、ほんの僅かずつ、粉が浮き上がるように消えている。損傷部の回復に陰気を回し過ぎたせいで、身体全体の陰気の濃度が低下してしまったようだ。
「なんてことだ。スズはまだ買い物か……」
「んん……あれ、アヤメ、葯はないの? 薬みたいなやつ」
「旅に出る時、師匠が、なくても問題ないって……」
「いざという時はスズランとヤればいいってわけか……じゃあ、今は」
「マズい」
陰の気が充満するこの世界では、アヤメのような宵鬼は身体が「
身体の一部が塵化してもすぐに死ぬことはない。だが、たとえ戦いに慣れたアヤメでも、自分の身体が少しずつ消えていく感覚には本能的な恐怖を感じずにはいられない。
「なあ、アヤメは確か、
語りかけてくるゲンブを前に、アヤメは驚いた表情で頷く。
「実は、ボクは、
「……いいのか。スザクがいる手前で」
「あんたはスザクのお気に入りだから、三秒ルールだ。ボクの気が変わらないうちに」
椅子から立ち上がったゲンブはコットの近くで膝をつく。アヤメが僅かに口を開いた後、ゲンブはアヤメの身体に手を乗せ、ひと思いにその唇を覆ってしまった。
「んっ――」
アヤメの中に溜まっていた陽気が喉を一気に上り、白い粘り気のあるものとなってゲンブの口へ吸い込まれた。アヤメが心地良い声を漏らす。ゲンブの手が力む。大体を吸い終わったゲンブは口を離し、唇に付着した物を手の甲で拭いて舐めとった。
「……これでいいだろ、アヤメ」
「七秒だった」
「うるさい! こんなの二度とごめんだからな! ったく、なんでこんなことに……」
顔を真っ赤にしながらゲンブは釘を刺す。時を同じくして、頑なに98%で動いていなかったゲージが遂に100%へ到達した。アヤメの表情から察したゲンブはすぐさまゲーミングチェアに座って椅子を回し、インストール完了、の表示を前に両腕を上げる。
「よし、これで無線でユーリネットに接続できるようになったぞ。ご丁寧に向こうの文字に翻訳する機能もつけてやった! あー仕事終わり、ボクはもう動かないからね」
「感謝する。これでスズも喜ぶな……使ってみてもいいか?」
「勿論。一応、コードは抜かないでね」
身体の調子が元に戻ったアヤメが起き上がり、ゲンブのコンピュータに接続されていた京華のスマートフォンを手に取る。最初はただ真っ暗な画面だったが、すぐにセンサーが彼女を認識してパスワードを入力する画面が現れた。
固まるアヤメを見かねたゲンブは、横から左手を伸ばして人差し指でちょいちょいといじってロックを解除する。中を解析する際にアカウント関係のデータを覗いたのだろう。
「向こうの世界の写真もあるかもしれんな」
「あんまり見ない方がいいよ。他人の端末を勝手に探るのはトラブルの元だからね」
「それもそうか。後で見せてもらうことに――」
元の位置に置き直した後、ゲンブの部屋にマリンバの音が響き始めた。京華のスマートフォンの画面には着信中の通知が表示されている。相手を確認した二人ははっとする。
そこには「お母さん」の四文字があった。
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